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アフガニスタンと中東情勢(2008年8月)

 今日(2008年8月)アフガニスタンをはじめ中東情勢は最悪です。なぜこのようになってしまったのか、その本質を述べたい。以下の文章は2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件の後に、私の友人と交換したメールの採録です。なぜあえて7年前のメールをそのまま載せるのか?それは、そのとき述べた分析が少しも古くなっていないからです。7年間の時の試練を経ても本質を保っていると確信できるから、ここにアップする

2001年9月14日

・・・・・・・ところでアメリカの同時連続テロについて長谷川慶太郎氏は何ていっていますか。
 このテロ事件とは別件ですが、パレスチナ問題は泥沼ですね。しかし私にとって非はイスラエルにあるように思える。ヨルダン川西岸地区に対するイスラエルの領土的野心はあまりにも見え見えで、イスラエルのこの野心が消えない限りパレスチナ問題の解決はないだろう。イスラエルにとってヨルダン川西岸を手に入れるためにはパレスチナ人の自爆による爆弾テロは織り込み済みのリスクなのだろう。シャロンの強気のなかにそのような意志が見え隠れする。
 最近ゴードン・トーマス著「憂国のスパイ(gideon's spies)」光文社というイスラエルの諜報機関モサドの内幕暴露本を読んだのだけど、イスラエルという国はそこまでやる国だと思う。 ジャレド・ダイアモンド著「人間はどこまでチンパンジーか」新曜社とか「銃・病原菌・鉄」草思社を読んだら明らかなように過去において領土を巡る対立で二つの民族が和解した例はない。どちらかが消滅するまで徹底した殺し合いが続くか、どちらかが民族としての独立を保ち得ないほどのマイノリティーになってしまって征服者に飲み込まれてしまうしかない。それが厳然たる歴史的事実だし人間の性の様に思われる。いくらきれい事をいってもアメリカもイギリスも過去においてそれを行ってきた国々なのだから。
 だから国内に多量のユダヤ人を抱えるアメリカはイスラエルの側にたつ。イスラエルに肩入れせざるを得ないアメリカは今後もイスラム諸国のテロの標的になり続けるような気がする。
 
 以前、はるか昔にアフガニスタンを旅行したことがあるが、アフガニスタンのイスラム教徒にとっては失うものは何もない。アフガニスタンという国はそのような国、日本の中世の生活そのものの様な国なのだから。失うべき資産も財貨もないのだから、そこがミロシェビッチのユーゴー問題と違うところだ。アフガニスタンにはいくら空爆を繰り返してもユーゴースラビアと違って失うべきものは何もない。アフガニスタンのなかに潜伏するテロリストを壊滅させるのは難しいだろう。・・・・・・・

2001年9月16日

 アフガニスタンの地政学的情勢を考えると空爆ではほとんど効果がないだろうから、米軍は地上軍の投入はさけられないでしょうね。ベトナム戦争と違ってタリバンを援助する外部勢力は存在しないのでベトナム戦争のような正規軍同士の戦闘になることはない。その点で米軍の勝機はあるように見える。
 しかしアフガニスタンはほとんど何もない国です。中部から北西部にかけてはヒンズクシー山脈の山岳地帯だし、南部は砂漠地帯です。山岳地帯と砂漠地帯の狭間に位置する都市が西部のヘラート、南部のカンダハル、東部のカブールです。その三大都市をのぞけばはげ山ばかりで、アフガニスタンの人々は深い渓谷のわずかの緑を耕しあとは放牧で生活する文明社会とはおよそかけ離れた国です。
 もともと平和でのんびりした夢のような国だったのに、米ソの冷戦が政治の不安定を助長し、ソ連のアフガン侵攻(これこそ愚かさの極み)とそれに対抗する勢力としてイスラム原理主義を利用したパキスタン、米国の軍事援助がアフガニスタンという国をメチャメチャにしてしまった。大国の都合でメチャメチャになったアフガニスタンに今更侵攻して米国は何をしようとしているのだろう。私にいわせれば愚かさの極みだ。アフガニスタンに侵攻してもそこには何もないだろう。
 
 アメリカは多民族国家です。その中にはアラブ人もユダヤ人もアジア人も抱えている。そしてイスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒もいる。冷戦の構造が崩壊してアメリカだけが突出した軍事力を持ち、それに敵対する様な国家勢力は存在せず、世界は単一化、グローバル化した。こういった新しい世界での今後の課題は、その単一化した世界のなかに抱える、様々な不満分子、精神異常者の起こすテロや反乱を制御しながら社会を運営していくしかない。豊かになり、複雑になればなるほど、それに取り残される部分や、圧迫される部分は必ず生じてくる。そういった部分が持つリスクを抱えて我々人類はその社会を運営していかなければならないのだと思う。テロリストや精神異常者や殺人者はアメリカ社会の中に、それぞれの国々の中に次々と発生し、はぐくまれている。今回のテロリストもアメリカ社会のなかにひっそりと存在し、飛行機の操縦訓練を受けていた。そういったリスクをなくする努力、そういったテロリストや精神異常者を社会から取り除く努力はしなければならないが、生物として考えると原理的に根絶することは難しそうだ。そういったリスクを抱えた上で生きていかざるを得ないということを我々は肝に銘じておかねばならないということでしょうか。まかり間違えばわれわれでも今回の飛行機に乗り合わせていたり、旅行者としてセンタービルを訪れていたかもしれない。また先般事件のあった大阪の池田小学校に子供を通わせていたかもしれない。
 
