荒木源太郎著「原子物理学」倍風館(1963年刊)の 2-3.光電子、4-1.光電効果、4-2.光子 から引用。ただしかなり改変しています。
エルスターとガイテルは真空管中での光電効果の先駆的研究を行つたのですが、彼らが最初の“光電管”を作ったと言える。
[補足説明1]
1880年代の後半に解ってきた上記の事実は重要です。すなわち
光電効果が生じるか生じないかは金属に照射する光の波長(振動数)に関係すること、光の波長がある程度以下の短い(振動数がある程度以上高い))光でないと光電効果は生じない。
光電効果が生じる限界波長(限界振動数)は標的金属による。アルカリ金属の様に反応性の高い金属では割と波長の長い光(赤外領域の光)でも光電効果が生じるが、安定な金属では紫外線の様に波長の短い光でないと生じない。例えばアルカリ金属の中でも特に反応性の高いRbなどは赤熱したガラス棒が放射する赤外線でも反応する事が解った。
また、ZnやAlの様に比較的陽性度のある金属は日光などの可視光線でもこの効果は起こるが、金属表面を十分磨かないとこの効果が確認できない。すなわち、表面が酸化するなどして古くなると効果が減退することも解ってきた。
その為、光電効果の実験は真空にした容器内に封入された、表面の綺麗な金属で実験しなければならないことも解ってくる。
上記の(4)Lenard 1902年論文は別稿で引用。
[補足説明1]
1902年の論文でレーナルトが報告した光電子のエネルギー値には最大値があり、それが、光の強さに無関係である事の発見はとても重要です。
そのとき、この発見の鍵になるのは、放出された光電子の持つエネルギー値(特にその最大値)をどの様にして測定するのか?です。そのやり方には二つの方法があります。
【方法1.】
物体を絶縁して電位計につなぎ、真空中においてこれに光を当てるとこれが徐々に帯電するが、周囲の電位を 0 に保っておけば無制限に電位は昇り得ない。なぜなら電位が昇ると言うことは正に帯電すると言うことであり、その事による引力のために負電荷である光電子が物体から飛び出ることができなく成るからです。
このことは、もし物体が帯電していない状況で光を当てた場合には、上記の最大帯電位を V とすると (1/2)mv2=e・V で与えられるエネルギーを持って飛び出ることができることになります。
だから、上記の V を用いて計算できる e・V の値が光電子の持ちうる最高の運動エネルギー値であることなります。こうして最高の運動エネルギー値を測定できます。
【方法2.】
二つの相対する電極を置き、一方に光を当て放射される電子が対板電極に達することによって生ずる電流を測定する。二つの極板の間に電子を加速する向き、あるいは逆に減速する向きに電圧をかけ、この電電圧 V と電流との関係を見る。
光電子放射電極に対して、対面する電極の電位を下げていくと、光電子による電流は減少していきます。その電位差Vが電子の最高エネルギーへに達すると電流は
0 になる。
一般にVなる電位差のときに (1/2)mv2>e・Vなる電子のみが対板に達するのですから、電流とVの関係より放射電子の最高エネルギー値を知ることができます。
ただし、以下の説明を読まれれば解るように、このやり方で測定される電位差Vが実際に光電子の持つ運動エネルギーの最大値の決定に使えると言うことが確定するまでに、様々な困難を乗り越えなければならなかったのです。
その事は4-1.3.[補足説明4]で引用していますRiehardson and_Comptonの1912年論文を読んで見られれば解ります。
一般的には【方法2.】が用いられます。そのため装置は基本的に下図の様になります。
光を受ける金属の電位を0として、対面する電極に正負の電位を与えて、その電圧を変えて真空管を流れる光電子の電流値を計測する。
もし、受光電極から解放された光電子がすべて一定の速度(運動エネルギー)を持つのならば対面電橋の電圧値を変化させると、真空管を流れる電流値の変化の様子は下図の様になるでしょう。
すなわち、対面電極にかけた電圧がある大きさVminに達しない内は電流は電圧に依存しない一定値となるが、V=Vminまで電圧が下がったところで電流はたちまち0まで減少する。
この電圧は、電子の運動エネルギーと電子が抑制電場に対して打ち勝つためにしなければならない仕事とが等しいとき、つまり次式が成り立つときの電圧Vminです。
所が、実際の実験結果は下図の様になだらかに減少した。その時V=0から電流値が減少を始めるのでは無くて、V>0のある正の値V0から減少を始めた。
