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ユーラシア事情1975年(大陸一周旅行) 

 以下の記述は1975年(昭和50年)8月7日〜12月9日までの約4ケ月間の旅の記録。私が26歳の時で、今(2002年)から27年前です。
 27年という年月は短くもあり、長くもある。当時私が旅した国でソ連邦は消滅し東欧社会主義国は崩壊。ユーゴスラビアは散り散りに分裂し泥沼の内戦に明け暮れて多くの悲劇が生じた。東ドイツは西ドイツへ併合。トルコでは民族問題で多くの難民が発生。イランのパーレビ王朝はホメイニのイスラム革命で壊滅。イランとイラクは血みどろの戦争をおこない、アフガニスタンはソ連の軍事介入以後戦乱に明け暮れる荒野になってしまった。インドではシーク教徒の反乱でアムリッツのゴールデンテンプルは崩壊し、そのことに関連してインディラ・ガンジー首相が暗殺された。そして今なおカシミール地方ではパキスタンとの戦乱に明け暮れている。タイではクーデターが繰り返され、カンボジアでは私が旅行しているそのときに150万人もの人民が虐殺されていた。香港もついに中国に返還され、その中国も激動の時代に入りつつある。

 時代は変わり、国は変わり、人は代わった。しかしあえて当時私が書き留めた旅の記録を、当時感じたそのままにここに採録する。若い頃書いた稚拙な文章で若者特有の気負いがあふれていて面はゆい。採録するに当り読みなおしてみて、改めて私の青春時代が蘇ってきた。高校生諸君が何か得るものが在れば幸いです。

 今から考えると、ずいぶんいい加減に、後先も考えずによく思い切って旅に出たと思います。良く考えると結局それで良かったのだと思います。勤め先を辞めて大学院に入り直し、ちょうど大学院の前期の試験と、後期の授業、研究をサボってしまいました。そのため1年大学院を留年するはめに成り、また色々な人に心配をかけました。人に心配かけたのはまずかったが、やはり行けて良かったと思います。人生の若いある時期このような体験を持つ事ができたメリットは計り知れません。

出発

○実行
海外旅行は思い立った時しないと決してできない。
○きっかけ
きっかけは大学院の奨学金、と友達(彼はワンダーホーゲル部の者でロシヤ、ヨーロッパ、アフリカを回ってきた。そしてキリマンジャロに登ってきた)から聞いた話し。
○成功の秘訣
一人になってもやるという人間がいれば、その計画は成功する。そういう人間がいなければ何人集まっても成功しない。
○やりかた
海外旅行を思い立ったとき右も左も解らなかった。「西堀方式」でやるべし。調査、準備してからやるかどうか決めるのではなく、やるとまず決めて調べる。実際に行動に移し、調べていくと、不思議と道は開けてくる。本を読み、人に聞き、手紙をだす。友達に聞いた話から、行けるという自信を実感して、本「アジアを歩く」(深井聰男著)を手に入れたのが決定的だった。
○手続き
パスポート、ソ連東欧のビザは「山下新日本トラベルサービス」にたのむ。安い。ソ連旅行は国営旅行社インツーリストの手を経なければならないので、わりと楽。パックに入ると安い。ソ連には観光指定都市と言うものがあり、それを外れないで旅行するのは簡単。それを外れると様々な許可を取らなければならず、ソ連の官僚制の壁にぶち当たる。
○検疫
出発までに宇品港の検疫所でコレラ、腸チフス、天然痘の予防接種をする。抗生物質クロロマイセチンと正露丸を買い込む。パスポート、国際ユースホステルの会員証、国際学生証明書、国際運転免許証、ユーレイルパスを手に入れる。

ソビエト連邦

○ナホトカ
横浜からソ連船バイカル号でナホトカヘ向かう。船に二泊して夕方ついたが感無量。ウラジオストックが軍港だから、その替わりとして作った港。何もないところを切り開いて作った港町。ちょっと西部劇に出てくる町の感じ。
○ナホトカの町で
高緯度でなかなか日がくれない。北海道のサッポロぐらいの緯度。駅の近くをうろうろする。ロシア人はひとなっこい。駅はいかにも田舎の駅といった感じ。
○はじめてのロシア
職場の寮の娘達が寮の窓から体をのりだして手を振ってくれる。工場帰りの労働者からもらったタバコのまずかったこと。フィルターが厚紙の筒
○ナホトカからハバロフスク
シベリア鉄道。行けども行けども野原と森
○ハバロフスクで
ソ連では軍人だけがピカピカの靴を履いてパリットした服をきている。一般のひとはよれよれの洗いざらした服を着ている。
○ハバロフスクからモスクワ
飛行機で8時間かかった。食事が2度、お茶が1度。とにかくロシアは広い。
○モスクワ
やはり広い。空港のまわりはどこまでも森また森。
○モスクワの夏
日本の10月末の気候。モウクワの緯度は北緯56度。樺太の北端くらい。
○モスクワの町
最初とても不思議な気持ちがした。その原因を考えると町に広告、看板、ネオンサインといったものが皆無。また商店、カフェーと行ったサービス業の店が非常に少ないからだ。キリコの絵に出てくるような町の雰囲気。
○モスクワ大学、レーニングラードホテル
ゴテゴテした巨大な建造物。時代主義的で堅苦しい。いかにもスターリン時代の官僚主義そのものの産物といった感じ。高い天井、シャンデリア、おうぎょうな階段、赤い絨毯。社会主義国家の建造物がナチスやファシズムがつくった建造物とそっくりだというのを指摘した建築学の本を読んだことがあるが。そのことからも社会主義国家は独裁国家らしい。
○赤の広場
クレムリン宮殿前の赤の広場およびレーニン廟は、ソ連人にとって、丁度日本の皇居前広場の様に、お登りさんが一度は行くところ。ソ連各地から来た人でいっぱいだった。レーニン廟は長蛇の列。
○ナターシャの日本語
インツーリストの通訳には大学の日本語学科の学生で夏休みのアルバイトが多い。それが学校の単位になるらしい。彼らは日本語がとてもうまく、また通訳業を日本語を学ぶ機会と考えてとても真剣。我々の担当になったナターシャはとてもスマートですごい美人。(嘘と思う人には写真を見せよう)
○ナターシャの言葉
 ナターシャは共産党員の娘。コムソールのメンバー。エリートと非エリートの存在。ソ連のエリート支配者階級が共産党員。支配メカニズムが官僚制。ナターシャの労働者を見る目は上級者の下級者を見下す目。
○百貨点グミで
 モスクワ最大のデパートなのに物がない。消費材が無い。グミは日本でいうところのデパートというよりも雑貨屋の寄り合いといった感じ。
○ソ連のボリショイサーカスを見て
 管理された娯楽、制御されたレクレーション。中身は一流だか日本では考えられない様な場所に劇場は立っている。郊外の広いへんぴな所。およそ日本の劇場が立地している盛り場とは違う。そうゆう目でみれば、飲み屋、カフェー、パチンコ店などの娯楽施設がまるで無い。競馬場はあるそうだ。
○ソ連の鉄道
ここからいよいよ本当の一人旅。ソ連の列車はきれいで、時間も正確です。もっとも大陸横断の特急列車だったからかもしれない。ソ連と、ソ連を出てウィーンまででは鉄道のゲージが違う。途中で車両はそのままで車輪部だけ入れ換える。
○モスクワからウィーン(列車で1日半)
イスラエルへ移住するアルメニヤ人一家(ユダヤ人)と一緒になった。(父、母、息子30,22,20歳)英語で喋るがこちらも得意でないので、なかなか意志が通じない。語学の学習をもっとしとけばよかった。彼らが夕食と朝食に招待してくれたが、モスクワでお腹をこわして下痢している私にはなかなかしんどかった。

