現時点(2013年)では少し古くなった情報かもしれませんが
1.藤井賢一, “キログラムの再定義をめぐる最近の動き”, 実教出版,
じっきょう理科資料No.57(2005年3月4日発行)
2.中山貫,藤井賢一, “シリコン格子定数の絶対測定とアボガドロ定数の決定”,応用物理, 62,
p245〜252,
1993年
で解説されている内容を高校生が理解できるレベルで解りやすく説明します。
アボガドロ数に関しては別稿「アボガドロ定数の測定法」も参照。
現行のSI単位系において、物質量の単位であるモル(mol)は
“0.012kg(つまり12g)の核種12Cの中に存在する原子の数と等しい数の要素粒子を含む系の物質量である”
と定義されている。ちなみに炭素には12C、13C(存在比 98.90:1.10)の同位体がありますが、その内の12Cが基準になっている。
従って核種12Cの“モル質量M(12C)”は12g/molは確定しており、この系に含まれる原子の数が“アボガドロ数”NAということです。12C原子1個の質量をm(12C)と書くと
となる。
[補足説明1]
この定義から明らかなようにアボガドロ数が測定できることと、原子1個の質量が測定できることは同じ事です。なぜなら別稿「有効数字(有効桁数)」で説明したように、乗除算を実行した後の数値の有効桁数は、もとの数字の有効桁数の内で最も少ないもに一致するからです。
だからアボガドロ数の測定精度は引用文献2.の時代で10-7のオーダーですが、原子1個の質量の測定精度もこのオーダーです。ただし、[補足説明3]で説明するように、相対質量(原子量)についての測定精度はもっと高い。
[補足説明2]
質量数12の炭素原子12Cをアボガドロ数個だけ集めた質量が“モル質量”M(12C)=12.00000・・・g/mol(ゼロが無限に続く)なのですが、炭素原子をバラバラの状態で集めたものと、ダイヤモンドやグラファイトの様に化学結合した状態で集めたものでは、その質量は微妙に異なる。
どのくらい異なるか見積もってみる。アインシュタインの特殊相対性理論が教えてくれるE=mc2でもって静止質量エネルギーで計算すると炭素原子1個のエネルギーは
となる。一方化学結合エネルギーに伴う質量変化量は、例えばダイヤモンドを例にとって別稿「反応熱と熱化学方程式」6.(1)表Vの数値を利用すると
となる。一つの炭素原子は4つの共有結合を持ち、各結合エネルギーの半分が一つの原子に所属すると考えると、化学結合(ダイヤンド)のために生じる炭素原子1個についての質量エネルギーの変化量は上記の値を4倍して2で割った
程度となる。
そのため原子の集合状態で10-8〜10-9オーダーの差が出てくる。
ところで、引用文献2.の時代のアボガドロ数測定精度は10-7のオーダーだから、一応その当たりの誤差は無視して良いであろう。しかし、もう少し精度が上がると、その違いも当然考慮しなければならなくなる。[4.章参照]
[補足説明3]
現在、アボガドロ数(1.(1)[補足説明1]から解るように原子1個の質量といってもよい)を測定するのに、炭素結晶ではなくて、シリコン(ケイ素Si)結晶が用いられます。
なぜシリコン結晶が用いられるかというと、半導体産業の繁栄に伴う技術の高度化により、超高純度シリコン単体を用いたより完全な結晶が作れるようになったからです。
次章で説明する各測定用のシリコン単結晶塊は、半導体製造現場で用いられる浮遊帯域融解法(ゾーンメルト法)によって作られた、一つのインゴットから切り出される。
そのとき、重要なのはアボガドロ数の定義の元になっている炭素原子とケイ素原子の“相対原子質量”Ar(relative atomic mass)の測定精度です。相対原子質量Ar(X)とはいわゆる“原子量”の事で、12C原子1個の質量を12.00000・・・(ゼロが無限に続く)としたときの任意の元素Xの相対質量です。