 冷戦終結後の世界の様々な紛争はすべてそういった枠組みでとらえることができるように思う。田中宇(サカイ)のホームページ「国際ニュース解説」に掲載されている諸問題はすべてこの範疇に入るようにおもう。数千人を殺害した今回のテロにしても軍隊を差し向けて解決できるようなものではないことが何ともやりきれない。
 教師として教えている生徒のなかでもドロップアウトしていく生徒を見ていると何ともやるせない。彼らは彼らなりに、そこはかとない閉塞感にさいなまれているのだろう。

2001年9月17日の日記より
 このたびのテロの犠牲になられた方及びその親族の悲劇は慰めようもないが、今回のテロは高度に発達した文明のどこにでもあるリスクの一つにしかすぎないのかもしれない。我々は高度の科学技術、工業技術を獲得してさらに教育学、経済学や法律学的な人間社会の高度な運営メカニズムを獲得した。そのために我々は大変なことができるようになった。何千キロも離れたところに数時間で移動したり何万キロも離れた人々と瞬時に連絡をとりあったり、多量の物資を遠くに早く運んだり、何万トンもの物体を動かすことができる。何百キロも離れたところで生み出されるエネルギーを湯水のごとくつかったりできる。また複雑に絡み合ったこの社会を運営できる。これらの高度の文明の成果のために、それから生み出されるリスクも大規模にになってきた。
 ほんの単純な操作員の操作ミスが何百万人もの生命を危険にさらしたスリーマイル島やチェルネブイリの原発事故、耐圧殻の修理ミスから発生した御巣高山へのジャンボジェット機の墜落事故。作業員の単純な知識不足から生じた東海村の原発材料事故。あるいはアメリカで生じたダムの崩壊事故。巨大タンカーの座礁による油漏れ事故。湾岸戦争時の油田火災。先日起こったハワイ沖の愛媛丸の沈没事故。等々・・・・・。これらはほんの些細なミスから生じた。そして何百人、何万人もの人名を危機におとしいれた。こんな大規模なものを持ち出すまでもなく、常に一定の割合で航空機事故はおこり、交通事故は発生する。
 地震や暴風雨による被害も高度文明社会であるが故の産物である。これほど都市が発達しなければ地震もおそれるに足らない。原始生活のままの村の生活ならば地震でもそんなに大きな被害とはならないだろう。大規模被害は原始的で素朴な生活の社会では起こりえない。原始社会では、どんなミスを犯してもせいぜいミスを犯した人が怪我をするか、死亡するだけだ。しかし、今日では誰でも何百トンもの自動車や飛行機を操縦して動かすことができるし、発電所やダムや巨大タンカーを運転できる。だからほんの些細な個人のミスが大事故をおこす。今回の貿易センタービルのテロもその範疇の一例のような気がする。
 個人の些細なミスか、悪意を持った個人の作為の行動かの違いでしかない。そして個人のミスも、悪意を持った者も、精神異常者もこの複雑な人間社会では絶えず発生する様々なリスクの一つにしかすぎない。不平不満を持ったテロリストや精神異常者も、善意で行いながらミスを犯し結果として重大事故を起こしてしまう個人と同じで、この社会のなかに普遍的にたえず発生するリスクのうちの一つでしかないのかもしれない。
 こういった目でみると大規模な戦争さえもほんの些細な行き違いや思いこみの連鎖でおこる。何十万人も死んだベトナム戦争、何百万人も死んだ世界大戦もそういったリスクといえるかもしれない。槍や刀の時代ではこれほどの悲劇は起こらなかっただろう。
 さらに今日繰り返し現れるコンピューターウィルスもそういったたぐいのリスクだ。会社のシステムがひとたびウィルスに冒されて破壊されればその損失は計り知れない。しかし、そういったウィルスを作ってばらまく悪意ある個人は、この人類の中にある一定の割合で生まれ、存在する。ネットワーク社会が便利で偉大なる力を持つが故にコンピューターウィルスが問題になる。
 また“そごう”や“マイカル”といった巨大デパートや巨大スーパーの倒産により何千人もの人々が路頭に迷うのもそういったリスクかもしれない。ほんの一握りのトップの判断ミスがそれらの企業を倒産に導いた。こんな巨大な組織がかくも簡単に崩壊する。それも上記のリスクと同列である。
 