東欧(ポーランド、チェコスロバキア)

○ソビエト連邦とポーランドの国境で
ユダヤ人一家はソ連国境を出るとき(おそらくソ連人はみんなだと思う。)すべての荷物と一緒に降ろされてどこかに集められて荷物の検査を受けたらしい。1時間くらいして、大きな荷物を持ってフウフウ言いながら列車に帰ってきた。列車はそのあいだ私を乗せたまま車輪の取り替えをした。(ソビエトと東欧では列車のレールのゲージが違うが、車体はそのままで車輪の台車だけをそっくり交換して相互に乗り入れている。)
○ポーランドとチェコスロバキヤ
ポーランド、チェコスロバキヤは日本では考えられないほどのんびりした田園地帯。ポーランドの首都ワルシャワも田舎の中に、だっぴろく広がった集落といった感じ。ワルシャワの駅も広いことは広いが田舎の駅。
共産主義の思想とは何だったのか、まさに社会主義国家が崩壊した当時担任した卒業生に贈った文章がありますのでぜひ読んでください。「社会主義とは何だったのか

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オーストリア

○ウィーン南駅
ウィーンの南駅についたらここから本当に気の向くまま、足の向くまま。さてどうしようかとしばし途方にくれ、心細かったがなにはともあれドルを両替した。
○ウィーンの印象
最初ウィーンの町で感じたのは人が居なくて、食事を取る所がなかなかないのに閉口した。便所が有料で、その上汚い。ウロウロ歩いている人間がすくない。何となく空虚な感じ。(これは後で解ったのだがこの時期夏のバカンスシーズンで町全体の人がいなかったためだ。後日もう一度立ち寄ったときには普通の町のように人が沢山いた。)とにかく森や緑が多い。
○ウィーンであったポーランド青年
彼はイタリアに古典美術品の修復技術の勉強に留学した、その帰りだそうだ。彼は故郷で美術館の職員をしているそうだ。彼は英語があまり話せなかったので双方楽しく会話できた。彼の持っているカメラのなんと原始的なんことか。(ファインダーが十文字の枠)日本のカメラのなんとすごいことか。

イタリア

○ベネチア
水の都。まず本場のピザを食べた。ここのユースホステルはいつも超満員。ヨーロッパを貧乏旅行する旅行者は必ず寄る。駅でNewCaledonia のフランス留学生と仲良くなった。
○フィレンツェのピザ
旨かった。本場では上になすびやトマト、玉ねぎなどたっぷり乗せて四角のバットで焼き切り分けて売っていた。なすびのピザが旨い。
○フィレンツェの街角のレストラン
レストランに入り木陰の下のテーブルで昼飯。英語が通じず隣の人の食事を指さして注文。イタリアではスバゲティがコースの初めにいつも出るみたい。スープがいつも出るように。
○フィレンツェ
フィレンツェは芸術の都だが、あまりにも多くの美術館、博物館があるとくたびれてあまり見る気にならない。ガリレオが月をのぞいた望遠鏡もここ(フィレンツェ科学史研究博物館IMSS)にあったのに結局見ずじまい。
○フィレンツェのユースホテル
ここのユースホステルは郊外のなだらかな丘陵の上にある昔の貴族の館。庭も立派。(私が泊まったユースではいちばん豪華でくつろげるところだった。)
○ローマ
観光客がやたらと多い。薄汚れた感じ。ローマの目抜き通りも以外と古くさい。ただ陳列してある物はイタリアデザインの瀟洒で粋でモダンなものが並んでいる。ローマはローマ時代の遺跡、ガラクタの上にできあがった町という感じ。ただ少し郊外にでれば田園が広がる。ローマにして田園地帯のど真ん中に存在しているのには驚いた。
○ローマの詐欺師
ローマには詐欺師が多い。彼らの手口は「昔船員だった。日本に行った事がある。日本人を見るとなつかしい。ぜひ一緒に飲もう。」そして飲み屋でふんだくられる。
○イタリアの風土(南部)
日本よりずっと田園地帯が広がっている。そういった田園地帯のなかにポッポッと都市がある感じ。(ヨーロッパはどこもそうだ)ローマも10km郊外に出ればずっと田園地帯が広がる。海岸近くに平野、それから急に山(山には丈の低い潅木)実際南部ではほとんど工業らしい工業は見なかった。
○イタリアの気候(夏)
日なたにに出れば日差しが厚くてじりじり照りつけるが、湿度は低く日陰に入れば心地よいそよ風が吹いていて涼しい。建物に囲まれた町中においても同じ。
○イタリア人について
イタリア人の男は肌の色は日本人に似ているが、日本人より赤色が強い。体型は、背はそれほど高くなくずんぐりした形で胸が厚く腕も太い。顔の形は一目でイタリア人と解る。(日本では西洋人と言うとどの国の人間か区別できないが、実際に旅行してみると国々で微妙に違い、旅が進むと一目で何国人か解るようになった。)
○ポンペイ
紀元前6〜7世紀頃繁栄。後にローマに属したが63年、79年のヴェスビィオ火山の大噴火で埋没した。まだ全部は堀尽くされていず半分以上火山灰に埋まっている。古代奴隷スパルタカスの反乱で有名。
○ソレント
見るべきものなし。日本の熱海みたいだが、それより田舎で静かな金持ちの保養地という感じ。海岸が断崖絶壁であるということだけがとりえで、きわめてせせこましい。海の色は思ったより緑かがって暗く透明度も良くない。(海岸もホテルが占有していておもいきって泳げない。)
○ナポリの感想
ナポリはローマよりずっと庶民的な感じ。それだけゴミゴミして汚い。私はちょうど日曜日の午後歩きまわっただけだが店は休んでいて、若いものは皆一張羅をきて(パンタロンをはいておしゃれだ。この時期世界的にパンタロンがはやった)恋人と手を組んで、ざわざわと巷にさまよい出る感じ。とても面白い町だ。ただ下町は不潔なことは不潔。毎年のようにコレラが流行するのがわかる。海岸通りは工業地帯。
○イタリア南部は政情不安
ストはきわめて多い感じ。私がナポリへいく前も一週間くらい鉄道がストをしていた。私がナポリについたときも駅前に人が集まっていてアジテーターががなっていた。
○イタリアの鉄道
ヨーロッパの鉄道の中ではきれいな方だが、時間にルーズ。ナポリを出るときも30分くらい発車が遅れた。ヨーロッパの鉄道は発車のベルも鳴らさずいきなり出発するから遅れているからといってうっかりホームに降りられない。
○ヨーロッパの鉄道
西ドイツ、スイス・・・・車両がきれいで時間も正確
イタリア、ギリシャ・・車両は中くらいにきれいだが時間はルーズ
ハンガリー・・・・・・・・・・きわめて汚く時間もきわめてルーズ
○ヨーロッパの大都市の駅
郊外から都心に線路が引かれていて駅で行き止まり。出るときはそこからスイッチバックして郊外に出て他の都市につながる。日本は鉄道が真っ直ぐに通っていて駅の周りに町ができた。ヨーロッパは町(それも大半が城郭都市)があってそれに鉄道がついた事を思わせる。
○T.E.E.(Transfer European Express)
ある国の主要都市を朝発ってその日の内に別の国の主要都市へ着くBusiness特急(ユーレイルパスがきく)ガラガラに空いている。料金が高くて普通の人は乗らない。乗っているのはBusinessエリートか我々のようなユーレイルパスを持った貧乏旅行者ばかり(これに乗れるということは、そう貧乏でもないか?)。
○ユーレイルパス(あらかじめ日本で購入4万円。T.E.E.が乗りほうだい)
アメリカの第二次世界大戦および戦後のヨーロッパに対する貢献の見返りとしてヨーロッパを旅行するアメリカ人に与えた特典。なぜか日本人もその恩恵に預かっている。