電流が徐々に減ることは解放された電子が一つの定まった速度を持つことはなくて、連続する一連の速度を持つと考える事で説明できる。そのとき電流曲線を電圧で微分した勾配関数のグラフ(下図赤曲線)が各抑制電圧に対応したエネルギー値を持つ電子数の分布を表すと考える事ができる。
このとき、困った事情が生じます。すなわち、V→Vminにしたとき電流値の減衰曲線が横軸に交わるのでなく接するようになることです。これは 電流 →0 となるときの臨界電圧Vminを読み取るのを非常に難しくします。
さらに、もう一つ困っるのは電流値の減衰がV=0から始まるのでは無くて、V>0の正の電圧値V0から始まることです。本来、対面電極の電位が正値になれば、受光金属の電極を出た(負の電荷を持つ)光電子はすべて対面電極まで移動するはずです。そのため、照射光強度が一定ならば、その電流値はV>0の部分では、電流値は常に飽和して一定値になるはずです。所が実験事実はV0>0の部分から電流値の減少が始まっていたのです。
これは、受光電極を構成する金属の“接触電位”によるものなのですが、問題なのは、受光電極の金属の種類により接触電位はそれぞれ異なるために、上図の電流値が減少を始める開始電位V0がバラバラになる事です。つまり接触電位の違い(つまり金属の違いにより)により、曲線全体を左右に移動することになる。
さらに、この時代までの真空技術は未熟であったために、電極表面の酸化等による表面の汚れが測定値の不確かさを生じていた。
そのため、Einsteinが光量子仮説の論文を書いた1905年当時は、光電効果の光電子電流がゼロになる電圧や飽和電流が減少を始める電圧と、照射光強度・照射光波長・標的金属種などとの関係は混沌とした状況だったのです。
ただし、レーナルトやその他の人々がが明らかにした【光の強度を変えると光電子数(飽和電流値より解る)は光の強度に比例して変化する(下図参照)。】
は、前述の光電子管を用いた研究で1905年までに知られていました。
[補足説明2]
本項の最初に述べたレーナルトの発見した事実は、古典論に矛盾します。すなわち、【光電子のエネルギーが照射した光の強度に比例しない】を古典論で説明するのは困難です。このことに付いて補足します。
J.J.Thomsonの実験などから、金属などの物質中に電子が存在する事は当時知られていました。そのとき電子が物質内を自由に動き回っているのか、あるいは束縛されているのかは未知でしたが、いずれにしても電子が光を吸収して飛び出すのは光の電磁場の振動によって電子の電荷が揺さぶられて飛び出すと考えられていました。
つまり光の波が入射して、電子がこの波の電磁場振動に共振し、電子は光の波からエネルギーをもらって次第に大きな振幅で振動する様になり、やがで物質の外に飛び出てくる。この推論によると
光電子の平均エネルギー
となって、レーナルトの実験結果(1902年)と相容れない。
更に補足しますと、1905年までに解っていた【光を当てると瞬時に光電子が飛び出る】を古典論で説明するのは困難です。このことに付いては後ほど4-1.4.で説明します。
[補足説明3]
現在の教科書では往々にして、Einsteinの光量子仮説の正当性を説明するのに、次で説明するヒューズやリチャードソン、K.T.コンプトンの報告した結果(1912年に報告)が利用されますが、アインシュタインが光量子仮説を提出した1905年には、まだそれらの実験の結論は得られていなかったことに注意して下さい。
アインシュタインが1905年に利用できたのは、紫外線によってたたき出されるのが電子であると言うことを確認したレーナルトの1899年、1900年の論文や、その後明らかになった【光を当てると瞬時に光電子が飛び出る】ことや、【放出される光電子の数が当てる光の強さに比例する】ことや、【放出された光電子の持つているエネルギーには上限があって、その最大エネルギーは光の強さに無関係】(レーナルトの1902年論文)までの成果です。
アインシュシタインが1905年の光量子説論文の中で1902年のレーナルト論文を度々引用しているため、レーナルトの業績が過大に取り上げられて重要視されますが、アインシュタインが光量子仮説を提出した1905年当時の状況は[補足説明1]で説明した様に、光電効果実験における 臨界電圧値Vmin や 飽和電流値 Imax と 光の波長との関係、金属種類の違いとの関係、光の照射強度との関係、等々・・・の実験結果は混沌とした状態にあったのです。
その混沌とした状況は、レナートが1906年5月に行ったノーベル賞講演の中の説明から読み取れます。この講演のその部分を別ページで引用しておきますのでご確認下さい。
ちなみにレーナルトは陰極線の研究成果でノーベル賞を受賞したのですが、その受賞記念講演は、丁度アインシュタインが光量子仮説論文を発表した1年後の1906年5月に行われます。そのため、1905年までの光電効果実験から当時の物理学者が得ていた認識が、アインシュタインの考え方とかけ離れたものであることがこの講演内容から解ると思います。
