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ブラッドリーが光行差を見付けた方法(1727年)

 光の速度を最初に測定したのはレーマーで、木星の衛星の食の間隔の時間変動の観測からですが、史上二番目に成功したのがブラッドリーで、光行差の現象からです。ここで、彼がどの様にして光行差の現象を見付けたのか説明します。

1.年周視差と年周光行差

 ブラッドリー(James Bradley)が光行差を発見したのは、年周視差を見付けようとして行っていた観測からです。そのため最初に、年周視差と光行差の現象について簡単に復習します。詳しい説明は「年周光行差と年周視差による星の位置変化」参照。

(1)年周視差

年周視差は、下図から明らかなように、星が本来ある方向から太陽のいる方向に少し変位して見える現象です。


年周視差は星までの距離を測る最も基本的なデータでその値は以下のように用いられる。

 年周視差は遠くの星(暗い星)と近くの星(明るい星)を同じ視野の中で観測してその相対的な位置の通年変化を検出する。多くの人々がその方法による検出を試みたのであるが、その年変化はあまりにも小さく(1秒角以下)どうしても発見できなかった。実際ベッセル、ヘンダーソン、ストルーペがそれを発見できたのはブラッドリーの年周光行差の発見(1727年)よりもさらに100年以上後の1838年です。

 

(2)年周光行差

 年周光行差によって、星は地球が公転運動で動く方向に変位して見える。つまり年周光行差の変位の方向は年周視差で見える変異の方向より反時計回りに90°ずれた方向です。


補足説明0
 年周視差が1秒角以下であるのに対して年周光行差による星の移動は1年で最大約40秒角もある(上図参照)。1600年代の中頃には10秒角程度の観測精度(観測精度の歴史については別稿「天体観測精度と天文学上の発見」参照)は十分達成できていたのに、なぜ1727年まで発見できなかったのだろうか。その理由は上図に示すように、天球上で近傍に位置する星はすべて同じように動くからです。そのため、年周視差測定で普通用いられる同一視野内の遠くの星(暗い星)と近くの星(明るい星)の相対的な位置変化を観測する方法では検出できない。
 年周光行差の発見とはひとえに星の絶対的な赤緯、赤経の変化が高精度で測定できるかどうかにかかっている。それを可能にしたのがブラッドリーが用いた特殊な望遠鏡です

補足説明1
 今日、地球は太陽のまわりの公転運動のみならず、太陽系の銀河回転運動に伴う速度や、銀河自体の移動に伴う速度ベクトルが重なった運動をしていることが解っています。もちろん、観測する恒星も銀河系内を高速で移動しています。そのため、光行差を観測する1つの星に対して地球は単純な円運動をしているわけではありません。そのとき、上記の様に光行差の観測値が地球の公転運動(つまり問題の恒星と地球の相対的な運動)にのみ関係している様に見えるというのはとても不思議な事です。
 実は、“光行差の現象”はアインシュタインの“特殊相対性理論”を用いないと旨く説明できません。アインシュタインは1905年の最初の論文の第U部で相対性原理から直接光行差の公式をより精密な形で導いています。ここでの議論は(v/c)が小さい場合にのみ成り立つ近似的な結論です。このことは別稿「マイケルソン・モーリーの実験(1887年)」1.(2)[補足説明1]も参照されて下さい。
 
 この当たりについては別稿「アインシュタインの特殊相対性理論(1905年)」3.(2)3.を、特にそこの[補足説明3]ご覧下さい。
 おそらく、上記[補足説明3]で説明した事実が、Einsteinがシャンクランドの質問に対して【(相対性理論を作り上げる上で)最も影響を受けた実験結果は、恒星の光行差についての観測と、動いている水の中での光速に関するフィゾーの測定とであったと話した。『それで十分でした(“were enough”)』と彼は言った。】ことの根拠なのでしょう。このことについてはHoltonのこちらの文献もご覧下さい。

 

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2.天頂儀

(1)フックの天頂儀

 ブラッドリーは、彼の友人のモリニュー(Samuel Molyneux)と共に、次に述べる特殊な望遠鏡(天頂儀)で星の赤緯の通年変化を観測することにより年周視差を発見しようと努力していた。
 この方法は半世紀以上も前(1669年)にロバート・フックが星の年周視差を見付けようとしてチャレンジした方法です。フックはその為に下右図のような特殊な望遠鏡を開発して天頂を通過する星の赤緯の絶対測定を試みていました。フックの発想は素晴らしかったのですが、彼の用いた望遠鏡の精度では赤緯の絶対測定による年周視差の発見は不可能です。それでも彼は光行差による赤緯の変化は確かに観測していました。しかし残念ながら望遠鏡の精度不足と状態の不安定さに悩まされ、その原因を突き止めるまでの徹底的な観測を実行することができませんでした。残念なことにフックは、彼が観測した視差の原因を年周視差にこじつけた中途半端な報告をしてこの観測をやめてしまいました(この当たりの事情は参考文献6.が詳しい)。
 ブラッドリー達が用いた望遠鏡も原理は同じですが精度と安定性に於いて格段に進歩していました。フックの物と同じように家の屋根を突き抜ける長大な望遠鏡ですが、その構造から天頂付近のごく狭い範囲しか観測できません。天頂付近を通過する星のみしか観測できませんが、その視野の経線を通過する星の赤緯は詳しく測定することができた。

補足説明1
 フックやブラッドリーらが天頂付近を通過する星の年周視差を測ろうとしたのは、天頂付近が大気による屈折の視差(大気差の影響を最も少なくできるからです。
 地球の大気に斜めに入射する星からの光は、あたかも水面に斜めに入射する光線が水面で折れ曲がるように、屈折します。実際、水平線近くから入射する星の光は0.5度(満月の幅、金環日食や皆既日食が生ずる事に注意すれば太陽の幅でもある。)近く屈折し実際の星の位置より高い位置に見えます。
 一方、水面に垂直に入射する光線が真っ直ぐ進む様に、天頂から来る星の光は大気の屈折の影響を避けることができます。
 
 地平線付近の大気差が上記程度の値に成ることはプトレマイオスの時代にはすでに解っていたようです。プトレマイオスはその値として、時間で3分、角度にして0.75度と見積もっていた。(クリフトファー・ウォーカー著「望遠鏡以前の天文学」恒星社厚生閣p248)


ブラッドリーの天頂儀の別写真

 

(2)モリニューの天頂儀(1725年)(文献1.P637〜638)

 ブラッドリーとモリニューが用いた天頂儀は、共同研究者のモリニュー(Molyneux)がGeorge Graham(有名な天文機器・時計職人)に注文して1725年に作ってもらったもので、ロンドン西郊外のキュー(Kew)にあるモリニューの屋敷に据え付けられました。それは焦点距離740cmで口径が4インチ(10.2cm)よりわずかに小さいレンズが錫板製の金属筒(長さ24.1/4フィート)に取り付けられたものです。色消しレンズの発明(ジョン・ドロンド1747年)より前ですから、当時は色収差を防ぐために焦点距離の長いレンズの望遠鏡が普通に使われていました。
 床と屋根に穴を開けて煙突に垂直に固定され、壁に沿って取り付けられていました。筒の上端部は鉄の回転軸で支えられており、接眼部付近のマイクロメーターのネジを回すことにより下部を南北の方向に、ごくわずか(7〜8’つまり0.13°程度)移動できるようになっていました。望遠鏡の尖端から吊された鉛錘の線により達成される垂直線の零点からの偏向角は目盛り付きの弧尺から読み取ることができました。接眼部の焦点の位置には星の中心に合わせるための十字線(ガスコインが発明したもの)が設置されていました。接眼鏡の高さは床から110cmで仰向けに寝転がって観測します。
 この望遠鏡はとても注意深く取り扱わねばならないものだったが、ほぼ1秒角の観測精度が達成できた。その据え付けが完成したのは1725年11月26日です。(文献1.P637〜638)
 残念なことにこの望遠鏡は現在まで残っていません。1728年4月にモリニューが39歳で突然亡くなったとき、屋敷が売り払われて取り壊されてしまったからです。そのとき望遠鏡も失われてしまいました。