スイス

○Zermatt
マッターホルン・モンテローザ麓の谷間にある小さな町。車の進入は禁止。ツェルマット(マッターホルン、モンテローザ)とグリンデルワルド(アイガー、ユングフラウ)のユースホステルは日本人でいっぱい。(スイスの山だけは見て帰ろうとヨーロッパに来た日本人は一度は来る。)
○マッターホルン
八月の末ですでに山は雪が降っており岸壁が氷りはじめてマッターホルンのシーズンは終わりだそうだ。ゴルナグラード(片道10フラン)も雪が積もっていた。ケーブルカーで夏スキーをする人がたくさん。
○雄大な自然
雄大な自然に比較して人間の造った建造物、観光地のなんと矮小なことか。
○グリンデルワルト
アイガーとユングフラウの麓の町。緑の絨毯の中に広がった箱庭のように可愛くて美しい町。

西ドイツ

○マインツからコブレンツへのライン下り
良い天気に恵まれれば非常に快適。葡萄畑そして多くの古城。ローレライの岩は変てつの無い曲がり角
○ドイツの風土
ドイツに来てまず感じた事はやはり人間の顔形がイタリア人とがらりと変わった事で、色が白くなりドイツ型の顔になる。また町が非常に整然として、きれいになる。がっちりとしている中にも近代的な感じを与える。ドイツの町は丘陵が続く田園のなかにポッリポッリと点在し、その間を鉄道や、アウトバーンが結ぶ。田園も良く開発され人の手が行き届いている。
○西ヨーロッパ
とくに西ドイツは、町がきれいで緑が多い事をのぞけば日本とほぼ同じで、ただ旅行するだけで面白いという事はない。やはり何か目的、仕事を持ってくるのでなければ来るかいがない。
○コミュニケーション
英語圏国民以外の人と会話するのは楽しい。どちらもたいして英語ができないからコンプレックスを持つこともなく、又英語使用国以上に未知な国の人だから。
《夏ヨーロッパをさまよい歩いている若い日本人のタイプ》
  1. ヨーロッパに飛行機でくる。その時往復キップを買って行くときと帰るときは団体旅行して、現地では自由行動する。Student tourやヨーロッパホステリングはその部類だ。これには大学3年、4年が多い。たいていまともな学生生活を送っており留年したといってもせいぜい1年程度、もっとも一般的かつ平均的なタイプ
  2. イギリスやドイツの語学学校へ行っており夏休みを利用してヨーロッパを見学している。この部類には高校を出ただけ、高専を出ただけ、大学を出てからといろいろな段階の者がいる。その内の半分くらいは親のすねかじりだが、すねかじりには大した人はいない。
     
     あとの半分は1年くらい自分で働いて金をためて出てきた人。こちらは語学をマスターしたらそれを利用して何かをやろうとしている。ホテルに勤めたい。旅行社に勤めよう。菓子職人になりたい。青年海外協力隊に入ろうとかいろいろ。彼らの多くは学問的知識はそう深くなく、本も沢山読んでいないが、多くの者が実際の生活を通しての確固たる価値観を持っており外から見て非常にバイタリティーがある。
  3. 大学生でなんらかのクラブに属しており留年、浪人を数年経験している。彼らの多くは当分定職につく気はなく、金の続く限り、また気の向く限りヨーロッパ、中近東、アフリカをさまよい歩く。ヒッチハイカー、貧乏旅行者のタイプには文字通り様々あり、まともな人間はいないが旅行を通して非常に豊富な体験をしている。回り歩いた国のビザのスタンプでパスポートが一杯になりパスポートが5冊つづりになっているモサもいた。
  4. 留学生として勉強・研究できている人。あるいは団体旅行できている人。これらの人はあまり面白くない。ただ留学生としてきている人からは、その専門分野に関して面白い話が聞けた。
     
