この法則は、原子の化学的性質を決めるのは、原子量ではなく、原子核の電荷であることを明らかにした。そして、元素の周期律表中での位置確定に絶大な威力を発揮した。以下の説明はモーズリーの論文PartTと論文PartUの日本語訳を参照されながらお読み下さい。
モーズリーは1887年に生まれ、1915年8月10日に第一次世界大戦の戦場で27歳の若さで戦死した。彼はわずか数年の短い研究期間に約8編の論文を発表している。
モーズリーはオックスフォード大学トリニティ・カレジを1910年に卒業した後にマンチェスター大学のラザフォードの研究室に入ります。1907年にマンチェスター大学の教授に就任したラザフォードは、当時ガイガーやマースデンとともに有核原子モデルの発見に繋がる研究を進めているときでした。モーズリーはガイガーやマースデンから放射能実験の手ほどきを受けながら、放射性崩壊の謎を解明する為の実験を始めます。
以下、モーズリーが単独あるいは共同で行った放射能に関係する5編の論文を紹介します。これらからモーズリーがどのようにして研究を開始したか、また当時放射能研究の中心地であったラザフォードの研究室の様子はどうであったのかが読み取れます。
モーズリーは、彼とほぼ同じ頃(1910年秋)ラザフォードの研究室に加わったポーランド人のカシミール・ファヤンスと共同で最初の研究に取りかかります。二人はラザフォードによって与えられた問題に取り組んだ。それは放射性元素アクチニウムの崩壊でできる気体状元素アクチニウム・エマナチオン(今日の86Rn219ラドン)の性質を調べることです。
モーズリーはきわめて寿命の短い生成物を、高速回転する円板に付着させて親元素から分離し、既知の距離だけ離れている二つの検電器で活性を比較するという巧妙な方法(回転円板法)を開発した。この方法は崩壊によってα粒子が放出されると、崩壊してできる元素が反対方向に反跳する事を利用している。
この装置により、アクチニウム・エマナチオン(86Rn219ラドン)が崩壊してできる物質アクチニウムA(84P215ポロニウム)が半減期約1/500秒でα粒子を放出して崩壊する事を確かめた。これはそれまでに報告されていた放射性元素の中で最も短い半減期を持つものであった。
また、一連の崩壊産物の中にアクチニウムD(82Pb207鉛)と言われる物が存在することを確かめた。
[こちらの崩壊系列図を参照されたし]
H. G. Moseley and K. Fajans,“短寿命の放射性生成物”, Phil. Mag., (6)22, p629〜638, Oct. 1911年
前記の研究の後に、ファヤンスはカールスルーエ工科大学へ移ったのですが、ラザフォードは、解決すべき放射能に関する多くの問題の中から、ラジウムB(82Pb214)の崩壊に伴って生じるγ線の性質を調べる仕事をモーズリーに与えた。これはロンドン生まれの助手ウォルター・マコワーとの共同研究です。
彼らは数ヶ月にわたる研究の後に「ラジウムBからのγ放射」という題で論文にまとめた。それは、ラジウムBは硬い(透過力の強い)γ線は放射せず、軟らかい(透過力の弱い)γ線のみを放出することを確かめたものです。
H. G. Moseley and W.Makower, “ラジウムBからのγ線放射”, Phil. Mag., (6)23, p302〜309, Feb. 1912年
ラザフォードはモーズリーの巧みな仕事ぶりに満足し、さらに次の仕事を与えた。
それは、ラジウムB(82Pb214)、ラジウムC(83Bi214)、ラジウムE(83Bi210)の自然(β)崩壊に際して放出される電子の数を調べる事です。
彼は1年足らずの研究で、これらラジウムB、C、Eのどれも、1原子当たり1個の電子を放出するにすぎないことを見いだした。
H. G. Moseley, “ラジウムの変換に於いて放出されるβ粒子の数”, Proc. R. Soc. Lond., A, Vol.87, p230〜255, Sep. 1912年
翌年の1913年、モーズリーは新たな研究に取りかかった。ラジウムがβ崩壊(負電荷を持つ電子の放出)すれぱ崩壊元素は次第に正電気を帯びるはずである。彼は高真空中におかれたラジウムを含む絶縁体の電荷の強さに上限が在るのか確かめる事にした。
モーズリーは高電圧を測定するための工夫をした。ラジウムの崩壊でできるラジウム・エマナチオン(気体元素ラドン)を、ちょうど電子が通れるだけの厚さの銀メッキしたガラス管に封じ込めて、そのガラス管の電圧を測定した。ラジウム・エマナチオンは電子を失うにつれてガラス容器は15万ボルトにも達する電圧を保ち続けた。これは原子から放出される電子のエネルギーがきわめて大きいことを直接的に証明するものとなった。これはまた真空の絶縁力を理解するのに役立った。
モーズリーは、この時期に2章で述べるダーウィンとの共同研究も平行して行っていたようだ。
H. G. Moseley, “ラジウムを用いた高電圧の実現”, Proc. R. Soc. Lond., A, Vol.88, p471〜476, July. 1913年
ラザフォードとハロルド・ロビンソンは、ラジウムの最初の4段階の崩壊で生じる熱は、放出されるα粒子の運動エネルギーに等しいことを示した所であった。そこでラザフォードは、モーズリーとロビンソンにα線、β線、γ線に伴うエネルギーの相対的な大きさを、これらが空気中に生じるイオンの数を比較することで調べることを提案した。