 上左写真のものはブラッドリーが後に作った長さ12フィート半(381cm)、口径3インチの物です。これはもっと広範囲の星について赤緯の変化を確かめることが必要になって、ブラッドリーが1727年の8月に同じGeorge Grahamに注文して作ってもらった物です。
 長さはKewに設置されていたモリニューの天頂儀の半分しかありませんが、偏向角は天頂から南北方向にプラス・マイナスにそれぞれ6.1/4°まで拡大されており、より広い範囲の星(約200個の明るい星)が観測できました。ブラッドリーは、この天頂儀をWanstead(ロンドンの北東近郊の村)にある叔父の家に設置させてもらい、そこで1727年〜1742年まで観測に使用しました。後に彼はグリニッジ天文台長に選出(1742年)されますが、この望遠鏡もグリニッジ天文台に移設して観測に用いました。そのためこれは現在グリニッジ天文台にあり、だれでも見学することができます。

 

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3.ブラッドリーとモリニューの観測

(1)りゅう座γ星

 ブラッドリーとモリニューは観測する星としてりゅう座のγ星(エルタニン、実視等級2.2)に着目した。この星の現在の赤経17h57m赤緯51°29’(詳しい位置はこちらの星図を参照)ですから、彼らの天頂儀が設置してある場所(ロンドン郊外のキューKewの緯度は北緯51.5°)では、南中するときちょうど天頂を通過しました。(下図参照)
 天頂を通過する時刻は夏至の日(6/20頃)は真夜中の12時頃、秋分の日(9/20頃)は夕方の6時頃、冬至の日(12/20頃)は真昼の12時頃、春分の日(3/20頃)は明け方の6時頃になります。γ星は実視等級2.4の明るい星なので望遠鏡を用いれば昼間でも見えました。さらに、黄道の北極から15°しか離れていないので一年中観測する事ができます。そのため、彼らはこの星を選んだのですが、それはかつてフックが年周視差を測定しようとして観測していた星でもあります。

 上図から明らかなように、ブラッドリーとモリニューは、もし年周視差が観測されるとしたら12月ごろ天頂儀の視野の中で子午線の最も南側を通過し、6月頃に最も北側を通過するであろうと予測しました。1年間を通して観測すればその視差を見付けることができるかも知れないと期待したわけです。
 12月と6月は変位の極値付近だから、その時期は1日当たりの移動はほとんど無いと思われる。1日当たりの移動量が最も多いのは北向きが3月頃で、南向きは9月頃に成るはずであった。
 ところが彼らが観測したものは予想外のものでした。

 

(2)最初の観測(文献1.P639〜641)

 据え付けが完成した後の観測について、ブラッドリーは論文で報告している。それはとても興味深い内容なので、広瀬秀雄氏の訳文(文献2.)により、以下に紹介する。

・・・・・モリニュー氏考案の装置は、1725年11月末にすえつけも完了し、観測を待つばかりとなった。そこで、同年12月3日にりゅう座の頭にある星(バイエルの命名ではりゅう座γ星)が天頂の近くで子午線を通過するのを観測し、その位置を注意深く測定した。同様な観測を12月5目、11日、12目に行ったが、星の位置には実質的変化が見られなかったので、当シーズンでこれ以上観測をくり返す必要はないように思えた。〔冬至近くのことであるので〕年周視差による星の位置の変動は、しばらくは期待できないからである。
(ここまでの観測はモリニューが行った。その時には、ブラッドリーはまだキューにはいなくて後でやって来た)
私(ブラッドリー)が、測定機のあるキュウに到着した、12月17日にもう一度星を見ようと思ったのは、全くの好奇心によることであった。そこで、いつものように測定器の調整を終え、星を見たところ、その日の星は、前に見たより少し南方で子午線を通過することを認めた。このことについては、他の理由を考えるなどとはせず、観測の不確実によると思いこんだ。今回の観測、または前回の観測は、ともに最初想定したほど正確なものではなさそうだと思い、もう一度観測して、何がこの差違を生じさせたかを確認しようと思った。
 そこで12月20日に観測したところ、星は前回よりも、なお一層南方を通過することがわかった。星の動きは、年周視差によるとする場合と全く反対方向に生じているので、この変動が確実であればあるほど、このことはわたしたちを驚かせた。しかしこのことは、観測の不確実によるものではないと納得することができたので、他の原因が考えられない以上、この星の見かけの移動は、観測装置の材質その他の変化に起因するのではないかと考えはじめた。このような考え方にしばらくとらわれていたが、数種のテスト、装置の高精度、なお続く星の北極距離の増大により、この現象にはあるちゃんとした別の理由があるにちがいないと信じるようになり、観測ごとにどれほど変動しているか十分注意して確かめたところ、1726年3月には最初の観測位置より20秒南へ移ったことがわかった。この時星は最も南方へ移ったらしく、このころの数回の観測に対してはほとんど移動を認めることができなかった。4月の中ごろには、星は再び北方へ帰りはじめ、6月のはじめには12月に最初見えた場所〔赤緯〕にもどった
 この時は3日に一秒という割合で星の赤緯はすぱやく変化していたので、以前の南方移動とは反対に、今や星は12月の位置より北方へ移動中であると判断され、推量通りとなった。星の北進は9月までつづき、そこで停止状態となったが、その位置は、6月の位置より約20秒北方で、3月より少なくとも39秒の北方に達していた。9月以後、星は南へもどりはじめ、12月には、歳差による星の赤緯変動を考慮すると、12カ月以前と全く同一〔赤緯の〕位置に帰着した。
 この事実は、この星の視運動について、測定機は全く無関係であることの十分な証明であったが、この現象の適切な説明は難問そのものであった。・・・・・・

 ブラッドリーとモリニューはその後2年間にわたって80回の位置測定を行い、γ星が南北方向に1年を周期とした往復運動をすることを確かめています。(ちなみにフックが測定できたのは彼の観測期間4ヶ月の間で4回のみだった)
 年周視差として期待していた動きとは明らかに異なったこの変動に彼らは当惑します。装置に原因はないか?あるいは観測方法が間違っていないか?と、彼らは詳しく検討しますが観測結果に間違いはありませんでした。

 

(3)歳差or章動?(文献1.P641)

 次に彼らは、地球の回転軸がふらつくためではないかと考えます。その効果を確かめる観測をして、最終的にそうではないことを確信します。

 地球の地軸が時と共に変化する現象(歳差)は紀元前125年ごろに、すでにヒッパルコス(前190頃〜前125頃)が発見していましたが、さらに周期的な変動(章動)があるのでは無いかと考えたわけです。彼らはもちろん歳差運動に伴って赤緯がごくわずかずつ変化していく(6.歳差と章動を参照)ことは十分知っていましたから、その効果を考慮していました(γ星は赤経がほぼ18時ですから、歳差による赤緯の変動はほとんと無い)。それに加えてさらに地軸がふらつくのではないかと考えたのです。
 その事を確かめるために天の赤道の北極に対してりゅう座γ星と真反対(つまり赤経で6時の方向)にあり、γ星と同じ赤緯(51.5°)の星を選んで、様々な季節の同じ日にγ星と共に観測しました。
 