 豊田高専の卒業生。高専を出て1年アルバイトして金をため英国の語学学校に行っている。夏休み語学学校の学友の故郷を頼ってヨーロッパ中を渡りあるいている。彼に言わせると英国にいても日本人がたくさんいる学校に居たのでは英語は上達しない。よほど向学心旺盛で意志が強くなければ惰性に流されてしまう。日本で英語が嫌いなものが英国で好きになれるわけが無い。
 
 ケルンからフランクフルトまで列車で一緒だった人。彼はリュート作りのためヨーロッパで職人修行(34才)
 
 フランクフルトからウルツブルグで一緒だった人。21才の彼はローテンブルグのドイツ語学校(日本人は一人もいない。)で半年勉強して、ゆくゆくは菓子職人になりたいそうだ。彼は浪人中1ケ月カナダ、アメリカ、イギリスをヒッチハイクしたそうだ。
 
 ニュールンベルグのユースで知り合った神奈川大学6年生(23才)グライダー部。オーストリアの空をグライダーで飛んできたそうだ。
 
 ギリシャのアテネで合った人。彼は2年間日本に帰っていないそうだ。ワークパーミッションの出る夏に北欧のスウェーデンで働き、冬は物価の安いギリシャのクレタ島で暮らす。またイスラエルの軍隊とキブツで6ケ月働いてきたそうだ。彼に言わせると生活共同体キブツは外国人ボランティアにとって単なる労働搾取メカニズム、イスラエルのエゴが見え隠れする。
 
 ツェルマットから2時間電車で一緒だった女性登山家(ロッククライミング専門)やはり人は経験を積むほど人格ができてくる。だから人間を作るには何でもやってみる。何でも経験してみることかもしれない。
 

再びオーストリア

○ザルツブルグの広場で
オーストリアのザルツブルグのホーエンザルツブルグ城下の広場のベンチでのイタリア人一家との会話。父、母、娘(おそらく小学生)の三人。両親は英語はさっぱりだか、娘は英語が少ししゃべれる。娘を介して親と話す。世界言語としての英語の威力はたいしたものだ。たとえ針の穴を通して覗くような互いの語学力だが、それでも何とか意志の疎通はできる。

ハンガリー 

○ウィーンからハンガリーへ
見渡す限りの大平原。ここで生まれて初めて、遥か彼方(20〜30km)に雷鳴を聞き、雷雲を見て、その中に列車が入って行き、そして雷雨を通り抜けるという経験をした。また途中に見渡す限りのヒマワリ畑、ソフィア・ローレンが主演した「ひまわり」という悲しい映画があったがまさにそのようなヒマワリ畑。
○西欧と東欧の国境
オーストリアとハンガリーの行き来はわりと自由で簡単なようだ。ハンガリーの若いカップルも西側の大きな電気製品をウィーンで買い込んで帰っていた。
○ブタペスト
ハンガリーの首都ブタペストについたのは真夜中(21時30分)で店も閉まっており右も左も分からない。ユースホステルをさがしてうろうろした。そしていろいろな人に家を尋ねた。人々はとても親切であった。結局ユースは閉まっていて、そこに泊まりそこねたドイツの高校生(彼らは18才)二人とユースから3km離れたStudent hotelに泊まった。このときも親切な通行人が案内してくれた。感謝。
 ホテルといっても民間人が外貨稼ぎの内職にアパートを開放しているらしい。
○ブタペストの町
平原の中にダラーと広がった町。それでも町の中心部は相当密度が高い。石造りのがっちりした構えの家が続く。またStreet carとかBussがよく発達していて安い。町は西欧のように綺麗で整った感じではなく、どこかいかつく、ゴミゴミしている。ネオンサインや広告もかなり在る。ソ連よりも自由があるというよりは、社会主義の統制というか締め付けがここまでくるとだらけてくるといった感じ。
○ハンガリーの女性はとても美人だ。
道行く人の半分以上が美人だと思えばよい。イタリアやオーストリアも美人が多い。(ドイツ、スイスでは美人にあまり合わなかった。)道行く人々のの服装もモスクワよりずっとバリエーションに富んでいる。又店のショーウィンドウの中身も豊富だ。公園もでっかく緑も多いが、しかしウィーンや他の西欧諸国のようによく手入れさてれいるとはいえない。何事についてもこざっぱりという感じからはほど遠くゴミゴミと薄汚れている。
○東欧の農業について
ハンガリーは、はてしない平原が続きずっと農業地帯だ。その規模はとても大きい。しかしソ連や他の東欧諸国と同様に野放図で、とてもおおざっぱ。いままで見た中ではオーストリアの農村の畑がもっとも美しく丹念に手入れされていた。見ているだけで美しい。しかし規模は小さい。次にきちんとしているのがスイスとドイツだ。
○ブタペストの駅にて
これが首都の主要駅かと思うぐらい地味で田舎臭い。駅のExchange officeの非能率なこと、まさに社会主義国だ。薄暗い駅の切符売り場のうさんくささ。彼らはとてもドルを欲しがる。
○ハンガリーの鉄道
ブタペストからユーゴスラビアのベオグラードまで乗った汽車の汚かったこと。(2等車だったからかもしれないが。)鉄道の職員がまた怠惰でいい加減な感じ。驚いたのは7:30発の列車がいつまでたっても発車しない。なぜかというとホームで車輪のブレーキシューを取り替えているのだ。その悠長さ、また、その取り替えられたブレーキシューのちび方のひどいこと。日本では考えられない。

ユーゴースラビア

○ベオグラードの駅
首都の駅といってもとてもいいかげんな駅で、人がいつもたむろしている。みんなゆったりと動いており、ラジオから流れる音楽もどことなくアラビア風でアジアに近づいた事を感じさせる。
○ベオグラードの町
ネオンサイン、広告、ショウウィンドウ、etc...西欧の町と変わらない。ただ社会主義国家とはいえ貧富の差はとてもひどいようだ。貧乏人は旅行するにしても仕事着そのままといった着古した着物を着てボロボロのリュックを大事そうに持って旅行している。
 その後ユーゴースラビアは1989年9月27日のスロベニアの連邦離脱に始まる分裂・離散を繰り返し、民族間の虐殺と報復、戦争と破壊の続く散り散りに分裂した悲劇の国家になっていく。