 それらのリスクを防ぐにはコンピューターウィルスの場合はワクチンソフトをこまめにバージョンアップしてネットワークの入り口に様々な関門をもうけてチェックを繰り返すしかない。この膨大なネットワークのどこかに潜んでいる悪意の個人をすべて探し出して捕まえて監獄にぶち込むなどは不可能なのだから。
 だから今回の事件についてもこんな事件が起こらないように空港の搭乗手続きのチェックを厳密にし個人のIDの管理を徹底してそういった悪意のテロリストにつけ込まれないようにするしかない。上記の様々なミスに伴う事故もそういったミスが起こらないようなメカニズムを作るしかない。交通事故もそれが起こらないような手だてを地道にする以外にはない。それでも交通事故はなくならないだろう。それと同じで、いくら不平不満が生じないような社会を目指しても不平不満分子は必ず生じるしテロリストは生じる。企業倒産の判断ミスを防ぐには社外取締役制度を整備したり情報を公開したりといった制度的な整備もやらねばならない。それでも経営の判断ミスは生じるだろう。
 いずれにしてもこれらのリスクを回避するための努力と費用は莫大な物になる。それでもそれをやらねばならないのは、その結果生じる被害が大きいからである。被害と対策費の費用対効果でどこまでの対策を施せるかが決まる。またこれらの文明の利器を使うか使わないかも、リスクとそれから得られる効果との比率で決まる。便利だからそういった物を利用せざるを得ない。それ故必然的にリスクも負わねばならない。
 
 コンピューターウィルスをばらまく個人を特定できればそれを逮捕すべきだ。それとおなじで今回の事件に対してもテロリストの黒幕を取り除くことができればそれをすべきだ。しかしそれが難しいからといってアフガニスタンの住民全体を敵に回して戦争をしてみても無駄な努力だろう。
 アフガニスタン住民の大多数はニューヨークという都会も知らなければ、貿易センタービルなど聞いたこともないだろう。今回の事件を知る人などほとんどいないだろう。自分に何の身の覚えのない事柄で難癖をつけられ国土を蹂躙される人々こそ不幸である。そんな状況の国に軍隊を差し向けて戦争して何になるというのだろう。アフガニスタン人の恨みを買うだけである。そんな戦争にかり出されるアメリカの兵士こそ不幸である。アフガニスタン侵略戦争にかり出されたソ連軍の兵士が不幸であったように。
 
 だから今日の文明社会では誰でも航空機の墜落事故に遭遇するし、交通事故にあう。またテロリストの爆弾テロの被害者になる。また自分がミスを犯して加害者になるかもしれない。常にそういったリスクを覚悟しておかねばならない。そうなったら潔くその現実を受け入れることしかないように思う。じたばたしても仕方がない。それが今日の便利なこの文明を享受して生きるということなのかもしれない。我々にできることは、そういった事故に遭ったとき残された子供や連れ合いが路頭に迷わないように生命保険や事故保険をかけてリスクを分散し、テロにあう可能性の高い場所へは近付かない事しかないのかもしれない。

2001年10月6日

 ・・・・・長谷川氏もやっと冷静さを取り戻したようですね。長谷川氏が言うとおりだと思います。米軍による軍事介入は無い。それはアフガニスタンという国を考えたら明らかです。
 シリコンバレーのさびれ方がひどいという情報は貴重です。おもしろい。最近リーナス・トーバルズが書いた「それがぼくには楽しかった」(ソフトバンク)というLinux開発者によるリナックス革命の真実の本を読んだのだけど、たしかに世の中は変わりつつある。金儲けとか、大金持ちになって有名になるとかは全く関係ない、そんなことに何らの価値も感じないという人々が出はじめた。そういった人々がこれからの世の中を変えるかもしれない。世の中がグローバル化して金儲けに狂奔する社会になりつつあるが、そうなればなるほどそういった狂気には無縁の人々が存在の価値を高めてくるかもしれない。以下の文章を読んでとくに感じる。

http://jimbo.janakanews.com/229.htmlから引用
           (ただしこのページは現在は無くなっている。)
●胡座をかかない見事な日本人
だが、安易に胡座をかかない見事な日本人もいる。
 
 その一人が中村哲さんである。中村さんは、タリバンによるバーミヤンの仏像破壊が半分終わった頃、餓死者百万人という中で起きている「国連制裁」と「仏像破壊問題」が進行するその現場にあった。その渦中で、「本当は誰が私を壊すのか」という仏像の"心の声"を見事に聞き取っている。
 それは、4月3日付の朝日新聞に、「本当は誰が私を壊すのか」という一文として寄せられており、ご存知の方も多いと思う。
 中村さんは九州大学医学部卒業後、1984年からパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任した医者で、癩病のコントロール計画を柱にしたアフガン難民の診療に17年間携わってきた。そして、「国外に難民を出さぬ活動」を目指し、アフガニスタンの首都カブールで診療活動を行ってきた。
 この中村医師の活動を支援することを目的として結成された『ペシャワール会』のホームページ に、中村医師が毎日新聞に寄せた一文が掲載されている。そのなかに次ぎのような一節があるので抜粋する。
 