この精度が悪ければ以下の議論は成り立たないのですが、幸いなことにそれら異種原子間の相対質量Ar(X)の測定精度は、原子質量の絶対測定値よりもさらに高い精度で実現できている。それはイオントラップによる質量分析器の測定精度と量子電気力学(QED)による補正によって10-10の精度に達している。
例えば水素原子の“相対原子質量”Ar(relative atomic mass)は
となります。
異種原子の質量を換算するときの要が“統一原子質量単位”u(uified atomic mass unit)で、その定義は
です。
そのとき、別稿「有効数字(有効桁数)」で説明したように、乗除算を実行した後の数値の有効桁数は、各数字の有効桁数の内で最も少ないもに一致するので、統一原子質量単位uの測定精度(有効桁数)はアボガドロ数や12C原子1個の質量m(12C)の測定精度と同じです。
そのため任意核種Xの1原子当たりの質量
の測定精度(有効桁数)も、結局のところアボガドロ数や12C(orSi)原子1個の質量の測定精度と同じになります。
[補足説明4]
高校化学で習うところですが、12Cが原子量測定の基準に決まった過程は下記の様な事情による。
原子の相対質量(原子量)の基準は、もともと最も軽い元素である水素原子1個を1.00000・・・(ゼロが無限に続く)と決めていた[ドルトン(英)1805年]
しかし、他の原子の相対質量を決めるための測定原理は、歴史的に化学反応に於ける“質量の定比例の法則”や“倍数比例の法則”であったから、できるだけ多くの元素と化学反応する元素を基準にした方が便利であるということで、酸素原子1個の相対質量を16.00000・・・(ゼロが無限に続く)と決めることになった[スタス(ベルギー)1865年]。
ところが1913年ころになると、ソディ(英)などにより、同一元素でも質量の違う原子があるという“同位体(アイソトープ)”の概念が発見された。J.J.トムソンは、色々な気体のイオンビームを電場と磁場でまげて、同位体の相対質量を決定するのに初めて成功する。
そして、アストン(英)が発明(1919年)した質量分析器を用いて、ジオーク(米)は酸素が三種類の同位体16O、17O、18Oの混合物(存在比は99.762:0.038:0.200)であることを発見(1929年)した。
つまり、それまでの原子量の基準16.00000・・・(ゼロが無限に続く)はこの三種類の酸素原子の平均原子量であったわけです。これでは、いかにもまずいと言うことになり、どれか特定の同位体原子を原子量の基準にすべきであるということになった。
しかし、それまでに酸素の平均原子量から様々な原子の原子量が決められており、多方面で用いられていたので、それらの値をできるだけ変えなくてもすむように、他原子の中で、原子量ができるだけ整数値に近くてきりの良い値となる元素・同位体が探された。
そのとき12Cが12.000・・・に非常に近い値であったので、1960年の国際会議で12Cの原子量を12.00000・・・(ゼロが無限に続く)とすることにきまった。
アボガドロ数の測定は、以下の原理に基づく。“固体物質の密度”ρは、“モル質量”M(平均原子量にgを付けた質量)を“モル体積”Vで割ったものであり、モル体積Vは“結晶中で1個の原子が占める体積”vと“アボガドロ数”NAの積だから
となる。
単結晶物質を取り扱う場合には、“原子1個が占める体積”vは“格子定数”a(結晶中の単位胞の稜長)が求まれば計算できるので、結局“単結晶物質”の[格子定数a]、[結晶密度ρ]、[モル質量M]をそれぞれ正確に測定できれば良いことになる。
[補足説明1]
前節[補足説明3]で説明した理由で単結晶物質としてシリコン単結晶が用いられるのだが、問題になるのはシリコンSi結晶には質量数が異なる三種類の同位体 28Si、29Si、30Si(存在比は92.23:4.67:3.10)が混在していることです。