1グラムのラジウムから生じるα線によって生じるイオンの数はすでにガイガーが求めていた。またイギリスの物理学者アルバート・スチュワート・イーブはβ線、γ線によるイオン化を検出する巧妙な方法をすでに工夫していた。
モーズリーとロビンソンはモーズリーのオックスフォード大学での師であるジョン・シーリー・タウンゼントが開発した方法を用いることにした。彼らは同僚のジェームズ・チャドウィックが標定したラジウム・エマナチオン1〜150ミリキュリーを用いて実験に取りかかった。
ところが、モーズリーは途中(1913年11月)から研究の場所をオックスフォードに移して4章で説明する研究に取りかかることになり、この仕事から離れてしまいます。しかし、ロビンソンはその後この研究をやりとげ、この仕事はロビンソンとモーズリーの連名論文「ラジウムのβおよびγ放射によって生じるイオンの数」として発表された。これはモーズリーの印刷された最後の研究論文となる。
その内容は、ラジウムC(83Bi214)が放出するα粒子に対して毎秒生じるイオンの数は8.46×1015、ラジウムB(82Pb214)とC(83Bi214)から生じるγ線では1.22×1016、β線では0.96×1015であるというものです。[こちらの崩壊系列図を参照されたし]
H. G. Moseley and H. Robinson, “ラジウムのβおよびγ放射によって生じるイオンの数”, Phil. Mag., (6)28, p327〜337, Sep. 1914年
[補足説明1]
モーズリーがたずさわった研究の題目からも当時放射性元素に関して解決すべき問題が次々に現れて山積みであったことが解る。ラザフォードの研究室で有核原子モデルの検討とその検証実験がなされていたのは、まさにこの時期です。
この年代のPhilosophical Magazine や Proceedings of the Royal Society of London
に掲載された論文の題目を眺めてみれば、当時は原子物理学の分野に於いて新しい発見が次々ともたらされた疾風・怒濤の時代であったことが解る。ラザフォードの研究室のメンバーはそれらの問題に次々と精力的に取り組み一つ一つ解決していった。その中でモーズリーもそれらの研究の一翼を担い、様々な工夫をしながら熱狂的に取り組んでいた。
モーズリーのこれらの業績は大発見と言えるものではないかもしれないが放射能や原子の複雑きわまる本質のいくつかを明らかにした。これらの仕事を通じて、ラザフォードはモーズリーが何か重要な仕事をなし得る能力を持っていることを感じ取っていた。
[補足説明2]
モーズリーが主に取り組んだ研究は、放射性元素の崩壊系列の特にラドン以降の部分に関係するものでしたが、それはちょうど放射性崩壊系列の全貌が明らかになりつつある時代になされたものです。まさにソディなどにより同位体の概念が確立(1911年〜1913年)した時期であるし、トムソンやアストンの質量分析器を使った研究(1913年〜)で実際に同位体が次々と発見されていく時代です。
[補足説明3]
上記の様な状況の中でラウエたちのX線の干渉と回折像の発見がラザフォードの研究室にもたらされる。それはラウエが最初に報告(1912年6月8日 ババリア科学アカデミーにて)した日にちより少し前の1912年5月のある金曜日にラザフォードの研究室で開かれたコロキウムの席においてであった。[ラウエは彼らの得た結果を発表前に幾人かの友人に知らせていたのですが、おそらくそれら友人の誰かからの報告だったのだろう。]
ラウエたちの発見を知ったモーズリーは、ここに探検すべき新しい世界が存在することを直ちに確信した。そして友人のチャールズ・ガルトン・ダーウィンに、その方面の研究を一緒にしようと頼んだ。(Charles
Galton Darwinは、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンの孫、天文学・潮汐学で有名なジョージ・ダーウィンの息子で理論物理学者)
モーズリーからこの話を聞いたラザフォードは、マンチェスターでは自分自身を含めて放射性元素の研究と違ってX線の研究技術に明るくないということで、最初反対したようだ。しかし、この方面の研究の見込みを検討した結果、けっきょく二人にやらせてみることにした。
モーズリーとダーウィンは直ちに研究を開始した。彼らは最初FriedrichとKnippingが用いた方法で実験していたが、12月に入るとブラッグ父子の新しい方法を知ることとなった。ブラッグ父子は色々な結晶を用いて実験していたが、X線が反射される強度は結晶を在る角度に置いたとき異常に強まること、またマイカ(雲母)の結晶によるX回折によってより大きな干渉が得られることを見つけた。
モーズリーとダーウィンは、この効果を直ちに彼らの研究に応用して、より便利な方法であることを確かめた。
この間に得られた彼らの成果は
W. H. Bragg, Nature, Jan., 23, p572, 1913年 や Moseley and Darwin, Nature, Jan., 30, p594, 1913年
に報告されている。
モーズリーとダーウィンは、ブラッグ父子と連絡を取りながら、また彼らから重要な情報、助言を受けながらではあるが、ブラッグ父子とほぼ同様な結論を見つけていきます。ラウエたちの報告から一年後、ブラッグ父子の報告(4月7日付け)から三ヶ月後ではありますが、彼らが得た結果を報告(1913年7月)します。それが
H.G.J.Moseley and C.G.Darwin, “The Reflexion of the X-rays”, Phil.
