地上で初めて光速度を測定した1849年のフィゾーの実験の詳細を説明します。その論文の日本語訳や、アラゴの説明文を参考にしながらお読み下さい。
ちなみに、史上初めて光速度を測定したのはレーマーで二番目はブラッドリーですが、いずれも天体現象からです。だから、フィゾーが地上で直接測定できたことは画期的です。
高校物理で習うようにフィゾーは下図のような方法で、光の伝播速度を地上で初めて測定した。
しかし、これを習うとき様々な疑問が湧いてくる。
などです。以下順番にこれらの疑問について説明します。
フィゾーの論文には光源について何も詳しいことは書いてない。文献2.のアラゴによると下図の様なガラスのホヤのついたランプだったようです。しかし、アラゴの本にもこのランプの炎がどのようなものであったのかは何も書いてない。
田辺直行氏は、(http://d.hatena.ne.jp/nytanabe/20110929)に於いて、ほぼ同時代の光速度測定者であるレオン・フーコーが“生石灰(ライムという)に水素と酸素のガスを当てて高温に熱したときに発した光(ライムライトlimelight、カルシウムライト、Drummondライトとも呼ばれた)”を使っていたことを紹介されています。ライムライトはかなり強力な光を発するようですが、フィゾーが用いたランプの図を見る限り水素や酸素のガス発生装置が付属しているようには見えないのでそれでは無いようです。
我々が子供の頃なじみであったアセチレンランプは、カーバイト(炭化カルシウムCaC2)を水に溶かすと発生するアセチレンガスの燃焼熱を利用するもので、燃焼時に発生する煤(カーボン)が加熱されることでかなり明るく発光します。ただしアセチレンランプがポールドウィンによって発明されたのは1900年頃とされていますので、その様なランプがこの時代に有ったのかは不明です。また、煤が出る燃料だと図のガラスのホヤが煤で曇るでしょうから、煤の出ない燃料で何かを加熱して発光させた可能性は有ります。
電気が引かれていない未開地や山小屋で使用されるガソリンランタンはかなり明るく(100W程度)発光します。白金の金網で作った球(マントル)を気化したガソリンの燃焼熱で加熱して発光するもので、タンクを加圧してガソリンを少しずつ気化させ燃焼させます。これなら実用になると思うのですが、当時その様なメカニズムのランプが在ったかどうかは解りません。
ボルタの電池の発明は1800年ですが、実用的な電池であるダニエル電池が発明されるのが1836年です。またちょうど同じ頃実用的な発電機が作られ始めます。
そのため1850年頃にはアーク放電を利用した発光装置がありました。フィゾーやフーコーはその光を用いて光の実験を始めていました。しかし、アーク放電では安定した発光が難しかったのかどうか解りませんが、フィゾーもフーコーも光速度の測定にアーク灯を用いていません。
ちなみに、エジソンが白熱電球の開発に成功するのは1879年で、電灯が普及するのはこれ以後です。
フーコーの学位論文(Annales de Chimie et de Physique, [3], t.41, p129〜164, 1853年のp142)に、フィゾーの用いたランプは “La lumiere etait empruntee a une lampe a ether,
dont la flamme, alimentee par l'oxygene, etait projetee sur un fragment
de chaux, de maniere a y exciter une vive incandescence.(光が輝きを増すように、酸素とエーテルの炎が石灰の断片に当てられた)” と記述されています。エーテルの炎はほとんど輝かないので、炎で石灰を加熱して輝きを増すようなランプだったのかもしれません。
結局のところランプの詳細は良く解りませんが、文献1.によるとかなり強く発光するランプであったことは確かです。また、次節で考察するように、このランプの明かりで測定が可能だった。
反射器の光軸の調整は以下で説明する“キャッツアイ法”で可能になりました。私は、この方法を知ったとき“なるほどそうなのか!”と初めて納得できました。
これこそがフィゾーの測定を成功に導いた最も重要な工夫だった。この方法が在ればこそ、この歯車の回転で光速度がはかれる距離を取ることができた。
以下、文献4.の説明の引用です。