そのため、シリコン単結晶の[モル質量M]を決定するには、各同位体の“相対原子質量”Arにその存在比を乗じて平均することが必要になる。
そのとき、1.(1)[補足説明3]で述べたように各同位体の“相対原子質量”Arの測定精度は10-10のオーダーが達成できているので、シリコン単結晶の[モル質量M]の測定精度は、同位体存在比の測定精度がどこまで10-10のオーダーに近づけるかにかかっている。
[補足説明2]
別稿「有効数字(有効桁数)」で説明したように、乗除算を実行した後の数値の有効桁数は、各数字の有効桁数の内で最も少ないもに一致する。そのため[格子定数aの測定精度]、[モル質量Mの測定精度]、[結晶密度ρの測定精度]の中で最も有効桁数が少ないものでアボガドロ数の測定精度(有効桁数)が決まることになる。
引用文献2.(1993年)の時代には[格子定数aの測定精度]が8桁、[モル質量Mの測定精度]が7桁、[結晶密度ρの測定精度]が7桁なので、当時のアボガドロ数の測定精度(有効桁数)は7桁です。現在の測定精度がどこまで達成されているかは良く解りません。
以下で、[格子定数a]、[モル質量M]、[結晶密度ρ]の具体的な測定法を説明する。
最初に、結晶中で原子1個が占める体積と格子定数の関係を導く。
結晶構造の解析に於いて“単位胞(単位格子)”の概念が重要です。単位胞とは、結晶中の空間格子がつくる平行6面体のうち、空間格子の構造単位となる物です。すなわち、それを前後・左右・上下に積み重ねていくと結晶構造が再現できる平行6面体の内で最小のものが“単位胞”です。
シリコン結晶の単位胞は下図のようになる。
上図で立方格子の頂点に存在する8個の原子は、その1/8のみが単位胞に属している。また立方格子の6つの面上に存在する6個の原子はその1/2のみが単位胞に属している。そのためシリコン単結晶の単位胞中に含まれる原子数は8個です。
シリコン単結晶の場合、単位胞は一辺の長さがa(“格子定数”という)の立方体となるので、単位胞の体積はa3です。だからシリコン単結晶中でシリコン原子1個が占める体積v は a3/8 となる。
上図中に共有結合を表す棒が描かれていない原子が4個あるが、これらの原子の共有結合の方向はこの単位胞に含まれていない。その当たりは下図の様に単位胞を前後・左右・上下に積み重ねてみれば了解できる。いずれにしても単位胞を前後・左右・上下に積み重ねていくと結晶構造が再現できることに注意。
X線構造解析の道を開いた、ラウエは結晶中の個々の原子から散乱されたX線の波長の波数差が整数倍になる方向が、干渉によって強い回折像(ラウエ斑点)が現れる方向であるとして理論を展開(ラウエの条件)した(1912年)。そのとき、ラウエは、制動輻射で発生する連続スペクトルのX線を用いた。[この当たりは、例えばシュポルスキー「原子物理学T」東京図書が解りやすい]
ラウエの論文が発表されるとすぐにW.L.ブラッグはその簡単な解釈を与えた。すなわち、結晶の中に存在する原子は幾つかの方向の面(ブラッグ平面と呼ぶ)上に並んでいると考え、それらの格子面に対して反射の法則を適応すれば回折像の方向が求められるというのである。
これがブラッグの条件と言われるもので、高校物理で習うように
となる。
1枚の格子面による強め合う散乱は、原理的には反射以外の方向にも起こるが強度は小さく、相対的には無視できる。だからブラッグの条件は格子面に対する入射角と反射角が等しい反射について成り立つと考えなければらない。また、1枚の格子面だけからの散乱は微弱であり多数の格子面についての重ね合わせを論じないと観測される回折X線は説明できない。
ブラッグの方法では、波長の定まった単色の特性X線が用いられるが、ブラッグの条件は回折する方向だけでなく入射線の格子面となす角(視射角という)も規定する。ある波長のX線は特定の視射角でないとブラッグ反射は起こらない。ブラッグ父子は、この考え方に基づく画期的な実験装置を作ってめざましい成果を上げた。