ギリシャ

○ギリシャの風土
ユーゴスラビアからギリシャに入ると荒れはてた山野が続くようになる。緑が少なく、生産性は低い。土地が乾燥している。
○ギリシャ、アテネのプサカ地区
ここの安宿にはいろんな国のいろんな奴がいる。ガーナとかアラブから兵役をのがれて避難してきている金持ちのドラ息子。毎晩遊びほうけている。何年も世界中を放浪している台湾人(彼は29歳で日、仏、英、中国語がペラペラ)その経験からか、若いのにとても老成した考えを持っている。インドに8ケ月いていまギリシャについたマレーシア人、世界を放浪していて5年間日本に帰っていない日本人。ここはアジア、アフリカ、ヨーロッパの一つの接点でいかにも一癖ありそうな奴が増えてきた。
○ディスカウントチケット
ギリシャでカルカッタから日本までのディスカウント航空券(オープンチケット)を買う。(なぜか、ここで買うのがいちばん安いという。)
○準備
いよいよアジアに入るのでアジアの地図と、マラリアの予防薬。そして虫よけのDDTを買う。先進国ではとっくに製造中止になった薬なのになぜか在る。
○ギリシャやトルコの料理
ナスビやトマトをつかった料理が多い。とてもおいしい。ギリシャ、トルコでは調理場に入って料理の品定めをして注文して良い。
○国の通貨
ハンガリーとかユーゴーとかギリシャといった国(ソ連もそうだ)の金はその国をでると価値が半減する。他の国でそれらの国の貨幣をドルに再両替するのはきわめて困難。
○アテネから船でミコノス島にいく。
ミコノスのパラダイスビーチ。船でいちばん端のスーパーパラダイスビーチまで行くとみんな素っ裸で泳いだり日光浴。みんな砂浜で野宿している。
○韓国の青年
ミコノスからトルコ(IZMIR)に行く船で韓国の青年と友達になった。とっても真面目そうな人。韓国と日本の過去を意識すると緊張する。船が揺れて船酔いに苦しむ。

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トルコ

○トルコの田舎
トルコの海岸地帯はわりと緑が多くオリーブの畑や潅木の林があるが、ほとんどが荒れ果てた野と丘である。トルコの遺跡巡りにはミニバスが便利。
○トルコの遺跡
トルコにはギリシャローマ時代の遺跡が多く残っている。それも限りなく広い荒野の中や丘の上に、訪れる人もなく、荒れ果てるままに存在している。その遺跡としての趣は、まさにこれが遺跡だと思わせる。またその規模もきわめて大きい。エフェスの遺跡は圧巻。
○トルコ人について
トルコ人はギリシャ人と同じく背はあまり高く無いが、顔つきはギリシャ(P.S.ギリシャの女性はとても美人)、イタリア人に比較して角張っており、眉、髭が濃く、黒い瞳に黒髪である。
○トルコのバス
設備が良くてきわめて安い。EMIRからBERGAMAまで所要時間2時間半が10トルコリラ(200円)長距離便が良く発達している。トルコには鉄道を引くほど金が無い。また大量輸送の必要が生じたのがモータリゼーション革命の後だった。だから中小のバス会社が乱立し、運動場位の広さのバスターミナル(百台近くのバスが入り乱れている。)では客引き、値引き合戦だ。この喧噪こそまさしくアジアだ。出発まぎわまで粘ると料金が段々安くなる。
○トロヤ(Truva)ギリシャ名(Troy)
ハインリッヒ・シュリーマン(1822年生)41才で実業界から身を引き1871年ホメロスの叙事詩イーリアスに歌われたトロイの実在を証明した。それはヒッサリックの丘に存在した。現在のトロイの周りは平原と丘陵が広がり見渡す限り畑と荒れ地です。実際トロイの城跡は荒野の畑の中に盛り上がった割と小さな丘で、発掘が繰り返されたため、現在は瓦礫の山といった感じ。現在は訪れる観光客もほとんどおらず、近くに小さな部落があるのみ。これこそが遺跡という感じ。ただし城壁の上に立てば遥か彼方にギリシャ軍が陣を張った海岸線が見える。その下で英雄アキレス、ヘクトールが戦ったという城壁の上に立ち感無量。
○イスタンブール
この都市はカルカッタ(インド)についでものすごい町だ。喧噪と活気に満ちている。アジアとヨーロッパ、イスラム教とキリスト教の接点。いよいよここからがアジアだ。我々日本人は“アジア”という言葉に何の感慨も無いが、ヨーロッパ人や我々のようにヨーロッパからアジアに今から入ろうとするものにとってなんとエキゾチックな響きをもつ言葉だろう。
○イスタンブールのユースホステル
ここはアジアとヨーロッパとアフリカの接点。ここには三つの大陸からの放浪者が集まってくる。そしてまた各大陸に出発する。ユースホステルとしては最も面白いところ。ただしそこは夏のヨーロッパを放浪する西洋の学生の行動範囲の最東端で、多くの者がここから西へ引き返す。私がこれからアジアに入ることを知ると、彼らは、えも言えぬ羨ましそうな顔をして憧憬の眼差しで私を見る。かれらが憧れるアジア、それこそが“アジア”なのだ。

 

以下いよいよアジアに入いる。

 