このことは、別稿「Einsteinの光量子論(1905年)」§8.[補足説明3]でも説明しておりますので、そこも参照されて下さい。
[補足説明4]
上記の(13)Riehardson and_Comptonの1912年論文は別稿で引用していますので参照されながら、以下の説明をお読み下さい。
O.W.Richardson(1879〜1959年)はイギリスの物理学者で、1928年熱電子現象の研究によりノーベル物理学賞を受賞しています。上記の研究は1906〜1913年に米国のブリンストン大学の教授を務めていたとき、K.T.Compton(1887〜1954年)とした共同研究の成果です。このComptonはコンプトン効果で有名なArthur
Holly Compton(1892〜1962年)とは別人ですから間違えないで下さい。
彼らは下図の様な球形の光電子セルを利用します。
この装置の特徴はS−D間の電界が放射状である事。放射電極Sの面積が受信電極Dの面積に比べて非常に小さいことです。
この電極配置により、S からの放出角度に関係なく、すべての電子の速度分布を測定することが可能になり、電子の全エネルギーの分布が得られます。さらに、電子反射の影響を実質的に無視できるようになります。D に到達する電子の特定の割合が反射され、この反射は拡散するのですが、これらの反射された電子はどれも、S に向かってほぼまっすぐに始まる非常に小さな割合を除いて、S に戻ることはないからです。
また対面電極を球形にすることで印加電圧を変化させて光電子電流を減少させたとき電流値の立ち上がりが急になり限界電圧Vminの測定が容易になります。そのため限界振動数νcの決定がより正確で容易になる。
さらに、試験金属の設定は、試験する金属片をきれいなナイフの刃で注意深くこすったたら、すぐに所定の位置に配置できるようにされていました。金属の設定と同時に真空ポンプを始動し、必要な真空が得られるとすぐに測定値が始められる様にされていたのです。
この球形状光電セルの優れたアイディアにより、以前の実験に比べて、より再現性の高い、より精密・正確な電流・電圧曲線を得ることができました。その一例が下図です。
これは標的金属がアルミニウムAlと白金Ptの場合です。水銀灯が発する様々な波長(振動数)の入射光に対する光電子の射出エネルギーの様子を示したものです。この図を利用して、球形光電効果セルの優れた特性により明らかになったことを箇条書きで整理すると以下の様になります。
【1】
受光金属電極を接地(V=0とする)したとき、対面電極の印加電圧がある正値V0を越えると、あらゆる金属種、あらゆる照射光波長の場合で、光電子電流は必ずある一定値(飽和電流 Imax)となることが明らかになる。
【2】
対面電極の印加電圧Vを下げていった時、ある電圧値V0を越えると、必ず光電子電流値は減少を始めるのですが、その減少開始電圧V0値は照射光の波長を変えても変化せず必ず同一の値で始まった。ただし、受光金属の種類を変えると、V0値は金属ごとに異なった値となった。
【3】
光源として用いられた水銀灯が発する光の波長強度分布は
のようなものですから、同一の分光器で分光した入射光の強度は、利用した波長に依存して異なります。そのため、SD間の印加電圧をV>V0にしたときに達成される飽和電流値 Imax(グラフが水平になる部分)が波長ごとに異なります。すなわち、飽和電流値は、用いた波長ごとにことなるために、上図のグラフは飽和電流値を100に換算しなおした相対的な電流値が示されています。
その様にすると、すべての波長(振動数)の場合で同一の印加電圧点から光電子電流の減少が始まりました。その為、その減少開始点の印加電圧こそ、SD間の真の電位差が0となる点です。それ故に、上図の横軸の電圧値は、その地点を0としての電位変化に書きなおされています。
【4】
実際の実験測定中の電位の0点は図中の点線で示されて点だったのですがそのゼロ点が右にスライドされていると言うことです。つまり、図中に追記しておりますように、その点線の位置と光電子飽和電流開始点との電位差こそが、それぞれの資料金属の“接触電位差”と言うことになります。図から解るようにアルミニウムAlの接触電位差は-1.3V程度、白金Ptの接触電位差は-0.1V程度だと言うことです。
このことを[補足説明1]で用いた図で説明すると下記の様になります。
このとき、プランク定数hを求めるには、[光電子の最大エネルギー値]の[照射光振動数]に対する一次関数グラフの“勾配”を用いるのであって、光電子の最大エネルギー値の絶対的な大きさが必要となるわけではないことに注意して下さい。