このとき注意すべきは、結晶中の格子面の方向によって、格子面aに対する格子面bの散乱体原子が上図のように上下にそろって並んでいるわけではない事です。その当たりは下図の例を見れば直ちに了解できる。
一般的には下図の様に、b面上の散乱体原子はa面上の原子の真下にあるわけではないし、原子間距離もa面とb面では異なる。
そのとき
となるので、b面上の散乱体原子の位置はb面上に有りさえすればどこにあっても良いのである。また格子面上の原子間隔もa面上の間隔と異なっていてもよい。このことが言えるからこそブラッグ反射は格子面からの反射と見なせる。そして、2.(1)4.で説明するような関係が導ける。
最初に述べたラウエの実験では様々な波長を含む連続X線を結晶に当てるのだが、結晶中の各々の格子面は、その面のブラッグ条件を満たす特定波長のX線を選択して反射させるのだと考えることができる。
ラウエの考え方(ラウエの条件)とブラッグの考え方(ブラッグの条件)は結局同じことを言っているのですが、ラウエの条件よりもブラッグの条件の方がより直感的で理解しやすい。
X線回折の詳細については別稿「X線結晶解析におけるラウエの条件式とブラッグの条件式」をご覧下さい。
2.(1)1.で説明したように、シリコン単結晶中で“シリコン原子1個が占める体積”v を求めるには、シリコン単結晶の“格子定数”aが解れば良かった(v=a3/8)。
ところで、“格子定数”aは“格子面(ブラッグ面)間隔”dが解れば幾何学的に計算できるから、結局“シリコン原子1個が占める体積”v を求めるには、シリコン単結晶中の適当な“格子面(ブラッグ面)間隔”dが測定できればよいことになる。
実際に用いられたのは面指数(ミラー指数)(220)の格子面[下図]です。
面指数(ミラー指数)(l mn)の格子面とは、単位胞の三つの稜辺をそれぞれl 等分、m等分、n等分した点で、原点から最も近い三点を結んだ三角形が作る面のことです。単位胞の三つの辺長がa,b,cの場合、三つの軸をa/l,b/m,c/nの長さに切る点を結んだ面です。
たとえば下図の面は。面指数(ミラー指数)(342)の格子面です。
このとき、一つの軸に平行な格子面の場合は、その軸と面の交わる点は無限遠に在ることになるので、それに対応する指数は0となります。また軸の負側を切る場合は指数の上に横バーを記します[こちらの例参照]。
シリコン結晶の様な等軸晶形(立方晶形)[三つの稜辺長が全て等しく、かつ互いに直交している]の場合には、簡単な幾何学的考察
から解るように、格子定数aと面指数(lmn)の格子面間隔dlmnとの間には
の関係が成り立つ。
面指数(220)の場合には
となる。
“格子面(ブラッグ面)間隔”dの絶対測定は、“マッハツェンダー型X線干渉計”を使って行われる。シリコン単結晶のブロックから一体化した三枚の平行平板を削りだす(下左写真)。ブラッグ反射面は結晶板面に垂直となるように削りだされている。それぞれの結晶板をS、M、Aと記す。次にSとMは一体としAの部分だけを切り離して結晶板面に沿った方向に平行移動できるようにする(左下図)。
X線は上右図の様に最初に結晶板Sに入射して、そのまま透過するTと、ブラッグ反射するUの二つに分けられる。それを、さらに二番目の結晶板Mで、それぞれ[透過X線]と[ブラッグ反射X線]の二つに分けてV、W、X、Yとする。その内のWとXのX線が用いられる。
三枚目の結晶板Aに入射するX線Wの内でHの方向に透過するX線と、同じく結晶板Aに入射するX線Xの内でHの方向にブラッグ反射するX線が用いられる。
つまりH方向へ向かうWの[透過X線]とXの[ブラッグ反射X線]の干渉を観測するのである。結晶板Aと結晶板S・Mの板面に平行な相対的なずれの量(変位)が増加するにつれて、H方向に射出される干渉X線の強弱が周期的に変化する。その強弱の変化の回数と変位量の絶対測定値から結晶板の格子面間隔dを測定する。