「・・・・・いまさら『構造的経済危機』を嘆かずとも、カネ社会全体が貨幣経済の終着する世界規模の巨大なバブルなのであって、崩壊する日が来るだろう。だが、それが何だ、と言いたい。貧しくても人間の品性までが堕ちるとは限らない。破局は恐れるに足りない。未来の処方箋を描くことはできない。ただ、どんな極限状態に置かれても、人間が人間である限り失われないもの、いたわりと相互扶助の感覚、侵してはならぬ共通の聖域は、確かに存在する。不条理は世の初めからあった。だが、これを見つめて対峙する人々もまた、時と所を超えて存在した。それが人々の狂気を鎮め、慰めと勇気を与え続けてきた。私たちもまた、暗ければこそ灯火を輝かせ、蔓延する不安や狂気と対決しようとしている。・・・・・」
 
「カネ社会全体が崩壊する日」は来る。来て当たり前だ。だが、「それが何だ。貧しくても人間の品性までが堕ちるとは限らない。破局は恐れるに足りない」と、言い切れるところが見事だ。
 アメリカのご都合に合わせるだけの「改革」でしかありえない「小泉改革」なるものなどは、「見事さ」の対極にある。それをまた「このままでは日本が崩壊するぞ!」、「破綻してしまうぞ!」などと、右往左往して大声で叫んでいる無様な日本人が大勢取り巻いている。もっとも、「参院選」と「靖国」が終わった今、見事に"どっちらけ"に終わっているが・・・・・。
 
 物質文明にドップリと漬かった自らの"浅ましさ"に思いを至すことのない無様な日本人には、錯覚と幻想によって膨張を加えた「失うもの」の大きさに怯えている自らの姿を決して直視することはできない。
 
 もう一人、見事な日本人がいる。この人は、1986年にローマ法王をバチカンに訪ね、「法王さま、ご立派な法衣を着て祈っているだけで世界は救えません。あなたも作業着を着て沙漠に立ってください。そうしなければ人は救えません」と、並み居る人々の前で淡々と法王を説教した人として、知る人ぞ知る人である。
 本誌『226−2』号でご登場いただいた遠山柾雄博士の岳父で、現在、ゴビのクブチ沙漠で10年間にわたって植林活動を行っている遠山正瑛・鳥取大学名誉教授(95歳)である。・・・・・以下省略

 中村哲氏は最近時々まじめな報道番組に出てアフガン情勢を説明されていますね。先日筑紫哲也の報道番組(これが今のところもっとも冷静かつ客観的に感じる。)でも紹介されていましたね。 なにか我々は最近人間としてもっと根元的な何かを見失っていたようですね。
(2021年4月記: 中村哲氏は、2019年12月4日アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力に銃撃され死去された。ただただ哀悼の意を捧げるのみです。やるせない。)

2001年10月10日

お元気ですか。
 アメリカは愚かにも軍事介入を始めてしまったようですね。しかしこのような戦闘に軍事的な効果は全く無い。それはわかっているのに、制裁をするぞするぞと声高に叫んできた手前、何かせねば収まりがつかなくなったブッシュが単にアメリカのメンツだけに始めた戦争ですね。愚かなことだ。こんな動機で爆弾を落とされるアフガニスタン人こそ迷惑の極みだ。
 アメリカが攻撃を始めて3日もたたないうちに、この攻撃の愚かしさが、様々なマスコミで取りざたされ、明らかにされてきている。こんなことは始める前からわかっていたことなのに。
 以前アメリカの元国務長官のマクナマラが北ベトナムを訪問してベトナム戦争がなぜ防げなかったのか、当時の北ベトナムの政治、軍事の指導者と会談、討論したテレビ番組を紹介しましたが、そのテレビ番組のなかで、双方にとってまったくする必要のない戦争に、互いの非難合戦と互いの相手への恐怖心と自らの被害妄想があの戦争に駆り立てられていったということが明らかになっていました。やがてアメリカは今回の戦争についてそれと同じ反省をいつかすることになるだろう。あのベトナム戦争は我々の良く知っている時代に始まりその経過や終わりを良く知っているだけに、このテレビ番組を見たときの衝撃は大きかった。このテレビ番組を是非手に入れておきたいものです。(この番組は現在単行本化されている。東大作著「我々はなぜ戦争をしたのか―米国・ベトナム 敵との対話」岩波書店

1998年8月2日の日記から
1998.8.2放映NHKスペシャル「我々はなぜ戦争をしたのか」ベトナム戦争指導者が初の対話(当時の国防長官だったマクナマラの発案)を見て
 