 ここではブラッドリーは、その方向にはりゅう座γ星ほど明るい星はなかったので少し暗い星を選んで観測したとしか書いていないが、後のページP654できりん座(ヘヴェリウスの星図で)の35番星(フラムスティードのカタログNo.で)と言っています。しかしこの星をBodeの恒星カタログ(1782年)で確かめてみると(赤経88°59’、赤緯60°3’)です。これはモリニューの天頂儀や3.(4)に述べるブラッドリーの天頂儀の観測範囲外です。ここの文章の記載の内容から行くと、この観測データはモリニューの天頂儀を用いて得たもののようですから、赤緯はりゅう座γ星とほぼ同じはずです。
 実際、文献7.の中でブラッドリーはきりん座の35番星を取り上げていますが、その赤緯はりゅう座γ星と同じ51°34’で、赤経は85°54.5’(5h43m38s)と記述しています。現在の星表できりん座に35番星はありませんし、その赤緯、赤経付近にそれらしい星はありません。そのため、ここは非常に疑問の残るところですが、フラッドリーに従ってきりん座35番星として話を進めます。星図参照、ただし1726年当時の赤緯・赤経は歳差と星の固有運動のために現在の値とかなり異なることに注意する必要がある。詳しくは別表の「ブラッドリーの恒星表(1780年分点)」を参照。
 
 3.(1)の天球図から明らかなように、どの季節に於いても、きりん座35番星はりゅう座γ星が天頂を通過する時間から約12時間遅れで天頂を通過します。このとき、もしこの変化が地軸(地球の自転軸)の変動によるものであれば、3.(1)の天球図から明らかなように季節ごとの赤緯の変位方向は二つの星で逆方向になるはずです。つまりりゅう座のγ星が北へ移動する時期には、きりん座35番星は南へ移動し、りゅう座のγ星が南へ移動する時期には、きりん座35番星は北へ移動するはずです。
 観測してみると確かにきりん座35番星の赤緯も一年周期でりゅう座γ星と同じ様に変化しており、その方向も予想されるように逆方向でした。しかし、このとき同時に、彼らは、とても重要な事を発見しました。それは、きりん座35番星の赤緯の変位方向は確かにりゅう座γ星と逆だが、一年を通して見たときの赤緯の最大変化幅はりゅう座γ星(39”)の約半分(19”)しか無かったことです。
 もしこの二つの星の赤緯の変化が章動(つまり地軸のふらつき)によるのなら、両者の変位量は同じでなければならないはずです。彼らは、そうでない事が、今観測している変動の原因は章動ではないことを明確に証明していると言っています。(文献1.P641参照)

補足説明1
 今日の知識で説明すれば、きりん座35番星の変位がγ星の半分しかなかったのは明らかです。りゅう座γ星の黄道面に対する角度は75°ですが、きりん座35番星の黄道面に対する角度は51.5-23.5=28°しかありません。1.(2)の図から解るように、光行差による変位の軌跡は観測する星が黄道面に近づくにつれてだんだんつぶれた楕円になり、黄道面付近では直線上の往復運動になります。そのためきりん座35番星の赤緯変化幅はりゅう座γ星の約半分になります。この当たりに付いては別稿「年周光行差と年周視差による星の位置変化」1.(3)などをご覧下さい。
 
 もちろん、この変位が光行差に基づく場合にも、二つの星の赤緯の変化方向は章動と同じで逆方向になります。しかし、当時の彼らには、その理由を知る由もありません。

 

(4)ブラッドリーの天頂儀(1727年)(文献1.P642〜645)

 3.(3)で述べた二つの星の観測値に現れた赤緯変動の最大幅の違いを、それ以外の星で確かめることが是非必要になりました。しかしモリニューの天頂儀はりゅう座γ星に特化して作られていたため南北の偏向角はわずか(7〜8’つまり0.13°程度)しかないので、ブラッドリーは新しい望遠鏡を作ることにしました。
 それが2.(2)で説明した長さ12.1/2フィート(381cm)、口径3インチの天頂儀で、観測精度はほぼ0.5秒角です。これはロンドン近郊のWanstead(北緯51.5°)に設置されたので、天球上の赤緯51.5°を中心にしたプラスマイナス6.1/4°つまり赤緯45〜58°の範囲の星の天頂通過を観測できることになります。この範囲にはBritish Catalogue の約200の星がふくまれ、特に明るい星としてはぎしゃ座のα星(カペラ)が観測できました。(文献1.P642〜643)
 1727年8月19日に完成するとブラッドリーはKewのモリニューと連携して観測を始めたのですが、不幸なことにモリニューは1728年4月に39歳で亡くなってしまいます。そのため以後の観測はブラドリーだけで行うことになりました。
 その後の観測でブラッドリーは、彼の天頂儀の観測範囲(赤緯45〜58°)にある様々な赤経や赤緯にある星のなかで、昼間でも観測できる明るさを持つ12個以上の星を選びました。それらの星の移動を年間を通して観測したのですが、彼は二つの重要な事を発見します。(文献1.644〜645)

 第一に解ったことは観測した星々の赤緯の変化について、どの星も夕方の6時頃天頂を通過する時期(季節)に最も北側に移動し、明け方の6時頃天頂を通過する時期(季節)に最も南側に移動していました。そして昼間に天頂を通過する時期(季節)には、それらの星々は日々南に向かって移動しており、夜中に天頂を通過する時期(季節)には日々北に向かって移動していたのです。
 第二に解ったことは、それらの星々が位置する場所の赤経の違いに応じて赤緯の最大変化幅が変化する事です。天の赤道は天の黄道に対して傾いているため同じ赤緯の星でも赤経が変われば、その星の黄緯(地球公転面からの角度)が変わりますが、上記の年間を通しての赤緯の最大変化幅は黄緯のsin(正弦)に比例して変化しているように見えました。しかし、ブラッドリーはさらに詳しく調べてみると完全にはsin(黄緯)に比例しているとは言えないことを見つけました。(文献1.644〜645)

補足説明1
 今日の光行差の知識から行くと、第一の現象のメカニズムは明らかです。3.(1)の図で良く検討すれば、光行差はそのように見えます。
 
 第二の現象も、光行差により星が天球上に描く楕円の短軸は黄経線に沿い長軸は黄緯線に沿っていることに注意すれば理解できます。彼らの望遠鏡は黄経線に沿った黄緯(黄道面からの角度)の変化ではなく、赤経線に沿った赤緯(赤道面からの角度)の変化を測定していたのですから。黄経線に沿った最大変化幅(楕円の短軸幅)はsin(黄緯)に比例しますが、赤緯線に沿った最大変化幅(楕円の短軸とは少し斜めになるため)は、それとは少し異なる事になるからです。詳しい説明は「年周光行差と年周視差による星の位置変化」1.(3)参照。

 

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4.結果の解釈

 3.(4)の事実は、ブラッドリーが観測している星の視差の変動は太陽との位置関係に依存していることを明瞭に示しています。これらの観測を1年近く続けると、彼が観測している現象が示す法則の全貌がほぼ解ってきましたので1728年になってからその原因を明らかにしようと努力します。しかし、それから半年以上経った時点でも、彼には、なぜその様な事が起こるのかそのメカニズムを解明することができませんでした。
 彼は悶々とした日々を過ごしていたのですが、ある体験をきっかけにすべてを理解します。それが次に述べるエピソードです。

(1)発見の逸話(Thomas Thomson「History of the Royal Society 」(1812年)P346〜347)

 ブラッドリーが光行差のメカニズムを見付けた時の逸話は有名です。それは1728年の初秋のある日、テムズ河で船遊びを楽しんでいたブラツドリーがヨットのマストの天辺につけた風見の風向計の指し示す方向を見ているときに起こりました。ヨットがターンするたびに、風上を左に見て走る場合と右に見て走る場合とでは、風向計が指し示す風向きが少し違って見えることに彼は気が付いたのです。そのとき彼は突然悟ります。「風向計が指し示す方向は、空気の流れのベクトルとヨットの速度ベクトルの差の方向になるのですが、それと同じように光の速度ベクトルと地球の運動速度ベクトルの差の方向が望遠鏡を向けるべき方向なのだ」と悟ります。その考え方に従うと、彼が観察した星々が示す不可解な移動がすべて旨く説明できたのです。
 今日、我々がこの逸話を知ることができるは Thomas Thomson が「History of the Royal Society 」(1812年出版)P346〜347に書き残しておいてくれたからです。有名な逸話ですから、その部分を引用しておきます。(参考文献2.)