結晶板S・MとAの相対的な変位は下図の装置で実現される。
前項図中のH方向へ向かう[X線Wの透過X線]と[X線Xのブラッグ反射X線]の位相を考える。今簡単のために行路差n=1でブラッグ反射角が30°の場合を考える。そのときブラッグの条件式 2d・sin30°=1×λ より、[格子面の間隔d]は[入射X線の波長λ]に一致する。
結晶板S・Mと結晶板Aの間に変位が無い場合のある瞬間の位相関係を図示すると下図のようになる。この場合H方向へ進む干渉X線は互いに強め合うことが解る。
次に、結晶板Aを例えば格子間隔の半分ほど上方にずらすと[X線Wの透過X線]と[X線Xのブラッグ反射X線]の位相差は下図のようになる。そのため、H方向へ進む2つのX線は干渉して互いに打ち消し合う。
このとき、X線Xの入射波で格子面b’やc’から反射されてH方向へ進む波は、a’面から反射された波と波長の整数倍の位相差はあるが、a’面から反射された波と完全に位相がそろってH方向へ進行することに注意。このことがブラッグの条件式の意味するところでした。
上図の幾何学的関係を、dとλの関係がより一般の場合について考察すれば直ちに以下のことが解る。
一般に、“結晶板A”を“結晶板S・M”に対して“格子面間隔”dほど平行スライドさせると[X線Wの透過X線]と[X線Xのブラッグ反射X線]の行路差は“波長”λだけ変化する。
そのため、“結晶板A”の“結晶板S・M”に対する移動量をレーザー干渉計で精密に絶対測定して、その移動の間にH方向に進む干渉X線が何度明滅したかを数える。移動距離を明滅回数で割れば格子面間隔d、さらにX線の波長λが高精度で測定できる。
実際の測定では、10pm=10-12mレベルの滑らかさで、結晶片を100μm=0.1mm=10-4m程度平行移動させる。その間にH方向へ入射する干渉X線は数万回程度明滅することになるが、それを電気信号に変えてカウントするのである。
下図はその電気信号の変化の様子を示す。なだらかなカーブは結晶片の移動距離を測定するためのレーザー干渉計の干渉光の強度変化を示している。レーザー光(可視光)の1波長レベルの移動の間に干渉X線光は何千回も明滅する様子が読み取れる。
だからここで用いられている技術の本質は、格子の周期でX線干渉信号の強度が変化するのを測定できるくらいなめらかにかつ微細に、X線光学要素を移動できるようになったことです。
結晶片の移動はダイス鋼の弾性変形をピエゾ素子の圧力で生じさせて行う。また、その際の角度制御もnrad=10-9rad精度での調整が必要です。
X線干渉信号を観察する上で、振動を減らすことと、温度を一定に保つことが最も重要である。X線干渉計の2つの部分が一緒に振動するモードはある程度大きくても良いが、相対的変位を生じる振動振幅は10-11m以下に減らす必要がある。
そのため、測定装置は多段式積層ゴムの防振台で支えた2トンの鋳鉄製の定盤の上に設置されている。実験室の温度変化は±0.1℃以下におさえられている。また、測定装置全体は±0.01℃以下の温度変化に制御された断熱恒温容器内に設置してある。そして、測定時の全ての操作は隣の部屋から遠隔操作される。
[補足説明]
このとき、当然のことですがX線干渉計の移動距離を測定するレーザー光干渉計に用いる光の波長は10-8以下の相対誤差で精密測定できていないといけない。
ところで、長さは別項で説明したように真空中の光速を299792458m/sという定義値として、“長さの単位1mは光が1/299792458秒間に進む距離”と定義されている。
この光速度の定義値は、1972年に米国国際度量衡委員会のエベンソン達が求めた数値 c=299792456.2×108±1.1m/s [K.M.Ebenson, et al., “Speed of Light from Direct Frequency and Wavelength