【5】
印加電圧を調節して光電流値を減少させてVminを読み取る付近の状況をご覧頂くと解るように、電流曲線が横軸にある角度で交わるようになった。そのため、Vminの判別・読み取りが容易になった。
このことは、飽和電流値が減少を開始する電圧値V0についても言えます。
金属がPtの場合で、電流-電圧曲線を電圧で微分して得られる関数(光電子のエネルギー分布曲線)を示したものが下図です。これは光電子電流−印加電圧曲線を電圧で微分した導関数のグラフです。下図のグラフ曲線が横軸を横切る所がほぼ垂直になっている事に注意して下さい。
使用した3種類の波長光の場合について示されています。もちろん、このグラフ曲線と横軸で囲まれる部分の面積はすべての波長で等しくなります。なぜなら元々電流値の最大変化幅が100に規格化された電流-電圧曲線を微分した導関数のグラフなのですから。
いずれにしても、上図の臨界電圧値の立ち上がりと立ち下がりが急になっているのが解ると思います。そのため 臨界電圧Vmin と 飽和電流減少開始電圧V0 の読み取りがとても容易になり、且つ正確になった。
【6】
いままで、判明した改善点は金属の種類を変え、照射光の波長を変えても、すべての場合について明瞭に成り立つことが解った。試験金属を変え、照射波長を変えた場合の測定結果のグラフが下図です。[拡大図]
図から反応性の高い金属の接触電位差は大きく、安定な金属の接触電位差は小さいことが読み取れます。
このように標的金属の種類によって接触電位差はバラバラなのです。このことも、初期の光電効果実験の説明・解釈に混乱を引き起こした。
【7】
すべての試験金属について、光電子の最大エネルギー値 e・|Vmin−V0| は照射した光の振動数(波長の逆数)の一次関数で直線的に増大する(つまり励起光の周波数の線形関数となる)事が判明した。
次のグラフはその事を示しています。
これは解りにくい図ですが、縦軸は 【光電子の最大運動エネルギー値】T=h(ν-ν0) に λ を乗じたものです。もちろん ν=c/λ であり、ν0=c/λ0 を意味します。λ0は 【光電子のエネルギー】=0の横軸 を切る位置の波長(“限界波長”)であり、ν0は“限界振動数”です。
つまり通常の“アインシュタインの関係式”を以下の様に変形したものをグラフ表示しているだけです。
この論文では、このグラフの傾きから“プランク定数”hが求められています。
上記の球状光電子セルを用いることの革新性については、シュポルスキー「原子物理学T」§118.でも説明されています。その部分を引用しておきますので参照されて下さい。
【光を当てると瞬時に光電子が飛び出る】を古典論で説明することの困難性。
Planckの【1900年論文p202〜】を、【1900年論文p237〜】を、【1901年論文p553〜】をそれぞれ別稿で引用。
このことについては別稿「プランクの熱輻射法則(1900年)」をご覧下さい。
[補足説明1]
補足しますと、アインシュタインが光量子論の論文を書いた1905年当時には、光電効果の示す特徴的性質の最も重要な部分は、まったく明らかでは無かったのです。
そのことについては、4-1.3.[補足説明3]ですでに説明しましたし、別稿「Einsteinの光量子論(1905年)」§8.[補足説明3]でも説明しています。またレーナルトのノーベル賞講演(1906年5月)からも読み取れます。
アインシュタインは、それまでに断片的に解っていた光電効果の示す幾つかの特徴的な性質から、上記で説明される性質の最重要な部分である “光電子の最大エネルギーが光の強さに無関係で、その振動数の一次関数になる” を予言したのです。そして1905年論文の中で、実験家にその事を確かめて欲しいと投げかけているのです。
だからこそ、(2.1)or(2.3)式が今日“アインシュタインの関係式”、あるいは“アインシュタインの方程式”と言われるのです。
[補足説明2]
多くの困難を乗り越えて、“アインシュタインの関係式”が極めて正確に成り立つ事をたしかめ、それから極めて正確な“プランク定数”hを求めたMillikanの1914年論文と、1916年論文は別稿で引用していますので、詳細はそちらでご確認下さい。
また、1916年論文の結論がMillikanのノーベル賞講演の後半で簡潔に紹介さています。手短に理解するにはこちらをご覧になる方が良いかも知れません。
上記の注** については、別稿「電磁場の相対性と特殊相対性理論」を復習されて下さい。
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