Mag., Vol.26(6), p210〜232, July 1913年
です。
実験は下図の装置を用いてなされた。
これは、通常の可視光線の代わりにX線が光源として用いられ、プリズムのかわりを結晶がつとめた。鉛スリットは分光器のコリメーターの位置に固定された。それまで望遠鏡が取り付けられていた腕には、電位差計と検電気がつながれた電離箱からなる検出器が取り付けられている。この実験装置によって、彼らが得た結論は
これはある意味ブラッグ父子の結果を追認するものでしかなかったのですが、モーズリーはこの仕事を通じてX線スペクトルの中に本質がある事を確信します。
この後、ダーウィンはX線散乱の理論的研究(Phil. Mag., 27, p315〜333,p675〜690, 1914年)の方向へ進みますが、モーズリーはこの分野がもっと多くの実験的研究を必要としている事を直感していた。化学者に知られている全ての元素の固有X線の波長を測定することの中に、原子構造の秘密を明らかにする方法が在るのではないのかと考えていたのです。
この時期は、水素原子のスペクトル線を旨く説明するボーアの原子理論が生まれたときです。それはラザフォードの研究室にも深く関わりがある仕事でしたが、モーズレーもまたその渦中にいました。そのため彼は、直ちに線スペクトルを放出する対陰極元素と線スペクトルの関係の解明に向かいます。
モーズリーは、前章の最後に述べた着想・確信のもとに、マンチェスターのラザフォードの研究室で新たな実験に取りかかります。[論文PartT]
下図は第T論文、第U論文の短波長X線の発生で用いられたX線管です。これは対陰極物質を変えたときに生じるX線の透過力を研究していたG.W.C.Kaye(Phil. Trans.Roy. Soc. A209, p123, 1909年)が用いた方法を参考にしている。Kayeは陰極線の標的としてガラス円筒中の台車に種々の金属片を固定した。そして磁石を用いて標的の一つ一つを順番に陰極線の当たる場所に移動して対陰極を変更した。
モーズリーはこのアイディアを利用しました。約3フィートのガラス管内に設置したレールの上にアルミニウム製の台車を乗せて、その上に標的とする一連の金属をのせた。台車の両端には絹の釣り糸が結びつけてあり、それは真鍮製の糸巻きに巻き取られている。真空管の両端に付属の活栓を回して糸巻の巻き取り量を調整して台車を移動させた。
球形部の容積は約3リットルあるが、管内はゲーデ水銀回転ポンプで排気され真空が保たれた。管内の残存気体や水蒸気をさらに液体空気に浸した活性炭に吸着させて取り除く場合もあった。
試料から出るX線はスリットSを通過した後、厚さ0.02mmのアルミニウム窓(下写真参照)を通って結晶に照射される。
別稿で述べたバークラやブラッグ父子の研究、あるいは前章で説明したモーズリー・ダーウィン研究などにより、対陰極から放射されるX線は“連続X線”と振動数一定の“特性X線”からなることがしられていた。
そのとき連続X線はあらゆる入射角について結晶表面から反射されるが、ここで用いられるような大きな角度では、反射強度は極めて小さい。
これに対して振動数一定の特性X線はある定まった角度で結晶表面に当たった場合のみ反射されるが、強く反射した。このとき、視射角をθ、X線波長をλ、結晶面間隔をd、反射次数をnとすると
の“ブラッグ条件式”が成り立つ[この式の意味は別稿「X線結晶解析におけるラウエの条件式とブラッグの条件式」4.(1)1.を参照]。
反射に用いられた結晶は6cm2の反射面を持つフェロシアン化カリウム[K4Fe(CN)6・3H2O]結晶です。三次までの反射が観測されたが、中でも三次の反射が最も強かった。モーズリーは二次と三次のデータを用いて特性X線の波長を定めた。
試料から出てくる特性X線の波長λは[反射次数n]、[ブラッグ反射角θ]、[結晶の格子面間隔d]が解れば“ブラッグ条件式”により計算できる。
このときフェロシアン化カリウムの格子面間隔dは同じ特性X線を塩化ナトリウム結晶で反射させたときのブラッグ反射角の違いを用いて塩化ナトリウム結晶の格子面間隔d’から計算した。そのときモーズリーはブラッグがすでに求めていたd’の値を利用した。
塩化ナトリウム結晶の格子面間隔d’は[当時測定されていたアボガドロ数NA]、[塩化ナトリウム結晶の密度ρ]、[塩化ナトリウムの分子量(式量)M]から計算できる[この計算法は高校化学or物理で習う]。
モーズリーは、ブラック父子が用いた電離箱によるX線強度測定法ではなくて、写真乾板上にX線スベクトルを写し取る方法を採用した。これは、反射X線の強度の測定よりも反射角θをより精密に測定することが重要であった、モーズリーの実験により適した方法だった。写真法を採用することで、X線解析を他の波長領域の分光学と同じように簡便なものとすることができた。