Measurements of the Methane-Stabilized Laser”, Phys. Rev. Lett., 29(19),
p1346〜1349, 1972年]が元になったようです。
その値は、メタン安定化He-Neレーザー光(λ=3.39μm)の周波数νを時間の基準となっている133Cs原子時計と比較して求めた値 ν=88376181627±50Hz と、レーザー光線の波長λをそれまでの長さの基準であった86Kr(2p10-5d5)の遷移に伴う光の波長(0.6057802105μm)と比較して求めた値 λ=3392231.376±0.012pm から c=λ×ν で計算されたものです。その後10年にわたってこの値の信頼性が検証されて1983年の第17回国際度量衡総会で上記の定義が採択された。
エベンソン達がどのような干渉実験で波長λを10-9の精度で求めることができたのか良く解りませんが、とにかく可視光〜赤外光の領域では、その精度の計測が可能なようです。
光速度が定義値として確定しているのなら、任意の可視光の波長λは、その光線の周波数が10-9の精度で求まれば10-9の精度で決まることになります。レーザー可視光の周波数は、時間計測の元になっている原子時計と比較すれば、この精度で測定できそうです。
1.(2)[補足説明1]で説明したように、[モル質量M]を正確に求めるには、結晶固体中の同位体組成比率を正確に測定する必要がある。現在それは以下の様な手順で行われている。
まず、[格子定数a]や[結晶密度ρ]の測定に用いるのと同じシリコン結晶インゴットからモル質量測定用の結晶を切り出す。つぎにその結晶を水酸化ナトリウムに溶かしNa2SiO3溶液とする。それを不溶性で安定なBaSiF6として沈殿させる。これを高真空中で加熱して、液体窒素下でSiF4とする。これを真空ライン中で不純物を除去したのちにイオン化してSiF3+とし、質量分析器を用いて存在比を測定する。
質量分析器中の磁場によりイオンは曲げられて、シリコンの三つの同位体28SiF3+、29SiF3+、30SiF3+に対応したピークが得られる。それぞれのスペクトルピークのイオン電流の比から存在比を決定する。その精度は引用文献2.(1993年)では8×10-7のオーダーです。
上記の方法で得られた存在比と、Siの高精度同位体原子量データを用いて平均モル質量を計算する。
そのとき、1.(1)[補足説明3]で説明したように、高精度同位体原子量(相対質量)データは10-10のオーダーで求める事ができるているので、モル質量の測定精度を決めるのは存在比測定の精度です。
いずれにしても、そのようにして得られたモル質量の測定精度(有効桁数)は引用文献2.(1993年)では8.2×10-7オーダーです。
[補足説明1]
現在の所、同位体 28Si、29Si、30Siの混在比測定精度がアボガドロ数の測定精度を決めているのですが、28Siを99.99%以上に濃縮して単結晶を作り測定精度を上げるための国際プロジェクトが進められているようです。
同位体を濃縮するにはロシアの遠心分離技術が用いられるようで、この国際プロジェクトが成功すればアボガドロ定数の測定精度も2.0×10-8まで改善できるそうです。
そうなると4.章で説明するアボガドロ定数からキログラム原器を再定義する案が実現できるかもしれない。
[結晶密度ρ]を知るには、切り出した結晶塊の質量と体積を測定しなければならない。そのとき測定精度の限界になっているのは体積測定です。単結晶シリコンの体積を高精度で計るのは結構難しいのですが、現在最も精度が良いのはシリコン単結晶を非常に真球に近い球体に加工して、その球体の多方向の直径を計測して体積を求める方法です。
シリコン結晶は硬さに異方性があるため、従来技術で真球度よく研磨することは困難であったが、最近は加工技術の進歩により球体表面を均一に、また加工変質層を少なく研磨することが可能になり、シリコン単結晶を非常に真球に近い球体に加工することができるようになった。