○トルコと日本人
トルコでは日本人はひどくものめずらしがられる。日本人と知ると、ワッと寄ってくる感じ。それというのも建国の父ケマル・パジャ(ケマル・アタチュルクとも言う)が大変な親日家だった。トルコとロシヤは犬猿の仲。日露戦争で日本はその憎きロシヤをやっつけたと言うわけだ。
○トルコの露天
トルコではひまわりの種やいろんな種子を沢山たべた。町の路上で山にして売ている。
○トルコにおけるケマル・アタチュルク
いたるところに肖像画や写真が飾ってある。まさにソ連に於けるレーニン、中国に於ける毛沢東、ベトナムにおけるホーチミンだ。
○トルコの水
トルコでは生水が飲めない。瓶詰の水(スーと言う)を1本(コーラの瓶くらい)を5円から10円で売っているのを買って飲む。
○アンカラ
低いが果てしなくつらなる山地の真ん中の丘陵地帯に広がった人口的につくられた町。遥か彼方から見えてきて、荒野に突然出現したといった感じの町。郊外には山肌にへばり付くようにして庶民の住宅が密集して広がる。
○アンカラからエルズルム
キプロス出身者の兵士と仲良くなった。トルコ語はまるでだめ。バスガイドのあんちゃんが片言のドイツ語で通訳してくれた。(彼は西ドイツに出稼ぎにいったことがある。)それによると兵士は兵役を終えて旅行しているらしい。バスストップに着くと彼は色々買ってきては、食べろと勧めてくれる。
○トルコの内陸部
乾燥した山また山で、山には緑はほとんど無い。日本の感覚で考えると信じ難い。トルコの山岳地帯は木の一本も無い赤茶けた山が重々と連なっている。
○エルズラム
標高1950mのところにある町。交通の要所で軍隊が駐屯(トルコでは到るところに駐屯地がある)。いまだにトルコは軍事国家。ここらあたりの風景はまことにすばらしい。どこまでもどこまでも乾燥した高原と、丘陵が続き空気はすみきっている。そして数十kmごとに人の住んでいる部落が現れ、数百kmにつき突然広がった町が乾燥した平原の中に現れる。丘陵の起伏も変化に富み飽きることがない。
○チャド
トルコの内陸部に入ると女性はチャドをしており決して素顔を見せない。見知らぬ部外者に対しては極めて排他的。
○エルズラムからドゴバヤジ
エルズラムよりさらに西の方は道も舗装されておらずアンカラ、エルズラム間より更に荒廃し、山々はさらに険しく、ますます乾燥し、さらなる高地へと道は続く。山はさらに不毛になり赤茶けた地肌がむき出しになっている。ちょうど満月の夜で、月光に照らされた重々たる山岳地帯(ここらあたりは高度1500〜2000m)は幻想的だった。2回バスがパンクしてドゴバヤジに着いたのは真夜中。空気は透明になり、夜はシンシン冷え込む。
○トルコの安宿
汚くてほこりっぽい。内陸部に入ると水がなく、町の通りや、安宿の裏庭は糞や尿をへり散らかして、足の踏み場もない。汚くて不潔なことおびただしい。いよいよ肝炎に気を付けないといけない土地に入って行く。
○アララット山
ドゴバヤジから遥かなる砂漠の彼方にそびえているのが見える。聖書のノアの箱船が漂着した山。(旧約聖書創世記第八章)5165mの高さで万年雪を戴いている。(写真はイラン国境から見たアララット山)
 この時期の9月6日に、トルコ東部のジャルバキル州を中心にマグニチュード6.5の地震(死者約3000人)が起こる。
 また、9月7日にはトリポリ市内でのキリスト教徒とイスラム教徒の戦闘をきっかけに、レバノンは内戦状態に入る。その後シリアが軍事介入し、30年間にわたるシリア軍の駐留が始まる。レバノンはイスラエルとシリアとの三角関係の中で戦闘と内乱の続く悲劇の国家になっていく。
 この時期消息の途絶えた私のことを日本の両親はずいぶん心配したようだ。

イラン

○イラン国境
アララット山のふもとの荒野の中にイランとの国境がある。そこでお土産にアラビア音楽のカセットをかってイランへ入る。
○テヘランの高校生
国境の町マクからタブリッまで一緒だった高校生。イランでは高等学校までいく青年はある種のエリートだ。ちょうど日本では明治時代の学生がそうであったように。彼らは非常に社交的で積極的で大人にもずんずん交わって行き、とても聡明だ。また大人より語学力にたけている。一般の大人達は荒涼たる砂漠で羊やラクダを追ったり、数十kmごとにポッポッ点在する町で労働者として働くかで、知的水準は高くない。
○イランという国
イランに入るとさすが石油の国。トルコとはうって代わって道路が良くなる。砂漠の中をまっすぐい立派な道路が走っている。また近代化の波が押し寄せておりテヘラン郊外には種々の工場が立ち並んでいる。交通渋滞、公害、スモッグ、物価高が始まっている。これらは現国王のパーレビの主導による近代化の結果である。
 諸君も知っているようにこの後パーレビ国王はイスラム革命により追放(1979年1月)されて、王政は崩壊する。旅行中も貧乏旅行仲間からパーレビの圧政の話はよく聞いた。パーレビの先は長くないと予想するものもいた。ただ私のように短い滞在では本当のところは見えなかった。そう言われても信じられなかった。しかし長期滞在者には見えたのだろう。本当にそうなってしまったのだから。
 しかし新たに誕生したイスラム国家は人民にとってさらに最悪の国家だった。まさに鞭と鎖と密告の社会になってしまった。
○車の交通マナー
イラン(香港もそう)では車の交通マナーが極めて悪い。歩行者は歩行者で信号機などはどんどん無視して道路を渡る。極めて危なっかしい。イランでは何でも相乗り。タクシーも相乗り。客を乗せたタクシーの運ちゃんが行き先をわめきながらゆっくり流している。それを聞いて同じ方面へ行く客が手を上げると定員いっぱいまで乗せてその方面へ走り出す。私もアフガニスタンのビザを取りに行くとき利用した。
○on the roof
テヘランでは宿の屋上に泊まった。on the roofといって一泊200円くらいで一番安い。屋上にベットをならべただけだが、雨が降らない砂漠の国の事、外気に触れて星を眺めながら眠るのはとても気持ちがよい。ただ昼間は暑くて居られたものではない。朝起きて見ると周りの屋根が白いので一瞬霜か、雪が降ったのかと錯覚したが、それらはみんな砂埃が積もったものだった。
○回教について
9月に断食月(ラマダン)この間は太陽が昇っている間は水以外口にできない。なんとも理不尽な戒律だ。
 
バクシーシ富めるものから貧しいものへの施しの習慣
 
1日5回メッカの方を向いてアラーに祈る。
 この祈りは、イランの都市部では形骸化している。しかし田舎のほうでは真面目にしているらしい。私がとくに深い感銘を受けたのはアフガニスタンである。アフガニスタンこそ文明から取り残された現代のエアーポケットのような国であるが、砂漠の真ん中、谷沿いの街道に沿った林のそば、あるいはバスストップの田舎の茶店などで、この祈りをしばしば目撃した。とくに乗合バスで砂漠の真ん中を移動中に突然バスを止めて皆が砂漠の真ん中に並んでする祈り、また、夕闇迫る山岳地帯の荒野の中で捧げる祈りの姿は門外漢の我々貧乏旅行の傍観者にも心に迫るものがあった。
 