ブラッグ反射角は具体的に下図に示す方法で測定される。まず下左図の用に分光器の中心テーブルに鉛スリットを起き、分光器アームに取り付けた写真乾板上に、X線を短時間(数秒程度)照射して露光させて印しRを付ける。更にある定まった角度だけ分光器アームを回転させて、同様に印しR’を付ける。その後、右図に示す位置まで分光器アームを回転させ、その回転角を精密に測定しておく。
次に分光器中の心テーブル上に鉛スリットの代わりにフェロシアン化カリウム結晶を設置する。そしてX線を照射してブラッグ反射された特性X線のスペクトル線を露光する。露光時間は5分程度であった。
以上の様にして写真乾板上に特性X線のスペクトル写真が撮られる。そのとき、特性X線の波長は上右図の2θを測定することで求まる。角度2θは、測定済みのRとR’の回転角と距離RR’を内分する点Lの位置から計算で求める。そのときの測定誤差は0.1°以下であった。
ここで以下に述べることに注意してください。写真乾板上に反射X線のスペクトルを露光するためには当然のことながら、露光時間中、乾板を設置した分光器アームは固定したままで、結晶を設置した中心テーブルをゆっくりと回転させたはずです。
この様に結晶を回転させながら露光する場合、AS=AL(17cmとした)となるように設定しておくと、次のことが言える。
ある定まった角度で反射したX線(つまり特定波長のX線)が写真乾板に当たる点Lは、結晶面上の反射点Pが移動しても一定にたもたれる。
そのため、X線が要求される角度で結晶面のどこかに当たる限り、結晶のセットされる角度や位置の多少のズレは問題では無くなる。また、結晶面に当たるX線の線束に広がりが在っても差し支え無くなる。
このことは、ブラッグ父子の1913年4月7日の論文や、W.H.Bragg, W.L.Bragg, “Xrays and Crystal Structure”, London, G.Bell adn Sons, LTD., 1915年のV章p31〜32(ネット上に無料ダウンロードできるpdfファイルあり)で説明されていますが、ここで今一度解りやすく証明します。
[証明]
今、下図の様に記号を割り当てる。結晶はA点を中心にして回転できるとする。そしてAS=ALとなる位置にスリットSと写真乾板Lを設置する。
SからA点へ入射したX線が結晶面CE(空色着色)でブラッグ反射して写真乾板Lの位置に進んだとする。ここで、三点S、A、Lを通る円弧SALを考えると、AS=ALだから三角形ASLは二等辺三角形となる。そのとき直線CEは円弧SALの点Aにおける接線だから、∠ASL=∠ALS=∠EAL=∠CAS(=θと置く)となる。
ここで、A点を中心として結晶面CEを回転させて結晶面DF(桃色着色)とする。新たな結晶面DFと円弧SALとの交点をPとして線分SPと線分PLを引く。
そのとき、△SPLと△SALは弦SLが共通で点Pと点Aが円弧SPAL上にある三角形であるから、∠SPL=∠SAL(=φと置く)となる。同様に、△ASLと△APLは弦ALが共通で点Sと点Pが円弧SPAL上にある三角形でから、∠ASL=∠APLとなる。(これは平面幾何の定理として高校数学の授業で習う)
ここで∠ASL=θだったから、∠FPL=∠APL=∠ASL=θとなる。ところで∠EAL+∠SAL+∠CAS=θ+φ+θ=180°である。一方∠DPS=180°−∠FPL−∠SPL=180°−θ−φであるから∠DPS=θとなる。故に∠DPS=θ=∠FPLとなる。
そのためS→P→Lと進むX線は、結晶面DF上の点Pに対して“視射角(glancin angle)”θで入射し“ブラッグ反射角”θで反射することになる。つまり、AS=ALならば結晶面を回転させても同じ波長の特性X線が選択されて、同一の点Lに集光する。
[証明終わり]
最初の測定で、モーズリーは12の元素を選んだ。アルミニウム、カルシウム、スカンジウム、チタン、バナジウム、クロム、マンガン、鉄、コバルト、ニッケル、銅、亜鉛です。ただし亜鉛は銅と亜鉛の合金である真鍮を用いた。
今日の周期律表で確認されれは解るように、これらの金属の原子量はアルミニウムを別にすれば、Ca(40.08)→Zn(65.37)の範囲にある。モーズリーがこれらの元素を選んだのは下記の理由からです。
しかし、実験中に下記の様なやっかいな問題が次々と生じて来て、実験は困難を極めた。
下図は陰極線で照射された各元素から放射された特性X線の三次スペクトル付近の写真乾板を並べて表示したものです。
モーズリーはK-特性X線は二本のスペクトル線からなることを見いだした。彼は強い方(波長が長い方)をアルファ線(Kα)、弱い方(波長が短い方)をベータ線(Kβ)と呼んだ。そしてこれらの波長は周期律表上での位置変化とともに極めて規則的に変化することを見つけた。
今日の知識で説明すると、Kα線は電子がL殻軌道からK殻軌道へ遷移することに伴って放射されるものであり、Kβ線は電子がM殻軌道からK殻軌道へ遷移することに伴って放射されるものです。Kα線の方がKβ線よりも強くなるのは、K殻に生じた空位は、M殻より近くにあるL殻の電子によって満たされる可能性の方が高いからです。