 ベトナム戦争は我々の青春時代のまっただ中で起きた悲劇だった。文字通り冷戦の中で行われた共産主義と資本主義がその存在の価値を賭けて、双方総力をあげて闘った最後の聖戦だったのだ。そのなかで、どちらに真理があるか、どちらに正義があるかを確かめる為に多くのジャーナリストが命を賭けて戦場に行き、沢山のジャーナリストが命を落とした。(この戦争で命を落とした日本人ジャーナリストは15名、殿島三紀著「わが夫、還らず」ベトナム戦争に消えたジャーナリストの妻たちの30年 砂書房)そして我々もそのうねりのまっただ中にいた戦争だった。その意味でこの対話の中で明らかにされる事実は衝撃的である。
 この対話を実現させたのは、双方の指導者が老成してすべてを高い見知から眺めることができるようになったからだろう。老人の知恵が実現させた。
 この対話で明らかになった最も重要なことは、アメリカは共産主義の侵略を防ぐというドミノ理論に元ずく戦争だったが、ベトナムにとっては南ベトナムを共産化しようなどと思った戦争ではなく、ただ民族の統一と、民族の自決権の確立を望むことでしかなかったということである。そこに最大の認識のずれがある。(アメリカから見ればソ連の援助を受けた北ベトナムの正規軍が南下してくるのを見ればまさに共産主義の浸透にしか見えないだろうし、北ベトナムにしても民族の統一を成し遂げるためにアメリカの力を跳ね返えさねばならない。そのためには自分を助けてくれるものなら何にでもすがりたいという所だったのだ。)
 この認識のズレがすべての悲劇の基だったのだ。そのズレが多くの戦争回避のための交渉を決裂させてしまった。また和平への機会を失わせてしまった。
 この対話で明らかになったことは結局、双方の狭い価値観、世界観、人生観に基づく相手の間違った理解・認識、そして誤った思いこみが、戦争指導者をして誤った方向へ人々を駆り立てて行ったと言うことだ。なんたる悲劇。
 
 これは貴重な記録だ。双方の出席者はかって軍や政治の第一線の指揮官だった人々だが、今やいずれも好々爺となり、老成して人生の諸々の経験から来る知恵を身につけたにじみ出る人の良さを感じさせる優しい顔をしていた。なぜこの知恵を双方がもっと若いときに身につけることができなかったのか

2009/5/31 追記
最近出版された 平敷安常著「キャパになれなかったカメラマン」(上)(下)講談社
は、分厚い本にもかかわらず一気に読んでしまった。その中に掲載されている写真はどれも当時どこかの雑誌で見た物だったし、そのなかの出来事はすべて記憶にあるものだったので引き込まれるように読めた。高校生諸君が読まれる事を強く勧める。

 上の文章のドミノ理論をテロリストの殲滅に置き換えれば、このときの話が全くおなじに見える。新興勢力のタリバンが短期間にアフガニスタンを制圧できたのもアフガニスタン人がもう戦争はたくさんだと思っていたからだ。やっと訪れた平和だったのに、今度の戦争はアフガニスタン人にとっては単に民族間の対立を煽り、内戦を増長し大国のエゴに振り回されるだけの戦争でしかない。アメリカに支援された北部同盟がアフガニスタンを制圧することは絶対に無いだろう。 

2001年10月13日

・・・・田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/b1015afghan.htm
などを読むとムシャシラクはかなりしたたかですね。
 一昨日のNHK教育のETV特集アフガニスタン戦乱の30年史はアフガンの国状を良く知らしめてくれる番組でした。とくにその中で目立ったのは、とにかく大国の場当たり的な政策や軍事介入です。かっては英国、ソ連やアメリカの大国が主導だったが、最近ではアフガニスタンを取り巻く国々が自国の都合でアフガニスタンにちょっかいを出しアフガニスタンをメチャメチャにしている。
 そんな中でやはりアフガニスタンを考える基軸はやはりイスラム教だと思う。

1975年の私のアジア旅行の記録から
○回教について
 9月に断食月(ラマダン)この間は太陽がでている間は水以外口にできない。なんとも理不尽な戒律だ。
 バクシーシ富めるものから貧しいものへの施しの習慣
 1日5回メッカの方を向いてアラーに祈る。
 この祈りは、イランの都市部では形骸化している。しかし田舎のほうでは真面目にしているらしい。私がとくに深い感銘を受けたのはアフガニスタンである。アフガニスタンこそ文明から取り残された現代のエアーポケットのような国であるが、砂漠の真ん中、谷沿いの街道に沿った林のそば、あるいはバスストップの田舎の茶店などで、この祈りをしばしば目撃した。とくに乗合バスで砂漠の真ん中を移動中に突然バスを止めて皆が砂漠の真ん中に並んでする祈り、また、夕闇迫る山岳地帯の荒野の中で捧げる祈りの姿は門外漢の我々貧乏旅行の傍観者にも心に迫るものがあった。
 なぜ彼らがこのような理不尽な習慣をかたくなに守っているのかは、砂漠や乾燥した山々の連なる不毛の荒野を旅して見て初めて分かる。かれらには祈る以外に何も無いのだ。何もない過酷で単調な自然の中で毎日を生きて行くには、絶対服従、絶対帰依の神アラーに自分の身も心も捧げて、自分の生活を律して行く以外にすべはない。だから回教が中近東を中心にした砂漠の民の中に根付いたのだ。 これは緑したたる大河のほとりに芽生えた仏教と根本的に異なるところである。仏教は悟りの境地という非常な高邁な精神状態に達することを目指すとても深遠な宗教なのだ。砂漠の世界ではそのような複雑な宗教は難しい。