At last, when [Bradley] despaired of being able to account for the phenomena which he had observed, a satisfactory explanation of it occurred to him all at once, when he was not in search of it.
He accompanied a pleasure party in a sail upon the river Thames.
The boat in which they were was provided with a mast, which had a vane at the top of it.
It blew a moderate wind, and the party sailed up and down the river for a considerable time.
Dr. Bradley remarked, that every time the boat put about [turned], the vane at the top of the boat's mast shifted a little, as if there had been a slight change in the direction of the wind.
He observed this three or four times without speaking; at last he mentioned it to the sailors, and expressed his surprise that the wind should shlft so regularly every time they put about.
The sailors told him that the wind had not shihted, but that the apparent change was owing to the change in the direction of the boat, and assured him that the same thing invariably happened in all cases.
This accidental observation led him to conclude, that the phenomenon which had puzzled him so much was owing to the combined motion of light and the earth.[日本語訳はこちら

 

(2)光行差の説明(文献1.P645〜651)

 ブラッドリーは前項4.(1)の着想に基づいて光行差の現象のメカニズムを余すことなく説明することができた。ここの内容は、授業で習う良く知られている事柄なので説明は省略しますが、この中で面白いのは、ブラッドリーがしきりに”Particle of Light(光の粒子)”という言い方をしていることです。
 この時代はニュートンが主張した光の粒子説が一般的だったのでしょうね。光の“粒子説”と“波動説”の詳細は、こちらのBorn(p86〜90)の説明、あるいはPais(p72〜78)の説明を参照。
(文献1.P645〜648)この部分の翻訳は文献3.にあります。

 彼は、この後で光行差のメカニズムに従えば、3.(4)で明らかに成った事実が旨く説明出来ることを解説しています。興味のある方は源論文を読まれて下さい。ただし現代の我々には非常に難解な英文です。この部分も良く知られている事柄なのですが、正確に説明するには球面三角法を用いた面倒な解説が必要なので別稿「年周光行差と年周視差による星の位置変化」1.(3)に回します。
(文献1.P648〜651)

 

(3)歳差と章動(文献1.P651〜652)

 光行差のメカニズムの説明の後で、彼はいよいよ光速度と地球の軌道上における公転速度との比を決定する話しに入るのですが、その前に彼は、非常に興味ある事実を報告しています。以下の訳文は文献4.からの引用です。

・・・・・これを前提にして、今や自分の観測によって、光速度と地球の軌道上におげる公転速度との比の真の値を決定しようと思います。 ただし、前述の現象は私がここに示した原因にのみ依存するものと仮定します。
 ただし、その前に次のことを了承してもらわねばなりません。それは、これから御覧いただく観測値はすべて、歳差による赤緯変化を、歳差が時間に比例し年間を通じて一定であると仮定して差し引かれたものであることです。さて、これまでに私は観測値から恒星の赤緯の経年変化の真の値を推算してきて、これについては、このような処理を施したデータを用いる方がよいと考えます。なぜかと言いますと、これまでに計算して得られたどの値によっても、二分経線(赤経が0hと12h)付近の星々がその赤緯を、現在一般に仮定されているように歳差がただの50”とした場合よりも、1年間に1”5ないし2”多く変化させることを説明できるからです。このような赤緯の徴小変化を観測年度の異なる他の星にも認めました。しかし、それらは前のと同じ原因によるようには見えませんでした。特に、二至経線(赤経が6hと18h)の付近の星々では、逆に歳差を50”とした時にとるはずの値よりも赤緯の変化が減っていたのです。今のところ、これらの徴小変化がある規則的な原因に由来するのか、または観測装置、特に望遠鏡に生じた何らかの変化によるものであるのか、なお十分な判断を下し得ないでおります。
 しかしながら、私がこの問題にどのような努カを払ってきたかを、あなたにお話しすることは、結果的には、この問題に何ら注意を私わなかった場合と違いのないことになったとしても、無意味にはなるまいと考えたのです。それがどんな値になるかを、まず龍座γ星の観測値によってお見せすることにしましょう。この星は3月初めには9月での位置より39”南側に見られました。・・・・・
(文献1.P651〜652)

補足説明1
 ブラッドリーが観測した星々の赤緯変化には、歳差運動に伴う経年的な赤緯変化が重なっています。歳差とは地球の自転軸の歳差運動(首振り運動)により、春分(秋分)点が黄道上を西向きに1年当たり角度にして約50秒移動する現象です。そのため赤経0h付近の星の赤緯は年に約20秒の割合で増加し、赤経12h付近の星の赤緯は年に約20秒の割合で減少します。また赤経が6hと18h付近の星については赤緯はほとんど変化しませんが、赤経が時間で約3秒(角度で約46秒)増加します。(詳しくは6.歳差と章動、「歳差による星の位置変化」、「ブラッドリーの恒星表(1780年分点)」等を参照)
 3.(3)で述べたように、彼は歳差運動のことは十分承知していましたから、光行差のメカニズムを理解した後に、光行差の理論によって観測結果を解析するとき、歳差運動の経年変化に伴う赤緯の変動を差し引きました。そのとき、その補正を考慮しても観測値は上記のようにさらに何か訳の解らない変化が重なっていたのです
 つまり、1729年の時点でブラッドリーは光行差や歳差の視差以外に、さらに何かごくわずか変動する視差が重なっている事を明確に認識していました。そのため彼は、この後20年近くこの微少変動の観測を続けます。
 これは、まさしく今日、章動(地軸が歳差運動に加えてさらに細かく振動する)と言われる現象です。これは月と地球が互いに回転する軌道面が地球の公転面(黄道面)に対して傾いているため、その回転の軸(地球と月の重心を通り月の公転面に垂直)が太陽の引力の影響で歳差運動をする現象です。これは天球上の月の軌道(白道)と黄道との交点が公道上を西にすすむ現象(黄道上を18.6年で一周)となって現れる。(6.歳差と章動を参照)
 その影響が地球の地軸のふらつきとなって現れるのが章動です。ブラッドリーが観測した年は、ちょうど記載されたような移動が生じる位相の時期だったと言うことです。彼は、その後の20年間の観測結果をまとめて、章動の現象として1748年に報告(参考文献7.)しています。

 

(4)光の速度(文献1.P652〜653)

 ブラッドリーは前項4.(3)で述べた誤差を踏まえた上で、ここでいよいよ光の速度の見積に入ります。
この部分の翻訳は文献4.にあります。
 彼はまず、りゅう座γ星の黄緯(黄道と星の位置のなす角度)が75°であることと、γ星の赤経線に沿った赤緯の最大変化幅が39”であることから、光行差に伴う楕円の長軸が40.4”であることを導きます。これは黄道の北極にある星が光行差によって描く小円の直径でもあります。
 だから長軸の半分は20.2”となるので、高校で習う光行差の考え方(1.(2)参照)から光速cと地球の公転速度vの比は