 なぜ彼らがこのような理不尽な習慣をかたくなに守っているのかは、砂漠や乾燥した山々の連なる不毛の荒野を旅して見て初めて分かる。彼らには祈る以外に何も無いのだ。何もない過酷で単調な自然の中で毎日を生きて行くには、絶対服従、絶対帰依の神アラーに自分の身も心も捧げて、自分の生活を律して行く以外にすべはない。だから回教が中近東を中心にした砂漠の民の中に根付いたのだ。 これは緑したたる大河のほとりに芽生えた仏教と根本的に異なるところである。仏教は悟りの境地という非常な高邁な精神状態に達することを目指すとても深遠な宗教なのだ。砂漠の世界ではそのような複雑な宗教は難しい。
○アジアに入ってから下痢を繰り返す。
とくにイランでの下痢はひどく4日間下りぱなしでフラフラになった。これ以後アフガニスタン、パキスタン、インドでは下痢と便秘の繰り返し。100錠近く持っていた正露丸はまたたくまに底をついた。こんなことならもっと大きな大瓶で持って来るべきだった。
 日本をでる時は60kg以上在った体重がイランでの下痢で55kgぐらいになった。インドをでるときカルカッタの空港の荷物用の秤ではかったらちょうど50kgだった。アジアにはいって10kg以上痩せたことになる。胃腸が丈夫でないとアジアの旅は勤まらない。
○Chero Kabab(イランの代表的な食べ物)
米(細長くぱさぱさしている。)+羊肉の串焼き+生の玉ねぎ+ヌン(イーストを用いないパン)+バター+(生卵の黄身) 米にバターはなかなか合う。生の玉ねぎをかじりながら食べるとなかなかおっな味。

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アフガニスタン

○アフガニスタンのヘラート(人口10万人)
アフガニスタンは夢を見ているような国だ。ちょうど日本に於ける中世の平安時代の町がこんな感じで在ったあろうと想像されるような町並だ。まさに文明から取り残され、時間が止まった国。ヘラートはシルクロードの要所だが、1221年と1224年の二度にわたり蒙古軍により住民が皆殺しにされた。
○含みタバコ
アフガニスタン人は含みタバコをやる。ほとんどの男は小さなカンを持っており、その中の粉末状のタバコ(ちょうど日本の抹茶に似ている。)をひとつまみ手のひらの上に出して舌の下に入れて数分口の中に含んでおく。そして吐き出す。とにかく彼らは所かまわず唾を吐く。緑色の唾を。オーストラリアの高校生二人と茶店で試す。1分位で頭がクラクラしてきて5分もすれば足腰が立たなくなるほど強い。その高校生は、同じ貧乏旅行仲間だが、なかなかしっかりしていて肝が据わっている。彼らは毎晩夜になるとハッシッシ(大麻)をやりに出かけている。
○ハッシッシ
 回教国では酒が飲めない。そのかわりがハッシッシ。ちょうど我々がお酒を飲んで酔っぱらうのと同じ事のようだ。しかし建前上アメリカなどの先進国の圧力で禁止。しかし一般人にはまるで関係無い。アフガニスタンでは簡単に手にはいる。旅行者とみるとすぐすり寄ってきて売りつける輩に事欠かないから。純度の高い物は樹液を固めた褐色をした塊。純度の低い物には葉や茎が混ざっていてガンジャという。火であぶって柔らかくして揉んでぼろぼろの鼻糞状にしてきざみタバコに混ぜて、紙に巻いたりパイプに詰めて吸う。吸うと聴覚が鋭くなって音楽などをかけると、音楽のイメージが増幅されて夢の世界に遊べるという。
 
 とくにアフガニスタンでは安く大量に手にはいるからこれを西側世界に持ち出して一儲けしようとする旅行者は後を絶たず、アフガニスタンとイランの国境事務所にはこういう所も調べるんだぞと車のシートの中、シャーシの中、パイプフレームザックのパイプの中など密輸摘発証拠写真を沢山ならべて見せしめに掲示してある。貧乏旅行していると「先日何国人のだれそれが何kg持っているのを見つかって何年(持っていた量で刑期の日数が決まる)監獄にぶち込まれることになった。」といったたぐいの噂話はよく聞いた。
 
 インドやネパールではいろいろな薬草、茸の類で色々な幻覚作用を起こすものがあるらしく、そんな話にとても詳しい日本人にカルカッタのサルベーションアーミーで出会った。彼はそういったたぐいの茸を求めてネパールをさまよい歩いていているらしく、幻覚作用についていろいろ講釈してくれた。
○ヘラートの警察署にて
 カブールへ行くのに北回りで行こうと思いロードパーミッション(通行許可証)を取りに警察に行った。北回りはヒンズクシーの大山脈の中を通らねばならず、ランドクルーザーのような四輪駆動の自動車でないととても通り抜けられない道で、軍事上の理由がどうか知らないがとにかく許可証がいる。
 
 ところでその警察だが、まるで西部劇にでて来るような土壁に囲まれた砦の中にある。オフィスの係官はかなり学があるらしく聡明な顔をした偉丈夫だったが、その帰りに中庭で繰り広げられている警察官の訓練風景を見て笑ってしまった。服も靴も埃にまみれてヨレヨレ。隊列を組んでの行進がまともにできない。手と足がまるであわない。ちょうど幼稚園生徒がやるように手と足が一緒に出る。号令もまるで合わない。しかしみんな必死で、真剣な顔をしてに真面目にやっていてそうなのである。
 