そのとき、キログラム原器と比較して高精度な質量測定ができるように、質量はほぼ1kgに近い値になるような球体に加工される。引用文献1.で紹介されている球体は、直径93.6mmで真球度は0.083μm、同じく引用論文2.で紹介されているものは、直径94mmで真球度は0.4μmです。
次の写真は単結晶シリコン球体の直径を測るレーザー干渉計です。約93.6mmの直径を1ナノメートルの不確かさで測定できる。ほぼ均一に分布する70方位から直径を測って球体の体積を求める。
下図はその詳細説明です。
実際にこの装置で測定された球体体積の測定精度は引用文献2.(1993年)では3.4×10-7のオーダーとのことです。
[補足説明1]
引用文献2.によると、体積測定の誤差の原因としてシリコン表面の酸化膜の影響や、結晶に不純物として混入している炭素や酸素の原子が結晶格子を歪める効果もあるようで、その当たりの補正もしなければならないようです。
また空気中で測定する場合空気の屈折率の不確かさも誤差に影響するので、真空中での測定が望まれるようです。
球体の質量はキログラム原器との比較から0.1ppm=0.0000001=10-7の精度で測定可能です。そのとき用いられるキログラム原器は当然複製品なのですが、どのレベルの精度の複製品が用いられているのかは良く解りません。その当たりの事情は別稿「キログラム原器の世界」を参照してください。
引用文献2.(1993年)に記されているシリコン球体の質量測定誤差は40μgだそうですから、測定精度は4×10-8のオーダーです。
[補足説明2]
質量天秤を用いた測定の際に、シリコン結晶は導電性があるために、静電気の影響は少ないようです。空気中での測定の場合、浮力の補正が最も重要で、空気密度の極めて正確な測定が必要なようです。
上記の結論から解るように、[結晶密度ρ]の測定精度は、球体質量よりも、球体体積の測定精度の向上にかかっているようです。
引用文献2.(1993年)の時点の [結晶密度ρ]=球体質量/球体体積 の測定精度は7.7×10-7のオーダーです。この量の精度にはまだ改善の余地があるそうで、その内に10-8のオーダーが達成できそうです。
引用文献2.(1993年)に記されている各測定値は
[格子定数a]
[モル質量M]
[結晶密度ρ]
です。
これらの値を用いて決定された1993年時点でのアボガドロ数は
となる。
上記の測定精度は1993年時点のものですが、単位格子体積vに較べてモル質量Mと結晶密度ρの測定精度が不足している事が解る。
現在の質量単位であるキログラム原器による質量の再現性・決定性は別稿「キログラム原器の世界」をお読みになれば解るように10-8のオーダーです。つまり8桁目が不確かに変動している。
そのため、もしアボガドロ数が10-8以下のオーダーで精密測定できるようになったならば、アボガドロ数を用いて質量原器を構成できる。すなわち現在のキログラム原器の様な人工物をつかわなくて、自然に存在する物を基準にしてキログラム原器を構成することができる。それは下記の様なやり方で実現される。
キログラム原器の定義として
“1kgとは、基底状態にあり静止して自由な状態にある、炭素原子12Cの5.018・・・・・・×1025個の質量とする。”
ここで、“5.018・・・・・・×1025”という数値は、上記の定義に乗り換える時点で得られる最高精度のアボガドロ数NAを固定して定義値とした数値を1000/12倍して決められるものです。
この精度になると、“基底状態にあり、静止して自由な状態にある”と言う但し書きは重要です。すなわち化学結合状態の結晶中の炭素原子質量のアボガドロ数倍では無いと言うことです。(この当たりは1.(1)[補足説明2]の見積もりを参照)
もちろん現実には、結晶固体の格子定数を計って、アボガドロ数分の炭素原子12C(あるいはSi)を含む体積の塊を削りだして、その質量を質量原器とするわけですから、化学結合エネルギーに伴う原子質量の差分は量子電気力学理論に従って補正しておく必要があります。