 我々は回教の本質を理解していないように思う。上に書いた通りなのだと思う。イスラム教を信じるアフガニスタン人は何も持っていない。失う物は何もない。貧困に陥れば陥るほど、厳しい状況に置かれれば置かれるほど彼らの回教への回帰が生じる。彼らにとって回教に帰依する以外に生きる道は無いのだから。
 パキスタンやアメリカに難民となって逃げ出せる人は、アフガニスタンの中でも裕福な層、文明化された層の人々(おそらく1割程度)だと思う。一般の人はそれさえもできない。だから下層の人々は中村哲医師が言うようにカブールなどの都市へ難民となって出てくるしかないのだろう。そういった状況の中でタリバンがどのようになっていくのか?それを見極めたい。

2001年10月18日

 もう読んでいるかもしれませんが、ニューズウィーク日本語版でとても興味深い論説を読んだのでそのコピーを送ります。たしかにこの通りだと思う。いままでの経過を振り返れば、ここにかかれている通りだと思う。それをすべてここに表現してくれている様に思う。

ニューズウィーク日本版 2001年10月17日号 P.18〜  SPECIAL REPORT

2001年10月19日

先日送ったニューズウィークの論説はいかがでしたか。
 あの中にかかれていることはまさに我々が生きてきたこの30年間における中東の変化だった。エジプトのナセルやインドのネルーが輝いていたときの1960年代のアラブ諸国はいまよりずっと良い状態だったように思う。それが1970年代を経た頃からおかしくなり出す。そのおかしくなり出した経過と原因が分析されていたのだがまさにその通りだと思う。いまにして思えば、私が中近東やイラン、アフガニスタン、パキスタン、インドを旅行した1975年は、まさに中東が崩壊を始めていく直前の時期だったのだ。
 グローバル化と世界経済の単一化に取り残されていく中東のイスラム諸国、これらの国々は今どうしようもない泥沼の中に沈んでいる。それらの国々で少しでも知恵があり、知識があり、逃げ出せる金のある人々はアメリカへアメリカへと逃げだしていった。イランからもパレスチナからも、そしてアフガニスタンからも。そしてますますアメリカは多民族国家、そして世界でただ一つの超大国、そして世界のあらゆる問題を解決しなければならない立場の国になっていった。

2001年9月24日の日記から
超多民族国家アメリカの宿命
 アメリカは活気に満ちた国だ。しかし平時にはきわめてまとまりの無い国。アメリカは自由と民主主義の理念への信条だけが、この雑多な人種や民族から構成されている人工国家を束ねている。
 これこそが大リーグのスポーツ観戦している観衆を観るときに感じる一種独特のアメリカ風の雰囲気になるのだろ。いい話、心温まる話に皆が共感し、慶事にしろ悲劇にしろ皆がまとまってするセレモニーが大切になる。つねに事あるごとにそういったセレモニーで互いの連帯を確かめ合わねばならないのが、多民族国家、多宗教国家、自由と民主主義の理念だけでまとまっているこの国の宿命なのかもしれない。
 とかくアメリカ国民はセレモニーが好きだし、セレモニーのテクニック、手順に慣れている。スポーツ選手のインタビューにしても優等生的な返答が多いのも、スポーツ選手が国民を一体化させるのに大きな働きをしているからだろうし、観衆が皆それを期待しており、スポーツ選手もそれを自覚しているからだろう。
 国家的危機に直面すると、アメリカの国民は他国民に見られない鮮やかな結集ぶりをみせると言われるが、そうしなければならい、そうせざるを得ない、それ以外にやりようがないところにアメリカという国の宿命を感じる。