モーズリーはKα線、Kβ線以外の線は不純物のものであると考えた。例えばコバルトにはNiのKα線と鉄のKα線が混じっている。ニッケルにはマンガンの二次のKα線が混じっている。また真鍮のスペクトルは当然銅と亜鉛の両方のKα線、Kβ線を示していると考えた。そして、露出時間を長くすれば、おそらくもっと複雑なスベクトルが現れるだろうと予測した。これらの結果からモーズリーは以下のように述べている。
スペクトルが元素に特徴的であること、及び不純物による線が良く現れることは、この方法が化学分析の強力な手段となりうることを示している。
この方法が通常の分光学的方法に較べて優れている点は、スペクトル自身の簡単さと、一つの物質の放射が他の物質の放射を隠してしまうことが無いことにある。
さらに、元素の特性X線の位置を予測できるのであるから、この方法によって未発見元素の発見がもたらされることも期待できる。
モーズリーはスペクトル線の波長(振動数)を整理して下表1を得た。
この表から直ちに以下の事情が読み取れる。
このことから、モーズリーは以下のように主張した。
原子には、一つの元素から次の元素へ移るにつれて規則正しいきざみで増大する、ある基本的な量が存在する。この量は、原子の中心にある正電荷核の電荷以外に考えられない。
正電荷核の存在は確実な証拠によって知られている。
ラザフォードたちは、物質によるα散乱の大きさから、この中心角が原子量のほぼ半分の数の電子が持つ電荷に等しいことを明らかにした[H. Geiger, E.Marsden, Phil. Mag.,(6) 25, p604〜623, April 1913年]。この数こそ原子番号に相当するものと考えられる。
また、バークラは、物質によるX線の散乱から、原子内の電子の数がほぼ原子量の半分であることを示した[C.G.Barkla, Phil. Mag.,
(6)7, p543〜560, May 1904年]。このことは、電気的に中性の原子について、やはり同じ事を示している。
原子量は平均して一度に約2単位増大するのであるから、Nは原子から原子へ常に1電子単位だけ増大することが強く示唆される。したがって、我々は、実験によって、Nは元素が周期表上で占める位置の番号に等しいという見解に導かれる。
さらにモーズリーは、“種々の元素のX線スペクトルが互いにきわめて良く類似している事実は、これらの放射線が原子の内部深くから発するもので、複雑な光スペクトルや化学的性質など原子表層部の構造に支配されるものと、直接的な関係が無いことを示している。”と述べている。
モーズリーは、Q値を表す式を変形して、Q値の意味を説明している。実験から明らかなようにQ=N−kとおける。Nは原子番号に相当するのもので、kは定数です。これを用いると
となる。このことからボーアが水素原子スペクトルで展開したのと同様な解釈ができることが解る。
[補足説明1]
モーズリーが、実験値を説明する実験式(Q値が関係)に係数3/4を割り当てたのは、もちろんボーアの理論で
となることを意識してのことです。
ボーアが水素原子の量子理論を展開したのは、1912年〜1913年にかけてです。ボーアは理論を展開するに当たってラザフォードの有核原子モデルから大きな影響をうけており、彼の理論を拠り所としている。そのためボーアは論文の発表に際して何度もラザフォードに意見を求めており、且つ議論している。そして、当時のラザフォードの研究室のメンバーも、ボーア本人と何度も意見を交換している。彼らはボーアの理論の内容を他の誰よりも早く知っており、その本質を良く理解していた。実際、モーズリーもボーアと密接に連絡を取り合っており、彼の得た結果を一番にボーアに知らせて助言を求めている。ボーアとの関係はPais文献8も参照されたし。
[補足説明2]
ここでのX線波長がボーアが説明した水素原子スペクトルの波長と大きく異なるのは、核電荷の影響が電子が持つ電気量の12倍ではなくて(N−k)2倍になるからです。
モーズリーは約2000倍も違うと言っているが、実際にはそのようなことはない。例えば水素原子のラインマン系列の波長はλ〜10-5cmのオーダーであり、ここでのカルシウムのX線波長はλ〜3×10-8cmのオーダーですが、カルシウムのN=20を代入したときの1/(N−k)2と水素についての1/12との違いで旨く説明できる。
[補足説明3]
モーズリーは定数kの説明として電子軌道環の内部に存在する電子の遮蔽効果であるとして、環内電子がn個の時にはk=σnとなるとしている。そしてσnに付いてはσ2=0.25、σ4=0.96、σ6=1.83、σ8=2.81 と計算している[私には、モーズリーがいかなる根拠に基づいてこの値を導いたのか良く解りません。]。そしてk≒1であることからn=4であるとしている。
しかし、この当たりの説明は根拠薄弱で、モーズリーが何を意図しているのか良く解らない。“遮蔽定数”に関しては次項で説明するように考えるべきであろう。