フィゾーが用いた光学系は上図の様な物ですが、反射鏡の前に置いたレンズL”の働きはとても重要です。レンズL”が無かったら反射光が真っ直ぐLの方へ戻るように鏡mの向きを調整することは不可能だからです。
LとL”は8km以上離れておりレンズの口径は6cmですから、下右図の様な平面鏡を用いた場合、別稿で説明した関係式から解るように鏡の角度を1秒角以内の精度で調整しなければなりません。これは一番近い恒星の年周視差程度の見込み角程度ですから、その様な精度で光軸を調整することは不可能です。
さらに途中の大気の屈折率は気流の乱れにより四六時中揺らいでいることに注意して下さい。そのため鏡に入射する光線の入射角は常に変化しています。
このとき下左図のように、レンズL”とその焦点に置いた鏡mからなる反射器を用いると、鏡面が少し位傾いても大半の光線は元来た方向に反射されます。又入射光軸の角度が揺らいでも、大半の入射光を元来た方向に反射して返すことができます。
このような光学系を“キャッツアイ(猫の目)”と言いますが、フィゾーの実験で最も重要な工夫です。
文献1.の記述によると、この工夫により望遠鏡で覗いた8km先の反射器(口径6cmのレンズ)は星の光のような一つの点として見えたそうです。もちろん前節で説明したような光量の弱いランプですから、昼間に反射器の位置を確認しておいて、観測はおそらく夜間に行わなわれたのでしょう。その様子が文献2.に絵で説明されています。
キャッツアイを用いても本当に見えたのか疑いたくなりますが、以下の事情を考慮すれば充分観測できたことがうなずけます。
実際、我々が昼間に高い展望台に昇り遠くを眺めれば、裸眼でも8km先の建物や木々の存在を視認することができます。それらの景色は、それらの物体が太陽光線を反射することで四方に散乱した光の中で、たまたま観測者の目の瞳の立体角内に進んできたごく僅かな光によって視認されたものです。
[それらの物体が反射する太陽光]と、[前記のランプが8km先に置かれたキャッツアイレンズを照らしたときに観測者の方向に送り返えされる光]を比較したとき、キャッツアイの反射光は物体が送り返す反射太陽光以上の強度になったと思われます。
別稿「偏光とは何か(光の強度と偏光)」3.(4)で光子の数と目の網膜細胞の感度を考察しましたが、改めてこれらの事情を考えてみると、この世の中に満ちてあふれている光の存在や、光が持つ反射や透過・直進の性質の不思議さに感動します。
1850年に行われる回転鏡を用いたフーコーの光速度測定装置では、鏡を回転させるのに蒸気で作動させる小型タービンが用いられた。また、このころ行なわれたジュール・トムソン効果を測定する実験において、ジュールは蒸気エンジンを用いて空気ポンプを作動させています。
しかし、フィゾーは下図の様な最も単純なおもりの降下を動力として用いた。
[上図の拡大版はこちら]
図のような円筒状巻き取り器に一層の状態で巻き取られた紐をおもりPが引き下ろすことで歯車円盤を回転させた。同一半径の円筒に巻き取られた紐がほどけてゆくので同一のトルクが維持できた。またおもりPの重さを変えてトルクを調整すると、歯車円盤の回転速度を変化させることができた。
この装置は、サレネスの家の展望台に置かれたということですから、紐が巻き取られた円筒の大きさから判断して重りは10m程度以上連続して降下できたと思われる。(ちなみにサレネスの家とはフィゾーの父親の家で、反射器はそこから8633m離れたモンマントルの丘に置かれた。)
おそらく、上図のドラムAとギアBは互いに独立に回転できるようにしてあったはずだ。ギアBが止まった状態でドラムAだけ回して重りを巻き上げ、それらかピンかフックでドラムAとギアBを連結してから重りを降下させて歯車円盤を回す。重りが下がりきると連結を切り離して、またドラムAだけを回して重りを元の位置に巻き上げ、そしてギアBと連結して再度重りの降下で歯車円盤を回す。そのようにすれば短時間に繰り返し測定ができたであろう。
減速ギアの比率から想像して、重りはかなりゆっくりと降下して行き、歯車円盤は連続的に徐々に回転速度を増していったと思われる。そのため望遠鏡を覗いていた観測者が、視野中の反射器からの光の点が暗くなり再び明るくなるのをかなりゆっくりと追跡して観測できたのではないでしょうか。観測者は光点が暗くなったとき、あるいは再び明るくなったときの回転速度を次節(4)の方法で計測することは充分可能だったと思われる。