 そういった意味で今度のアフガン介入は、ニューズウィークの論説が指摘していたように、アメリカにとって大変な重荷になる事柄だろう。つまりアメリカの戦争のやり方が問われているし、世界はその戦争のやり方に正当性があるのか、それで正しいのかを見つめている。テロ撲滅では世界が共同歩調をとるが、それを一歩踏み出したところではそれぞれの国が躊躇している。アメリカを含めてすべての国々が様々なしがらみをかかえており、どのように対処したら良いのかわからないのだ。
 いまという時代は東西の冷戦構造が崩壊して世界経済の単一化とグローバル化が始まろうとするとき、それまで存在していた様々な矛盾、とくにイスラム諸国に集積していた矛盾が一気に顕在化してきた時代のようである。
 世の中はまさに1998年にブレジンスキーが予言した通りに動いているようだ。ブレジンスキーは
ズビグニュー・ブレジンスキー著「世界はこう動く」−21世紀の地政戦略ゲーム−(日本経済新聞社)1998年刊 の中で、今後の世界平和と安定に最も関わってくるのはユーラシア大陸におけるパワーバランスでとくにカスピ海周辺を巡るユーラシアバルカン諸国と中国情勢であるといっていた。それ以外の諸々の紛争は副次的な意味しか持たないといっていた。
 そのときの日記から

1998年5月9日の日記
ズビグニュー・ブレジンスキー著「世界はこう動く」−21世紀の地政戦略ゲーム−(日本経済新聞社)を読んで
 
 ブレジンスキーの論点は明快で将来を見通しているように感じる。そしてブレジンスキーが約10年前に著した「大いなる失敗」(ロシアの崩壊を予言した書)と基調を同じくし、見通しの軸はぶれていない。
 ブレジンスキーが言う今後の世界平和と安定に最も関わってくるのはユーラシア大陸におけるパワーバランスでとくにカスピ海周辺を巡るユーラシアバルカン諸国と中国情勢であるといっている。たしかに言われてみればその通りで、それ以外の諸々の紛争は副次的な意味しか持たないようだ。
 彼は言う。現在の世界情勢を考える上で重要なユーラシア大陸における地政戦略上重要な参加者はアメリカを除けばドイツ、フランス、ロシア、中国、インドであり、地政学上の要衝はウクライナ、アゼルバイジャン、トルコ、イラン、韓国の5カ所でありトルコとイランは限られた範囲では地政戦略ゲームへの参加者でもある。そのときイギリス、日本、インドネシアは極めて重要な国ではあるが参加者ではないという。この視点はいままでの我々の常識的意識とかけ離れていて斬新であった。重要!注目すべし。
 ヨーロッパ情勢の分析は鋭い。一番さえている部分かもしれない。ロシアに関してはやはり悲観的である。しかしロシアの行く道は割とはっきりしているように分析している。これに対して中国に対しては楽観的であるが混沌としている。今一つつっこみが足りない。
 6章の日本についての地政学的な分析は一読の価値あり。
長谷川慶太郎よりももう少し大局的に、もう少し先を見通しているように思える。
 いずれにしても、彼の言う
  (1)アメリカが歴史上本当の意味で初めて世界大国になった。
  (2)つまりユーラシア以外の国(つまりアメリカ)が世界の覇権を握っている。
  (3)世界政治の中心舞台であるユーラシアがユーラシア以外の国(アメリカ)によって支配されている。つまりアメリカの舵取りに今後の世界平和と安定がかかっている。
と言う認識は斬新であった。

 まさにアメリカの民主主義、自由主義、資本主義が世界の規範になりつつある。そして、そのグローバル化の波に取り残された国々の怨嗟の対象として非難を一身に受けているのがアメリカであり、グローバル化から取り残された国々を脱出した人々が目指すのもアメリカなのだ。そういった意味でアメリカの舵取りに今後の世界平和と安定がかかっている。超多民族国家アメリカ以外にそれができる資格を持った国はない。そういった意味で、今度のアフガニスタン介入がどうなり、アフガニスタンという国を含めてイスラム諸国がどうなっていくのか、世界中が息を潜めて見守っているという感じだ。まさに世界中のジャーナリストやマスコミがベトナム戦争で世界情勢を見極めようとしたと同じように。この戦争で世界がどう動くか、それぞれの国々の人々がどのように動くか見極めようとしているように感じる。
 そういった論点を踏まえた上であえて私は言いたい。すべてが終わった後には10月10日のメールに書いたマクナマラの感慨と同じ結論が待っているように思う。アメリカにとってはテロリストの殲滅という大義名分の元での戦争だが、アフガニスタン人にとっては自国が侵略され、民族の対立をあおり立てられ泥沼の内戦に引きづり込まれる戦争でしかない。そして、それはさらにイスラム諸国の内部崩壊と荒廃をもたらすだけのような気がする。