ここでk≒1となったのはおそらく以下の事情による。水素よりも重いすべての元素は最深部のn=1軌道に2個の電子を持つ。Kα線が生じるには、この内の一つの電子がまず飛び出さなければならない。その後にn=2からn=1へ落ち込む電子は核電荷Zからまだn=1の最深部軌道に残っている電子の電荷分を差し引いた電荷にさらされる。その結果、有効核電荷(Z−1)に対応するバルマー公式となる(Paisの説明)。
モーズリーが行った遮蔽定数kの解釈は適切ではない。正しくは以下の様に考えるべきです。
別稿「化学結合(イオン化エネルギーと電子親和力)」に説明したメカニズムに従ってK殻、L殻、M殻、・・・のそれぞれに存在する電子のエネルギーは、それぞれの殻より内側に存在する電子の遮蔽効果を受けると考えた方がよい。
だから、それらの殻に存在する電子のエネルギー準位差に関係するボーアの式は
と書かれるべきです[補足説明4]。
ここでNは原子番号(電気素量を単位とした中心電荷の数)、σ1はK項の遮蔽定数、σ2はL項の遮蔽定数、σ3はM項の遮蔽定数、以下同様・・・です。
このときσnは当然中心電荷Nによって変わるはずです。また、nが大きなより外側の殻に存在する電子に対する遮蔽効果は大きくなるのでσnはnの増大と共に大きくなるはずです。そして、これらの値は実験・観測値によって決定できる。
そのとき、上式は以下の様に変形できる。
最後の式に於いて、Nが大きい場合には、σ1やσ2はNに較べて十分小さく、k及び(σ1−σ2)はさらに小さい。それ故に上式の第二項は無視できて
となり、“モーズリーの法則”が得られる。
[補足説明4]
別稿「水素原子モデル(1913年)」2.(1)〜(2)の議論に於いて
の置き換えを行って、
とすれば、そこと全く同様な議論によって
が得られる。
ただし、そこではMKSA単位系で、一方ここではCGSesu or CGSgauss単位系で議論しているので、リュードベリ定数Rの表現が別稿とk02=(1/4πε0)2だけ異なることに注意されたし。
[補足説明5]
ボーアの理論は水素、および水素類似の1電子イオン(He+、Li2+、Be3+、・・・)のスペクトルを旨く説明できた。しかしより多くの電子を含む原子では旨くいかない。それらの原子から生じる紫外線〜可視光線〜赤外線領域のスペクトルは複雑で込み入っており、混乱を極めていた。
ところがX線の波長領域のスペクトルは、きわめて単純明快な法則に従っており、しかもそのスペクトルは試料元素の化学的性質には依らないことが解った。そして、その法則はボーアの理論の中心原子核の電荷の値を調整することで旨く説明できたのですから、これらのスペクトルは原子内部から発するもので電子を多数含む元素の電子構造の解明に繋がると考えられた。
論文PartUで報告された実験はオックスフォード大学で行われた。彼がオックスフォードに移った当初の事情は、ここに引用する手紙から読み取れる。
モーズリーは前章で説明した法則が、更に多くの元素について一般的に成り立のか調べることにした。そのときK-X線のみならずL-X線についても調べた。
この度の実験で、モーズリーは実験装置を新たに作りなおさねばならなかった。今日の知識から解るように、対陰極に使用する元素の原子番号が大きくなると、より高電圧で加速した陰極線を用いないとK−X線を発生させることはできない。そのため、当時の起電器で得られる電圧の制約から、銀(N=47)より重い元素の“Kスペクトル”を得ることは難しかった。銀より更に重い元素を調べるためには限界電圧が低くても発生する“Lスペクトル”を用いるしかなかった。
しかし“Lスペクトル”は“Kスペクトル”に較べて軟らかく、しかも弱いためにX線管のアルミニウム窓を通過できない。またX線管から出た後も写真乾板に達するまでの空気層で吸収されてしまう。さらに写真乾板を包む保護紙を透過できない。そのため“Lスペクトル”を観測するためには新たな工夫が必要であり、しかも難しい測定となった。
そのような工夫が施されたものが下図の装置です。モーズリーはX線管の窓をアルミから金箔師が金箔製造のときに箔の間に挟む牛の腸膜で作った薄い皮に置き換えた。そして分光器全体を真空の箱の中に設置して空気層による吸収を無くした。また写真乾板を感光防止の紙で包むことができないので暗闇の中で実験を行った。
X線管の構造は、前回と同様なT字形の構造をしている。陰極が入っている約3リットルのガラス球に、レールと台車を入れた直径4cmのガラス管が接続されている。
図中の窓Wは牛の腸膜の薄い皮で作られている。接続されている分光器収納容器は大気圧と真空の間を変化するが、何事もなければ直径2cmの丸い窓Wは大気圧に耐えることができた。しかし圧力変化を繰り返す内に壊れてしまうので、時々ニスを塗りなおしたり、交換したりする必要があった。
さらに、陰極線の衝突によって生じる熱は、標的元素の表面から気体を発生させ試料をだめにした。そのため揮発性が低いようにした標的を用いる必要があり、あまり強い印加電圧を用いることができなかった。