そのとき、光点が暗くなったときや再び明るくなったときの状況を素早く通り過ぎてしまい歯車円盤の回転数の計測が難しい場合には、観測者は望遠鏡の視野中の光点を見ながらブレーキ棒Jについているネジを調整して光点が暗くあるいは明るく見える回転数をしばらく保ち続けるように調整したのでしょう。
ブレーキ棒の先端についているネジを調整することで微妙な回転数調整が可能だったと思われる。減速用のブレーキ棒が減速ギアの中程に設けられていたのも、その調整を容易にするための工夫だったのでしょう。
ハリソンのクロノメーターが発明・実用化されるのは、1735〜1761年頃ですから、時代が1850年まで下れば、テンプとヒゲゼンマイを用いた携帯可能な懐中時計は作られていた。そのため今日のネジ巻き式のストップウォッチに類するものは存在したでしょう。この当たりの詳細は山口隆二著「時計」岩波新書(1956年刊)などをご覧下さい。
おそらく、最初の光点の消滅(12.6回転/s)や最初の光点の増光(12.6×2回転/s)は、重りPを連続的に落下させて回転速度がしだいに増加してゆく中で計測できたと思われる。
しかし、その3倍回転速度(25.2×3回転/s)の2度目の消滅や4倍回転速度(25.2×4回転/s)における光点の再度の増光を観測するためには重りPの質量を増やして高速回転が実現できるようにしなければ成らなかった。実際、アラゴの本の記述から推測するとその様にしたようです。
そうするとトクルが増えるので、歯車円盤の角速度が増大してゆく割合が大きくなり、3倍、4倍回転速度のとき観察される現象は短い時間の間に通り過ぎてしまうだろう。その場合には、減速ギヤの中程に設置されたブレーキ棒Jによって回転速度の増加割合を小さくして、光点の変化がゆっくりと起きるようにしてから回転数の計測をしたようです。
計測はおそらく次のような手順で行われたと思われる。
最初静止していた歯車円盤(視野の反射光点は見えている)が重りを降下させるに従ってその回転数を増してゆく。望遠鏡を覗き続けている観測者にとって、視野中の反射光点がやがて暗くなりますが、さらに重りが降下して回転数が増してゆくと再び明るくなる時が来る。
観測者は、視野の光点が目的の状況になったとき、回転計のクラッチ棒を操作することで、回転計の軸を歯車円盤の回転軸と連結して回転計を作動させる。そして一定時間経った後に再びクラッチを切り離して回転計の回転を止める。
図中に回転計のメータが二つあるのは、一方の回転計の一回転に対して(ちょうど時計の短針と長針の関係の様に)他方がその何十倍か回転するようにしてあるのだろう。
そのとき別の助手が、観測者のクラッチの操作を見ながらストップウォッチを操作して、回転計が回転している時間を測定する。
助手が測定した時間と回転計が示す回転数から、光点が暗くなったときや再び明るく成ったときの、歯車円盤の毎秒当たりの回転数を求める。
フィゾーの実験はとても巧妙に工夫されていましたが、当時の技術でできる限界の実験だったと思われます。
この実験では反射して戻ってくる光が最も暗くなる、あるいは明るくなる回転数を正確に決めるのは難しかっただろう。さらに、望遠鏡の中に見える実際の像は参考文献2.の中の図のようなものだったのでしょうから、回転する歯車の歯の部分が光源で照らされることになるので、表面を黒くして反射をふせいだとしても、少なからずそれから反射される光が邪魔をして反射器の光点像の光量の変化を見極めるのは難しかったと思われます。
そのため、フィゾーの得た値は3.154×108m/sでして、今日の値3.0×108m/sに対して約5%程度誤差のあるものでした。しかし、いずれにしても地上で初めて光速度が測定できたことは偉大な功績と言っても良いでしょう。
レオン・フーコーは、フィゾーに続いて1850年に水中と空気中の伝播速度の比較、そして1862年に光速度の精密測定を行います。彼の用いた方法は回転する鏡を用いるもので、像の明暗ではなくて視野中の像の移動量を測定するものでした。そのため上記の欠点を改善することができた。
1850年の実験では、鏡の回転速度を正確に測れなかったので絶対的な速度の測定はできなかったが、1862年の実験では鏡の回転速度を精密に測定する方法を工夫して、光速度を高い精度で測定することに成功した。
このページを作るに当たって参考にした文献を挙げておきます。