となります。
 彼は、これを用いて光が太陽・地球間を8分12秒で伝播する事を導きます。このとき彼はなぜか光の絶対速度を求めていません。絶対速度を求めるには地球の公転速度vが必要で、そのためには地球軌道の公転半径rが解っていなければ成りません。おそらく当時の公転半径の信頼性が低かったからでしょう。太陽・地球間の伝播時間は公転半径rの値が解っていなくても導けるので時間で説明したのでしょうね。

 光の速度が有限であることは、1675年にデソマーク人のレーマー(1644〜1710年)が、木星の衛星の食が生じる時間間隔が少しずつ変化する事から発見していました。彼はこの食周期の変動差分を加え合わせて見ました。そのとき、木星に対して地球が合(地球が太陽と木星の間にある)から衝(太陽が地球と木星の間にある)になるまでの差分の加算値と、衝から合になるまでの差分の加算値が絶対値が等しく、正負が逆であることを見付けます。彼は、この加算値こそが光が地球の公転軌道直径を横切るのに要する時間であることを見破り、光速度が有限であることを知りました。彼が求めた加算値の半分が、光が太陽・地球間を伝播する時間ですが、それは11分でした。その後の観測データからは7分という結果もあった。
 プラドレーは彼が求めた8分12秒が、それらの値と良く一致することから、彼が発見した星の視差(光行差)の現象からも、光の速度の有限性と普遍性が確認できるとしています。 

 このとき重要な事は、光行差の現象は光の速度の普遍性にのみ依存しており、星がどの様な明るさ(つまり距離がどの様に違っていても)であっても、その最大変位はすべて等しくなる事です。この事実はとても重要で、彼が観測したすべての恒星のデータが、その星までの距離がどんなに違っていようと、等しい信頼性を持つことを意味します。その為、それらのすべてを用いれば観測値の精度を確かめることができると彼は考えました。その観測精度こそ年周視差の見積に必要なもので、その当たりを次項5.で説明します。

 

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5.年周視差の見積

(1)光行差楕円の正確な長軸直径を求めること(文献1.P654〜655)

 すでに述べたように、光行差楕円の長軸直径はすべて同じでなければ成りません。ブラッドリーは先ず光行差楕円の正確な長軸直径を求めるために彼のすべての観測データを利用します。

補足説明1
 彼はその手順は詳しくは書いていませんが、おそらく次のようなものだったと思います。まず彼が観測したそれぞれの星の赤緯、赤経、黄緯、黄経から球面三角法を用いて光行差楕円の短軸と赤経線との傾き(つまり赤経線と黄経線の成す角度)を求める。次に彼が観測した星の赤緯の最大変化幅に、前述の角度と光行差楕円の短軸直径が長軸直径のsin(黄緯)倍であることを適用して、長軸直径を求める。もしブラッドリーの光行差の仮説が正しければ、その値はすべて同じ値40.4”になるはずです。

 彼は、上記の手順で求めた値の例を幾つか挙げています。ただし、彼が挙げた星の位置は今から約300年前の赤緯、赤経、黄緯、黄経で考える必要があります。300年も経てば歳差や、星の固有運動(太陽が銀河系の中で運動しているので)によってそれらの値はかなり変わります。
 このあたりの実際の変化量は、「歳差による星の位置変化」、「ブラッドリーの恒星表(1780年分点)」を参照。また「年周光行差と年周視差による星の位置変化」1.(3)も参照されたし。

 ブラッドリーは上記のデータ以外の幾つかのデータも考慮して光行差による移動の最大値はすべて40”〜41”の間にあるので、光行差楕円の長軸直径は誤差1”以内の信頼性で40.5”として良いであろうと言っています。
 また、これは前記の太陽・地球間を光が進むに要する時間が8分13秒であることに相当しますが、長軸直径の誤差が1”以内だから、その伝播時間の誤差も5〜10秒以内だろうと言っています。

 

(2)正確な半長軸を用いたγ星とη星のデータ分析(文献1.P656〜659)

 ブラッドリーは前項5.(1)の結論40.5”は誤差1”以内の信頼性を持つので、この値を用いて彼はいよいよ年周視差検出の考察に進みます。 それは、[年間を通じて観測できた星の赤緯変化の観測値]と、[光行差直径の40.5”と各星の黄緯、黄経を考慮して計算される赤緯の計算値]を1年を通して比較してみる事です。

補足説明1
 1.(1)(2)あるいは3.(1)(2)で説明したように年周視差と光行差の視差は反時計回りに90°ずれます。その為、光行差の赤緯変化の最大値、最小値付近での年周視差はほとんどゼロで、光行差による赤緯変化の中間地点(赤緯の1日当たりの変化量が一番多い時期)あたりで年周視差による変位は最大になります。
 そのため光行差の理論計算をするときに、赤緯の変化幅と、最大値・最小値の赤緯を観測値と一致させて定まる光行差楕円を用いて、光行差による赤緯の変化を理論的に求めてみました。最大値・最小値付近での年周視差はゼロなのですから、その様に置くことは極めて適切です
 そして、上記の赤緯が1日当たり最大に変化している付近の、理論的に計算した光行差による赤緯変化値と、実際の観測から得られた赤緯変化値と比較してみれば年周視差を見つけることが出来るかも知れないと考えたわけです。素晴らしい着想です。

 ブラッドリーは上記の方法の詳細をとりたてて書いていません。おそらく最終的な結果として年周視差を見つけられなかったのでその当たりの説明は省略したのでしょう。しかし、彼はきっとこのように考えたのだと思います。

 彼は比較する星として、りゅう座γ星大熊座η星を選びます。りゅう座γ星は3.(1)ですでに説明した星ですが、1年の内に70回以上の観測が出来ていました。また、大熊座η星はベネトナシュ別名アルカイドといい、実視等級1.9で、今日の赤経13h48m赤緯49°19’の星(星図参照)ですが、1年で約50回の観測が達成出来ていました。次に示す二つの表が両者を突き合わせた結果です。
 

 
 このとき大熊座のη星は赤経約13h48mだから分点(春分点・秋分点)と極を通る大円に近いため、自転軸の歳差運動によってη星の赤緯は1727年の9月から1728年の9月までの1年間に約20”ほど南へ移動していく事を注意して、計算にはそのことも考慮したことを記している。(6.歳差と衝動と「ブラッドリーの恒星表(1780年分点)」を参照)

補足説明2
 りゅう座γ星の赤経は17h56mですから、光行差による赤緯変化は9月7日に最も北側に寄り、その半年後の3月7日に最も南側に寄ります。そして、もし年周視差が観測されているとしたら、その中間点の12月頃に年周視差による赤緯変化は南への差分として現れ、6月頃には北への差分として現れるはずです。
 つまり、それは12月頃の観測値が理論値より南側にずれて上記左表(この表は9月7日の位置からどれだけ南へ偏っているかを表している)の2列目の値が3列目の値より大きくなる事を意味します。また6月頃の観測値が理論値より北側にずれて上記表の2列目の値が、3列目の値より小さくなる事を意味します。