もしこの再定義が採用されると、アボガドロ数NAは定義値となり確定した値を持つことになる。そうして、[シリコン結晶などの格子間距離]や[結晶密度]の測定精度の進化と共に、1kgを構成するシリコン結晶球体のような質量原器がより正確に更新されていくことになる。
これはちょうど、歴史的には時間と距離原器から光速度が測定されていたのを、その再現性から光速度の測定値を固定・確定した定義値として、光の速度と時間からより正確な距離原器を構成して、その原器の更新を続けていくことになった事情に似ています。
つまり、測定技術の進歩と共に距離の測定精度がより正確になっていったのと同様に、質量についてもシリコン結晶球体の研磨・制作技術と測定技術の進歩により、より正確・厳密な質量原器が作成可能になっていくと言うことです。
引用した文献が少し古く、最新の測定精度に言及していなくて申し訳ありません。最新の事情についてはインターネットでお調べ下さい。
ところで、この稿で紹介した文献“応用物理,62,1993年”は、1996年頃にNIFTY-Serveのパソコン通信会議室で教えてもらったものです。この稿を作るに当たって当時のログと上記論文を探し出して読み直してみたのですが、当時のパソコン通信の会議室はとても面白くかつ意義深いものでした。私自身、さまざまなフォーラムから多くの事を教えてもらいました。私どものHPの記事の中にも、当時のパソコン通信フォーラムで教えてもらった事柄が沢山書き込まれています。
このような議論ができる空間・場が存在したこと自体がとてもエキサイティングな時代で、ログの閲覧・書き込みにワクワクした事を思い出します。また、インターネットの情報も、その大半をパソコン通信から手に入れている時代でした。私は当時手に入れたシェアウェアーソフト(秀丸、卓駆、チューチューマウス)やフリーソフト(秀Caps、DDwin)をアップデートしながらいまだに使っています。
インターネットのhtmlの世界が広がったのはうれしいのですが、当時のNiftermなどの閲覧ソフトが提供していたとても使い勝手の良い情報交換の場(閲覧・書き込み・書庫活用)が無くなったのはとても残念です。当時パソコン通信をやってみようという人々は、当時のフォーラムで議論されているような事柄について興味を持っている人々だったからこそ、そこでの議論が盛り上がったのでしょうね。
インターネットが万人に開放された今日、特定の情報交換サイトが成り立たなくなり、検索サイトやSNSがそれらに取って変わってしまったのでしょうね。
[2018年5月追記]
単位の新しい定義が2018年11月に採択され、2019年5月20日より施行されます。“質量”はキログラム原器にかわり、“プランク定数”と“アボガドロ定数”を確定することによる定義に変更されます。また、“電気量”も“電気素量”の値を確定することにより、“絶対温度”は“ボルツマン定数”を確定することにより定義されます。
それらの意味や単位系そのものについては下記書籍や下記リンク先をご覧下さい。
臼田孝著「新しい1キログラムの測り方(科学が進めば単位が変わる)」講談社ブルーバックス(2018年刊)
産業技術総合研究所「きちんとわかる計量標準」白日社(2007年刊)
計測自動制御学会の学会誌「計測と制御」2014年第53巻1月〜8月のリレー解説を引用
1.国際単位系(SI)の体系紹介と最新動向(概論)
2.質量標準の現状とキログラム(kg)の定義改定をめぐる最新動向
3.電流(A)についての基礎解説と最新動向
4.物質量(mol)についての基礎解説と最新動向
5.時間(s)についての基礎解説と最新動向
6.長さ(m)についての基礎解説と最新動向
7.測光量(cd)および測光・放射標準についての基礎解説と最近の話題
8.温度(K)についての基礎解説と最新動向