分光器は内径30cm、高さ8cmの円形の鉄の箱の中に設置されており、この円筒容器は縁にグリースを塗った円盤で蓋をして内部を真空にすることができた。容器の底に何本かの同心円状の溝が掘られており、結晶回転台と写真乾板設置台はその溝の上に設置されている。結晶台と写真乾板は、溝に沿ってそれぞれ独立に回転できるようになっていた。
今回の実験では30種類以上の元素の特性X線が調べられた。
そのとき、モーズリーが最も苦労したのは希土類元素試料の入手です。バリウムBa(56)から未知の元素(第72番ハフニウム)までの15の元素は物理的性質も化学的性質もきわめてよく似ているのでこれらを分離することは困難を極めた。
これらの金属のほとんどは、すでに19世紀に、イットリア(YO2)とセリア(CeO2)と一緒に産する複雑な化合物から見いだされていた。手に入る鉱物の中では、モナズ石とパスツナス石にこれらが含まれている場合が多かった。
今日の溶媒抽出法やイオン交換法が知られていなかった当時においては、分別再結晶で抽出するしかなかったのですが、何千回もの再結晶を繰り返さねばならなかった。
実際、当時の化学者にとって希土類元素の同定と周期律表でのその場所の確定は困難を極めており、1913年までに14〜23種の希土類元素が提案されたり、予言されたりしていて混沌とした状態だった。
そういった状況の中でモーズリーは、Sm、Eu、Gd、ErはWilliam Crookesから頂戴し、Os、RuはJohnson Matthey社から借用している。さらに合金類はMatallic
Compositions Co.から、La、Ce、Pr、NdおよびErの酸化物はSchuchardtから入手したと記している[これらの元素については今日の周期律表で確認されたし]。
試料の入手で苦労している様子や希土類元素の実験に悩まされている様子を記した、モーズリーの手紙を引用しておきます。これはとても興味深い内容です。
K系列の測定結果が下表1である。PartTで報告した数値も併記してある。α線とは、PartTで説明されているKα線のことであり、β線とはKβ線の事です。イットリウムY(39)以降についてはα線のみ測定されている。またY以降の元素のα線はごく接近した二重線である事を認めているが、表ではその微細な違いは区別されていない。
L系列のスペクトルに付いての結果が下表2です。L系列は一般に多数の線からなり、波長の短くなる順、強度の減少する順にα、β、γ、δ、ε線と名付けられている。このほかに、αの長波長側にそれに伴う弱い線α’がある。
また希土類元素についてはβとγの間にやや弱い線φがあり、αより波長の長いごく弱い線が多数ある。
一枚の乾板に撮影できる波長範囲の制限のためにγが測定できていないものもある。また線が弱すぎたり、あるいは不純物による線が複雑に密集しているために波長を測定しなかった線もある。不純物に起因する線はしばしば存在したが、希土類の場合以外は、ほとんど邪魔にならなかった。
いずれにしても、α、β、それにγはつねに存在しており、諸元素のスペクトルはきわめて類似している。
前節の測定値をグラフにしたものが下図3です。横軸に振動数νの平方根を取って、測定値を等間隔で引いた水平線上に記してある。
縦軸に記した元素の配列順は原子量の順番に並べてある。ただし、この順番が化学的性質の順番と異なるAr(18)−K(19)、Co(27)−Ni(28)、Te(52)−I(53)に付いては化学的性質の並びに従った。またMo(42)−Ru(44)、Nd(60)−Sa(62)、W(74)−Os(76)の間には、それぞれそこに入るべき元素が未発見と言うことで空欄にしてある。[これらの元素については今日の周期律表で確認されたし。]
このようにすることは、相続く諸元素に一連の特性的な整数値Nを割り当てることに相当する。図は13番目の元素のアルミニウムのNを13として他の元素のN値が記されている。
グラフから、K系列およびL系列の全ての線についてν1/2の値が、規則正しい曲線(ほとんど直線に近い)の上に乗ることが解る。このことから、前述の整数値Nを諸元素に割り当てる正当性が裏付けられるであろう。
図のKα線に関する曲線(ほとんど直線に近い)については、表1から
に依って計算されるQKαの値と比較することにより、ごく短波長のスペクトル線では少しのズレが生じてくるが、非常に良い近似でQKα=N−1であるとした関係式で表現できる。
また図のLα線に関する曲線(ほとんど直線に近い)については、表2から
に依って計算されるQLαの値と比較することで、ほぼQLα=N−7.4であることが解る。
3.(3)2.と同様にして、上記の関係式を変形すれば、
Kα線に関しては
となり、Lα線に関しては
となる。
この当たりは下図(授業プリント)も参照されたし。[拡大図はちら]
このことから、Nはラザフォード・ボーア理論における原子核のもつ正電気の数(電子電荷を単位とした)であることは明らかです。