補足説明3
 大熊座η星の赤経は13h48mですから、光行差による赤緯変化は1月17日に最も南側に寄り、その半年後の7月17日に最も北側に寄ります。そして、もし年周視差が観測されているとしたら、その中間点の4月頃に年周視差による赤緯変化は北への差分として現れ、10月頃には南への差分として現れるはずです。
 つまり、それは4月頃の観測値が理論値より北側にずれて上記右表(この表は1月17日の位置からどれだけ北へ偏っているかを表している)の2列目の値が3列目の値より大きくなる事を意味する。また10月頃の観測値が理論値より南側にずれて上記表の2列目の値が、3列目の値より小さくなる事を意味します。

 残念ながらブラッドリーは幾らこの表を眺めても上記の差分を認める事は出来ませんでした。年周視差は測定誤差1”の中に埋もれていたのです
 結局、彼は年周視差を見つけることは出来ませんでしたが、黄緯も黄経も異なっている二つの星で、観測値と光行差理論(楕円長軸40.5”)による計算値とが年間を通じて誤差1”以内で極めて良い一致を示している事を確かめる事はできました。それで、彼は、このことから彼が明らかにした光行差現象の仮説が確かめられたとしている。

補足説明4
 今日の知識によると、りゅう座γ星の距離は130光年だから年周視差p=3.26/130=0.025”となり、大熊座η星は93光年でp=3.26/93=0.035”ですから、見つけるのは不可能だったでしょうね。

 

(3)年周視差の見積と恒星までの距離(文献1.P660)

 ブラッドリーは論文の最後で、前項5.(2)に記したように[光行差による赤緯変化の計算値]と、[実際に観測された赤緯変化]がほぼ誤差1”以下で一致したことに注目します。
 恒星の赤緯の観測値の変動には当然年周視差による変動も重なっているはずです。それにも関わらずこれらの観測値が光速度から予測した変位と1秒以下の誤差で良く一致すると言う事は、年周視差による変位が1秒以下であることを意味すると、彼は結論づけることが出来ました。
 さらに、これらの星々の年周視差が1”以下だということはγ星やη星の位置は、地球の公転軌道半径rの400,000倍より遠くであると結論づけることが出来ました。

つまり光行差の観測精度を吟味することによって、恒星までの距離がどのくらい遠いものであるかを初めて具体的に示すことが出来たのです。

補足説明1
 ブラッドリーのこの考察は重要です。これにより年周視差は存在するとしても1秒以下であろうから、その観測には1秒以下の位置観測の精度を実現する必要があることを明らかにしたのですから。
 この時点までの年周視差を発見する試みは、フックにしろブラッドリーにしろ星の絶対的な赤緯の年変化から見つけようとするものでした。しかし、この絶対赤緯の変動には、光行差(年周に加えて日周約0.31”もある)、さらに歳差や章動に伴う変動、そして恒星の固有運動(1717年にハリーが古代のプトレマイオス星表と当時の星の黄緯を比較して、その位置が変化していることから発見)、大気差、大気のゆらぎ・・・・・等々の1年当たり1”をはるかに超えるものも含めて様々な変位が重なっている。だから、彼の光行差を突き止めた観測は年周視差を赤緯の絶対測定から見つけるのはかなり困難だということを明らかにした観測でもあります。
 ブラッドリーは1748年の章動についての論文(参考文献7.)で、年周視差を見つけるには明るい星を観測すべきだ、そして明るい星(近くの星)と、その近くの暗い星(遠くの星)の相対的な位置の年変化を観測することによって年周視差をさがした方が良いと言っています。

 それから100年近く経った1838年頃に実際に観測された年周視差はすべて1秒以下だったのですから、まさに重要な考察だったといえます。ちなみにストルーペは琴座のα星(ヴェガ)の相対視差から、ベッセルは白鳥座61番星の相対視差から、ヘンダーソンはケンタウルス座のα星の子午線観測による赤緯の絶対視差(当時測定困難と考えられていた)の測定から見つけています。[太陽系近傍の星々][年周視差発見物語と、Besselの報告

 

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6.歳差と章動

(1)歳差

.発見の歴史

 地球の地軸が時と共に変化する現象を歳差といいますが、この現象はヒッパルコス(前190年頃〜前125年頃)がB.C.150年頃発見しています。中国でも東晋時代の虞喜(ぐき 281年〜356年)が発見しています。
 春分点や秋分点を基準にして、太陽が分点から出発して黄道上を一巡りしてもとの分点に戻るまでの期間を太陽年(回帰年、分点年365.2422日)といいます。一方天球の恒星に対して一周する期間を恒星年(365.2564日)と言います。1年経つと分点が少し西に移動していますから、当然太陽年は恒星年よりも少し短くなります。1年に二種類ある事が知られていましたので、中国ではその時間差を歳差(つまり年の差)と呼んでいました。

補足説明1
 ヒッパルコスが歳差の現象を見つけた方法は、プトレマイオスが記した「アルマゲスト」第7巻、第2章の記述から推察できる。ヒッパルコスが歳差を論じた研究は「アルマゲスト」に引用されたものを除いて、残念ながらすべて失われている。[ダンネマン著「大自然科学史A巻]p67、p74も参照]
 ヒッパルコスは秋分点(黄経180度・黄緯0度)近くのスピカ(乙女座)付近で起こった幾つかの月食に注目した。月食は太陽と地球と月が一直線に並んだときしか起こらないので、月食時の月は必ず黄道上にある。そのとき月食は様々な黄経の位置で起こるが黄緯は必ずゼロなので、ヒッパルコスは黄経180付近で起こったいくつかの月食からスピカの近くを通る“黄道”の正確な位置を知ることができた。
 一方“天の赤道”北極星[もちろん当時の北極付近にあった星は現在の北極星とは異なる]から90°隔たった線ですから、簡単に求めることができる。もちろんこの場合も大気差を考慮しなければならないが、天頂付近で星々の間の角度をつないでおけば星々の天球上での相対的な角度は正確に確定できる。
 両者を用いれば、スピカ付近にある分点(秋分点)の天球上での位置を正確に知ることができる。そのためヒッパルコスは当時のスピカの黄経、黄緯を正確に知ることができた。
 ヒッパルコスはスピカの黄経、黄緯を、彼の時代より170年ほど前にティモカリスが得ていたスピカの黄経、黄緯と比較してみた。ティモカリスもスピカの付近で起こった幾つかの月食の観測記録から同様な方法で秋分点を求めてスピカの位置を測定していた。
 ヒッパルコスは、彼の時代にスピカが秋分点から6°の距離にあるのに、ティモカリスの時代には秋分点から8°の位置にあることを見つけた。さらに、他の星々のスピカに対する黄経の差はティモカリスの時代と変化していないことを発見した。[残念なことにティモカリスが作成した恒星の目録はわずかな星を除いて、ほとんどが失われてしまって今日まで残っていない。ここの具体的な数値はプトレマイオスが「アルマゲスト」に引用しているものです。]
 そのため、彼はすべての星が十二宮の方向にほぼ同様な運動をすると結論した。アルマゲストの記述に従うと、分点の移動は100年に約1.2度(1年に約70”)程度となる。[正確な値は50”/年]
 ここで注意してほしいことは、彼の時代には地球の地軸が回転するという考え方はなく、“天の黄道”と“天の赤道”の交点に対して天の星全体が十二宮の方向に同じような運動をしていると考えていた。