2001年11月17日

・・・・ここに来て長谷川氏も、やっと歯切れのいい論調が復活したようですね。
 ただ最初に言いましたようにアフガニスタンという国は何もない国です。テレビ映像でアフガニスタン国内の情景を目にする機会が多々ありましたが、何もない国です。カブール、カンダハル、ヘラートと言っても単なる大規模集落であって都市と呼べるような物ではありません。だから政権とか政府とかいわれても何か変です。タリバンの政権とか北部同盟の政権とかいっても何かピントがずれています。タリバンの政権の崩壊という言い方もズレています。最初から確たる行政や政権など存在しない国ですから。アメリカがビンラーディンを旨く捕まえられればいいですが、それができなかったら、今度の戦争はタリバンにしても北部同盟にしても何のための戦争か訳のわからない戦争でしょうね。逆に言えば双方にとって何のための戦争か訳がわからないという状況になったと言うことが双方が軍を引くのに良かったようです。アメリカが地上軍を投入する愚をさける賢明さを持っていたのが何よりの幸いでした。アフガニスタンに早く平和が訪れると良いですね。今後のなりいきはアメリカが大規模な地上軍の投入無しでテロリストを補足できるかどうかにかかっているような気がします。(2011年5月追記: パキスタンに潜伏していたビンラーディンは、2011年5月2日にアメリカ軍に補足されて射殺された。)
 
 冷戦の構造が終結して10年以上がたち世界経済の単一化とグローバル化というものがどのような物であるかが見えてきた10年ですね。この10年で最も発展したのはどうやら中国だったようですね。世界経済の単一化とグローバル化の恩恵を最も多く受けたのは低賃金労働力資源を最も豊富に持っていた中国だったかもしれない。この点の読みで10年前の評論家は長谷川氏も含めて皆将来を予測しそこねたようですね。10年前は長谷川はロシヤに楽観的で中国に悲観的だった。その中でブレジンスキーただ一人ロシアに悲観的で中国に楽観的だったが、ブレジンスキーもそこまで見越していたかは疑問です。それと丘永漢も中国の可能性をあげていましたね。
 結局政治が先に崩壊してしまったソ連はなかなか経済発展の軌道に乗れないままだったが、まがいなりにも政治機構が存続した中国は経済が発展し始めたら政治も変わりうるのではないかという予測を抱かせるようになった。中国も共産党の独裁や、個人崇拝や指導者の居座りが政治的にだめなのは学習してきたので、今後の2008年のオリンピック開催などを通じて民主国家に移行できるかもしれない。日本としては是非そうあって欲しい。中国のような国から大量の難民がでる事態になったら周辺国はそれこそいい迷惑ですから。
 名だたる評論家もたった10年後が予測できないというところがおもしろい。そうであるからこそ商売をする上で様々な可能性があるし、人の生き方に於いてさまざまな可能性があるわけで人生が楽しくなる。
 将来予測に於いてある論理が有力だった場合、評論家は得てしてその論理の適用性を過大に評価してしまいその論理的思考法に依存しすぎる傾向があるようだ。長谷川も共産国家の構造矛盾による予測があまりにも良く当たったので中国の未来予測を誤ってしまったようだ。共産主義国家の崩壊に伴う世界経済の単一化とグローバル化が中国の低賃金労働力資源のメッリットをして中国の政治機構の欠陥を上回らせてしまった。
 
 上記の中国情勢と同時にこの10年で見えてきたのはアメリカという国の本質ですね。東西の冷戦の時代にはアメリカというのはとにかく自由と民主主義の砦、旗手の国ということで輝いていた。しかし東側の国々が崩壊した後にはアメリカがなぜか色あせてきた。自由と民主主義を守る国家として存在するという気概が問われなくなって後の様々な局面で見せるダブルスタンダード、自分の国さえ良ければ良いという自分勝手。それと同時に多民族国家としての様々なしがらみと多面性。治安の悪化。生産現場の空洞化。ハイテク分野とサービス業だけで成り立つ国。そのために進む貧富の二極分化
 良きにつけ悪しきにつけ日本がやがて進んでいく道ですが、それが必ずしもバラ色ではないところがやるせない。アメリカの後追いやアメリカのコピーではなくて日本という国の地政学的な立場や人類史における今という時代に立脚した国造りや世界政治、世界経済への貢献はできないのだろうか。

日本の地政学的な特徴

  1. ヨーロッパとアメリカと三角形を形成する位置にある
  2. 太平洋の端に位置する島国国家
  3. 単一民族国家
  4. 中国とロシヤという国に隣接する国家
  5. アセアン諸国の北端に位置する国家
  6. イスラム諸国やかっての植民地時代の国々に対して負の関わりを持たない国家

地球上の人類史における今という時代

  1. 狩猟採集生活 → 農耕生活による農業革命の時代 → 産業革命の時代 → 情報革命の時代
  2. 言語の獲得 → 文字の発明 → 印刷術の発明 → コンピューターの発明に伴うIT革命の時代
  3. 他の動物と同じ程度の存在密度の時代 → 地球上のほぼ全域を人類が被い尽くした時代 → 人口爆発の時代
  4. 人間が他の生物の中で生きていた時代 → 人間が他の生物を圧倒する時代→人間の生活が地球環境に大きく影響を与える時代。 
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