[補足説明1]
より正確には3.(3)3.で説明したように、乗数kは
とすべきです。そのときσN1、σN2、σN3、・・・は実験データから定められる。
得られるσNnの値はN、およびnの値に応じて少しずつ変化する。グラフの直線からの微妙なズレはその違いによって説明される。
例えばσN1の実験観測値(G.Araki, Sci. Pap. Tokyo Bunrika Daigaku, 2, p189, 1935年)は下表の様に変化する。
ちなみにσN2、σN3、σN4、・・・は、電子軌道の微細構造に従って分裂してくるが、下図の様になる。[拡大図はこちら]
nが大きくなると遮蔽定数はかなり大きな値になる。さらに、nが大きくなるとσNnはNの増大と共にくねくねと屈曲してくることにも注意されたし。これこそが電子軌道が殻状に分布しており、その殻の中に収容できる電子数が定まっている事を予想させる。これは別稿「化学結合(イオン化エネルギーと電子親和力)」で説明したことです。
[補足説明2]
測定技術が進歩するにつれて、それぞれのスペクトル系列は、更に微細な系列に分裂していくことが解った。例えばL系列スペクトルに関しては下図のように分裂していく。[拡大図はこちら]
さらにM、N、O系列の様子も図示すると下図のようになる。[拡大図はこちら」
このように外側の電子軌道が関係するX線スペクトル系列は当然のことながら遮蔽効果の変動が大きくなり、“モーズリーの法則”のような簡単な関係とはならない。つまり、モーズリーがめざましい成果を上げることができたのは、彼が観測したKスペクトル(L殻→K殻の遷移)やLスペクトル(M殻→L殻の遷移)が原子の最深部の電子構造に関係するものだったからです。幸運にもこれらのスペクトル系列が最も強く表れるものだった。
外側の軌道が関係するスペクトル系列から“モーズリーの法則”を見つけるのは難しい。しかしそのとき逆に考えると、このような外側の軌道が関係するスペクトル系列が大きく変動する様子から遮蔽効果の変化が導き出され、原子の内部構造を解明するための手がかりが得られると推察される。実際その後の研究はその方向に進みます。その当たりの事情は文献6.の§8.10やBohrのノーベル賞講演を参照されたし。
[補足説明3]
下図はSiegbahnがウラニウムにおけるエネルギー準位と対応するスベクトル線の関係を図示したものです。ただし、見やすくするために、M、N、O準位においては間隔を引き延ばして描いてある。実際には吸収端が最短波長の線とほとんど一致する。[拡大図はこちら]
これらの更に進んだ詳細な実験観測から、軌道間の遷移には、量子数 l や j に関して選択規則があることが解ってくる。
以上の考察から次のことが結論される。
1914年8月にオーストラリアのメルボルンで開かれた大英化学振興協会年会に於いて、ラザフォードは、原子核の存在を示すα線散乱に関する実験、原子を形作る粒子の飛跡を霧粒の形で見えるようにするウィルソンの霧箱実験、ボーアの原子論、モーズリーの研究の重要性等を述べた。そこでモーズリーも自ら行った実験について報告し、未発見の第61番元素についても言及した。
科学史におけるモーズリーの発見の意義・重要性に関しては、文献5.奥野久輝氏の解説文をご覧下さい。
文献1.はとても面白い。これを読んだとき、この内容を解りやすく紹介したいと思いました。しかし、それをするにはX線分光学とは何かを説明しておかなければなりません。そのため永い間棚上げ状態でしたが、最近「X線結晶解析におけるラウエの条件式とブラッグの条件式」を作ることができて準備が整いましたので、やっと思いが叶いました。
ここで、紹介したモーズリーの仕事は、X線分光学による原子の内部構造解明の先駆けとなったもので、彼が生存していれば確実にノーベル賞の対象になったと言われているものです。
不幸な事にモーズリーは若くして戦死(1815年、享年27歳)してしまいますが、モーズリーの仕事の重要性が明らかになるにつれて、それに先立つバークラの特性X線の発見および、二次X線と散乱原子の原子量(原子番号)との関係の発見が注目されることになります。もちろんバークラの業績はそれだけではありません。原子内電子数の見積もりや、X線が横波であり偏光していることの証明なども顕著な業績です。バークラはこれらの業績により1917年にノーベル賞を受賞します。
ちなみにラウエの受賞は1914年、ブラッグ父子の受賞は1915年です。バークラの仕事の方がラウエやブラッグよりも先行しているのに、受賞が遅れたのは、バークラが成し遂げた仕事の意味が明らかになるのに時間を要したからでしょう。モーズリーの発見こそバークラの受賞の根拠になったと言って良いでしょう。
もしモーズリーが生きていれば、バークラと供にノーベル賞を同時受賞したのは確実だったでしょう。
20世紀前半のノーベル物理学賞・化学賞の受賞者一覧を参照。また、Barkla受賞理由の紹介文、Siegbahn受賞理由の紹介文、Bohrのノーベル賞講演も参照されたし。