補足説明2
 黄道は天球上を太陽が移動する道ですが、昼間の太陽は明るいので天球上での正確な位置を決めるのは困難です。夕方や明け方の太陽と、そのとき見える明るい恒星との間の角度を測定すれば天球上の太陽のおよその位置を知ることができますが、大気差の影響が大きくなるので正確に求めるのは難しい。
 そのために地球に対して太陽と真反対の方向に夜間に生じる月食を用いたのです。夜間だから近くの星との相対的な位置を正確に決めることができる。
 月食時にできる月面上の地球の影の中心がまさに黄道上の点ですから、スピカ付近で起こった幾つかの月食記録があれば黄道が正確に求まるわけです。ちなみに月の視直径は30’(0.5°)程度ですが、部分月食などの場合は影の円弧の様子から地球の影の中心(月食中心)を予測する
 月はかなり明るい天体だから皆既月食の時間帯に入ったときでないと近くの星と、月食中心との角度を直接測定することは難しいかも知れません。しかし、天球上での月の軌道(白道)は常日頃からかなり正確に測定できていたでしょうから、月食の起こった時刻を正確に記録しておけば、月食が起こったときの月の位置を後からゆっくりと白道から決めるのはたやすかったでしょう。月食が起こった正確な時刻は、月食時に天の赤道上の適当な星の赤経を正確に測っておけば記録できます。

補足説明3
 当時、月食が地球の影であるという認識はあった。実際、ヒッパルコスは月面上に生じる地球の影の様子(時間的経過も含めて)から月の位置での地球の大きさを予想して、その見かけの直径の視角から地球と月の距離が地球半径のほぼ59倍[正確な値は地球赤道半径の60.27倍]であることを知ったようです。
 当時、地球と太陽の距離は地球と月の距離にくらべて遙かに大きいと考えられていたので、太陽からの平行光線によって地球の影がそのまま月の上にできるとして、その見かけの視角と三角比から求めたらしい。
 実際のところ、ヒッパルコスはもっと精密な考察をしているようです。このことに関するWikipediaの記事“On Sizes and Distances”を翻訳紹介されたページがありますのでご覧下さい。中程の“スワードロウによる第2巻の復元”の部分がそれです。この部分を別稿「ヒッパルコスが月までの距離を測った方法」でさらに解りやすく説明しておりますのでご覧ください。
 実際、月食時にできる地球の影の直径の視角は今日の知識(月の半径は地球の1/4)を用いると2°程度となる。地球半径の視角にすると1°程度となる。ヒッパルコスの観測値はおそらく0.98°程度であったのだろう。そうすると、地球の半径をr、月と地球の距離をRとすると

となり、上記の値が得られる。これは当時としては驚くべき精度で、ヒッパルコスの観測が極めて正確に行われていたことを教えてくれる。[ダンネマン著「大自然科学史A巻]p76参照、プトレマイオス「アルマゲスト」第5巻、第11章〜第15章]
 中学校理科で習うように、エラトステネス(前275年〜前194年)が地球のおよその大きさを測ったのは、ヒッパルコスよりも少し前の時代ですから、その値を用いれば月と地球の実際の距離も知ることができる。

補足説明4
 斉藤国治著「古天文学」恒星社(1989年刊)のp131に、ヒッパルコスが月食ではなく、日食を用いて月までの距離を求めた別の方法が紹介されています。
 それは、ヘレスポンド(現在のトルコ)とアレキサンドリア(現在のエジプト)で同一の日食を観測した記録に於いて、食分に違いが生じたことを利用して月までの距離計算するものです。興味深い記述なので、その部分を別稿にて引用しておきます。
 このことに関するWikipediaの記事“On Sizes and Distances”を翻訳紹介されたページがありますのでご覧下さい。後半の“トゥーマーによる第1巻の復元”の部分ですが、とても解りやすく解説されています。

 

.メカニズム

 歳差が起こるのは地球が完全な球体ではないからです。もし完全な球体の場合は月、太陽やその他の天体からの引力が地球にトルクを与えることは出来ない。しかし地球は下中図の様に真ん中が膨らんでいるため、地軸が傾いているとF1とF2の方向と大きさ(F1<F2)が異なることになる。F1とF2の合力は地軸を直立させてその軸を黄道面に垂直にしようとするトルクとして働く。
 これは地球の公転運動(太陽に対するものと、地球・月の重心に対するもの)にともなう慣性力を太陽や月の引力から引き去った残りの力(別稿「潮汐力」参照)が及ぼすもので、潮の満ち引きを引き起こす起潮力が地球の赤道部のふくらみの部分に作用する力の合力に他ならない。ふくらみの部分が地球−月、地球−太陽の方向に対して23.5度傾いているからトルクとなる。膨らんでいることと傾いていることは重要です。
 このとき回転している剛体は、ある方向に傾けようとしても、その傾けようとした方向に対して直角な方向に作用してしまう。(なぜそうなるのかは剛体の力学の知識が必要なのでここでは説明しない。)


 そのため地軸は上右図の方向に回転していく。このとき[歳差運動の方向]、[自転の回転方向]、[トルクの作用する方向]は互いに密接な関係にある。自転の回転方向が逆になると歳差の方向も逆になる。また自転の回転方向は同じでも、トルクが自転軸を傾ける方向に働くと歳差の方向は逆になる。
 この当たりはコマで実験するときには注意する必要がある。コマの場合、重力の影響は回転軸を地面に向かって倒す方向に働くので歳差運動の回転方向は地球の場合と逆になる。

補足説明1
 ここでは、コマの理論の詳細を説明しないが、上記の事柄は写真に示すようなジャイロコマ

を玩具店で購入して、下図に示す状況の実験をやってみれば直ちに了解できる。

 コマの心棒の尖端を糸で吊して逆さにして回転させてみると重力のトルクは心棒の傾きを地面に垂直にする方向となり、歳差が逆になるのが解る。地球の自転軸(コマの回転軸)と月・太陽による引力の関係は上図の(3)の場合に相当する。
 地軸の歳差運動が、太陽と月が地球の赤道部分のふくらみに及ぼす引力のために生じることを明らかにしたのは、フランスの数学者ジャン・ル・ロン・ダランベール(1754年)です。
 歳差運動が起きるメカニズムの解りやすい説明。[拡大版

他のおもりについての補足

 

.天の北極の移動

 地軸が回転するために、天球上の赤道の北極は、黄道の北極を中心にして時計回りで移動していく。この周期は約25800年であることが現在解っている。次の図は球面を平面的に表した上に描いているので正確な軌道ではないが大体の様子は解る。[拡大図はこちら

 星座図中の次の表示の方が解りやすいかもしれません。

補足説明1
 ちなみに、B.C.2500年頃の北極はこぐま座のβ星(コカブ)とおおぐま座ζ星(ミザール)を結ぶ直線上にあった。つまりこの二つの星は地球の自転に伴って、当時の北極を中心とした同心円を描く。クフ王のピラミッド(B.C.2540年頃)の稜線が正確に当時の北を向いていた事は有名ですが、その二つの星を用いて北の方向を見いだしたと考えられている。
 つまり当時の北極の方向には現在の北極星の様な目印になる星は無かったので、コカブとミザールが地平線上に垂直に並んだ時、その二星を結ぶ直線が地平線と交わった点が正確な北の方角だと判断した。(雑誌Nature,2000年)

 

.歳差による星の赤緯と赤経の年変化

 歳差運動によって天の赤道上の春分点、秋分点(黄道と赤道の交点)が年に約50”の割合で西へずれていく。(下図参照)


 天球の赤経は春分点を起点にして定められており、赤緯は赤道からの角度で定められているから、歳差運動に伴って星々の赤緯・赤経が時間とともにどんどん変化していくことになる。

 赤経変化に関しては、赤道付近の星々は年に角度にして約46”(時間約3秒)増大していく。赤道から離れると極の移動が伴ってくるので場所によりかなり異なるが、極付近のしかも20時前後の特殊な場所を除いて、ほとんどが正の値になる。
 赤緯変化に関しては上図から明らかなように赤経が0時付近(0°付近)の星は年に角度で約20”近く増大して、極に近づいていく。一方赤経が12時付近(180°付近)の星は年に角度で約20”近く減少していき、極から遠ざかっていく。6時(90°)と18時(270°)付近では赤緯の年変化はほとんど無くなり、それから経度が離れるに連れて大きくなる。

 変化量の計算式は「歳差による星の位置変化」を参照。また、各星の具体的な変化量は「ブラッドリーの恒星表(1780年分点)」を参照。ただし、この表では赤経を時間ではなくて角度で、また赤緯を赤道からの角度ではなくて北極からの角度で表している。またこの表の第6欄は絶対値で表記されているので正負の符号に注意されたし。

補足説明1

 

(2)章動

.発見の歴史

 章動の現象は、ブラッドリーが光行差を発見した後の20年間にわたる恒星の赤緯変動の観測から明らかにしたものです。彼は1747年のマックルスフィールド伯爵への手紙(文献7.)で、恒星の赤緯に振幅±9”〜10”で、18.6年の変動(章動)が存在することを報告している。
 これは歳差による地軸の円錐運動に重ね合わされた小振動で、その力学的原因は、月の軌道の白道(黄道に対して5°傾いている)と黄道との交点が、黄道上を18.6年で逆行(東から西へ移動)する事による。この白道と黄道の交点が移動する現象も、歳差を見つけたヒッパルコス(前190頃〜前125頃)が発見しています。
 章動の用語は,中国の古代に、19年間に7回の閏日を入れて季節と月の朔望を合わせた暦法があり、19年を1章と呼んだことに由来する。

 

.メカニズム

 これも歳差運動と同じメカニズムで生じます。今度の場合は地球と月がその重心(別稿「潮汐力」参照)に対して形づくる回転系が黄道面に対して約5°傾いているため、太陽の引力がその回転系に及ぼす力の合力が回転系の回転軸(重心を通り白道面に垂直)を黄道面に垂直になるようにするトルクとして働きます。
 月の公転方向は地球の自転方向と同じなので、月・地球回転系の回転軸が首振り運動する方向は歳差運動と同じです。ただし、白道面が5°傾いているからと言って章動の半径が5°に成るわけではありません。上記の回転系の歳差運動によって月が地球の自転軸を黄道面に対して起こそうとするトルクが18.6年の周期で変動するために歳差運動がふらつく事になる訳です。メカニズムの詳細は現代天文学講座1の若生康二郎編「地球回転」恒星社(1979年刊)P142〜143が解りやすいので、そこの説明を以下に引用する。

 月歳差のトルクと太陽歳差のトルクの比は、月と太陽の起潮力(別稿「潮汐力」参照)の強さの比に等しく、およそ2.3:1である。そのため日月歳差による地球の自転軸の移動速度約20”/年のうち、月歳差はおよそ14”/年、太陽歳差は6”/年を占めていることが分かる。
 月や太陽はそれぞれ1月、1年で地球の周りを公転しているので、歳差を生み出すトルクベクトルも1月、1年周期で変動する。それらの変動を平均化した効果を見積には、月、太陽の質量を公転軌道上に均等に分布させた、リング・ムーンやリング・サンというものを考えると便利です。それらのリングの中心軸と地球の自転軸との傾きが歳差運動のトルクを生み出す。
 そのとき、トルクの強さは[地球の力学的扁平率]と、[sin2θ]と、[月or太陽の質量]に比例し、[地球から月or太陽までの距離の3乗]に逆比例する。ここでθは地球の自転軸とリング・ムーンorリング・サンの中心軸とがなす角を表す。そして、トルクベクトルの方向はリング・ムーンorリング・サンの中心軸と地球の自転軸がつくる平面に垂直です。

 章動には上記の18.6年周期のもの以外に、太陽質量がリング・サン状ではなくて、塊として1年周期で移動するために生じるトルクの変化に伴う半年周期の章動や、月質量がリング・ムーン状ではなく、塊として1ケ月周期で移動するために生じるトルクの変化に伴う半月周期の章動がある。それらの周転に伴うトルク変動の大きさは前記のリング・サン歳差やリング・ムーン歳差を生じるトルクの大きさと同じ程度だが、それらはそれぞれ半年or半月でトルクの方向が逆転するため地軸の移動が蓄積できず、章動楕円の半径は小さい。太陽による半年周期章動で約0.5”、月による半月周期章動で約0.1”程度である。
 リング・ムーン歳差(〜14”/年)やリング・サン歳差(〜6”/年)では、トルクがいつもほぼ同じ方向を向いているために大きくなれるのである。リング・ムーン歳差の白道面のふらつきによるトルクベクトルの大きさの変動(前図参照)は半月周期章動のトルク変動より小さいのだが周期が18.6年と長いために変化が蓄積して、章動楕円の大きさが長軸半径〜9”、短軸半径〜7”程度になるのである。
 この当たりの説明は現代天文学講座1の若生康二郎編「地球回転」恒星社(1979年刊)§3.2地球を揺り動かす月と太陽(P132〜145)が解りやすいので参照されたし。

 

.章動の大きさ

 

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7.参考文献

 光行差を授業で教えるとき、そのメカニズムを説明するのは簡単だが、それを発見した方法を説明するのはなかなか難しい。私自身も、この部分は最初疑問に思ったところですから、いつかその方法を解りやすく説明するHPを作りたいと思っていました。
 作るに当たって源論文を読んでみたのですが、意外だったのは光行差の発見もさることながら、下記の様な事柄がこの論文の中で明らかにされていることです。

 英語力のない私には時間のかかる作業でしたが、やはり源論文を読んでみるものですね。確かに、これらは光行差の発見に劣らない重要な発見だと思います。
 このHPを作るに当たって以下の文献を参考にしました。

  1. ブラッドリーが光行差を報告したものは、もともとハリーに出した手紙です。それは雑誌Philosophical Transactionsに掲載されています。
     James Bradley "A Letter from the Reverend Mr. James Bradley Savilian Professor of Astronomy at Oxford, and F.R.S. to Dr.Edmond Halley Astronom. Reg. &c. Giving an Account of a New Discovered Motion of the Fix'd Stars."(Phil. Trans. 1729 35:637-661)
    これは以下のURLから無料で入手できます。
    http://rstl.royalsocietypublishing.org/content/35/399-406/637.full.pdf+html
  2. Thomas Thomson著「History of the Royal Society 」(1812年)P344〜347
    この本はGoogle Booksで、その全ページを見ることができます。何ともすごい世の中になったものですね。
  3. 広瀬秀雄著「天文学史の試み」誠文堂新光社(1981年刊)P240〜248
    これに、文献1.P639〜641(歴史的な観測結果を述べた部分)の翻訳が掲載されている。
  4. 大野陽朗監修 自然科学原典シリーズ「近代科学の源流−物理学篇U」北海道大学図書刊行会(1976年)P240〜245
    これに、文献1.のP645〜648、P651〜653の部分訳が掲載されてる。
  5. 斉田博著「星を近づけた人々(上)」地人書館(1984年刊)P15〜20、P98〜107
    とても面白い本です。年周視差や光行差について、詳しく解説してある。
  6. Alan W. Hirshfeld著「Parallax -The Race to Measure the Cosmos-」Henry Holt and Company(2001年刊)
    歴史的なエピソードはこれを参照しました。
  7. JamesBradley, “A Letter to the Right Honourable George Earl of Macclesfield concerning an Apparent Motion Observed in Some of the Fixed Stars.”, Phil. Trans., January 1, 45:p1〜43, 1748年
    章動について報告した論文です。これもPhilosophical Transactionsの公式ページからダウンロードできます。
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