 1973年の革命直前には文盲率90%以上、国会議員の半数が文字が読めなかったというから無理もない。それこそアフガニスタンなのだ。
○アフガニスタンの風土
平均高度2700m。冬の寒さは厳しい。昼夜の温度差は激しい。全体に乾燥しており、風が吹けばすぐ砂嵐。北部はヒマラヤにつらなるヒンズクシーの大山脈。全体的に砂漠と荒涼とした岩山ばかりで山の谷間の小川(水源は雪解け水)にそったわずかばかりの平地に緑の林や畑がある程度。そこは荒野の中のオアシスといった感じで、わずかばかりの農業が営まれている。
○南ルート
北回りのバスを捜しているとカンダハール経由の南回りカブール直行便に出くわしたので急きょ変更してバスに乗り込む。アフガニスタンの南回りの幹線道路は舗装が行き届いてとても良い。(ソ連とアメリカの援助による。ここは社会主義、資本主義の中央アジア戦略上の隠れたる要所で双方が援助合戦している。) 砂漠と岩山だけの何もない荒野の中を100km/h以上のスピードで特急バスは走る。驚くべきことに一日で千km以上走った。
○チャイハナ(喫茶店)
ちょうど江戸時代の茶店にあるような縁台に布がかぶせてあり、その上に腰掛けたりあぐらをかいて、世間話をしながらお茶(紅茶)を飲んでいる。土壁の部屋の土間に絨毯を敷いただけの茶屋もある。村の社交場だ。
○アフガニスタンの果物
甘くておいしい。そして安い。とくにその葡萄はミズミズしくてはじけるようだ。そしてその甘いこと。食べた後、手がベトベトして糖分が析出してくるようだ。水の少ない乾燥した土地の果物ほど糖度が高いようだ。
○アフガニスタンの水
アガニスタンに限らず、一般に乾燥地帯の水は良くない。生水を飲むと下痢をおこし、肝炎になる。だからアフガニスタン、パキスタンでは紅茶(チャイ)ばかり飲んでいた。トルコでは瓶詰めの水(スーと言う)を飲んだ。
○カブール
その旧市街の汚いこと。裏通りの道ばたはいたるところ糞と小便だらけ、そして皆所かまわず唾を吐き捨てる。人間ばかりではない。羊、山羊、ラクダも所かまわずやる。それらがやがて乾燥して踏み散らかされ、風が吹くとモウモウと舞い上がる。古来遊牧で移動しながら暮らしてきた彼らには便所という概念が無いようだ。テントのまわりが、糞(くそ)だらけになるころには他の場所へ移動していくのだから。
○チャドリ(女性について)
 アフガニスタンでは成人した女性に外で出会うことは滅多にない。出会ってもチャドリで顔を完全に隠している。イランでは布を頭からかむっただけだか、トルコ奥地のチャドリは目のところだけあいた完全な覆面型。さらにアフガニスタンでは、唯一開いている目のところにも、御丁寧に蚊帳のような網が縫いつけてあり目元も完全に見えない。近代化が遅れているところほど隠し方も徹底している。
 アフガニスタンのカブールで中学生くらいの女の子の一団が素顔(ペルシャ的で、皆とても美人)で歩いているのに出会って、衝撃をうけた。中近東に入って以来素顔の若い女性を見たのは久しぶりだった。
 後でわかったことだがこの時期が1973年のクーデターにより王政が倒れて共産圏よりの政権がアフガニスタンに成立していてほんの一時期開放政策が行われ例外的に女性の解放が進みつつあった。ところがその後、親ソ連派と反対派のクーデター、暗殺が繰り返され1979年のソ連軍の軍事介入を招き今日に至るアフガニスタンの悲劇が始まる。
○バーミアン
 ヒンズクシー山脈のど真ん中に位置し、1〜6世紀に仏教の中心地として栄、当時は数千人の僧が住んでいたそうだ。だが現在はみる影もない。ただ往時を偲ばせる大石仏像と岸壁の穴居跡がのこっている。大石仏像の高さは53m、小さい方が高さ35m。どちらもイスラム教徒に顔面を削り取られている。(この石仏は2001年タリバンにより見る影もなく徹底的に破壊された。)ここでジンギスカンの孫が戦死したため、1221年蒙古軍により生きとし生けるものは皆殺しにされた。アフガニスタンには蒙古軍に皆殺しにされた町が沢山ある。
 
 バーミアンの谷は美しい。ポプラと樅の林が青い渓流にその影を映し、素晴らしい。私が訪れたときは、ちょうど木々が黄色く色づき始めた中秋の頃で、空気は冷たく澄んでおり、斜光が赤い岩肌を赤く染め、黄、青、朱のコントラストが夢のような美しさ見せた。(写真は大石仏の方から見たパーミアンの谷
2010年追記 最近ではGoogleEarthによりバーミアンの詳細を鳥観することができる。上の写真と同じ位置・同じアングルで現在の状況を見ると、見渡す限りの建物や林は破壊し尽くされており不毛の荒野が広がっている。
○バーミアンの安宿で
 安宿の夕食の後、ほの暗いガソリンランプが照らす食堂(といってもテーブルと椅子を並べた薄暗い土間)の隅で、宿の主人と、その友人らしい人が歌いだした。その時客はほとんどいなく(私と他に数名の貧乏旅行者がいるだけだった)、彼らは自分達の楽しみの為に楽器(シタールに似た楽器)をかき鳴らし鼓に打ち興じて、自ら陶酔しているようであった。それはとても印象的な光景であった。
 アフガン音楽はアフガンで、インド音楽はインドでこそ最も素晴らしい。
○バンディアミール
ヒンズクシー山脈の山奥深く真っ青な水をたたえる神秘の湖。いいかげん山奥のバーミアンから、さらにトラックに揺られて山道を3時間走ると突然見えてくる。
○アフガニスタンのバス、トラック
 バンディアミールを午後3時ごろトラックで出発したが、700mもいかない内にエンスト。そこでどうするか見ていたら悠長にコンタクトブレーカーやディストリビューターを分解しはじめた。そして1時間ほどでやっとなおって4時に出発。バーミアンに着いたのは7時頃だ。
 
 一つのエピソードを紹介しよう。10月1日に日本人(彼は東京商船大学の学生)がバンディアミールから帰るときに乗った中型トラック(トラックはほとんどソ連製らしい)の左の後輪がコロンと外れたそうだ。そしてガガーとシャフトが地面を擦って止まったそうだ。あまりにバカバカしい事故に同乗の外国人一同、怒る気にもならなかったそうである。
 
実際彼らはトラックに絵や模様を描き、飾りを付けてゴテゴテに飾りつけるが、車は壊れるまで整備することはない。
 
 現地人が乗るバスはひどい物だ。トラックに屋根を付けただけだと考えればよい。窓は閉まらず、座席は板張同然のベンチで、砂ぼこりはすごい。その上身動きできないほど人が乗る。屋根もボンネツトの上も人と荷物で鈴なりだ。バスが運ぶ荷物も鶏、牛の毛皮、穀物と手当り次第何でも。それがモウモウと砂埃を立てて砂漠や山岳地帯の悪路を行く様子を想像して欲しい。アフガン人はそんなバスでも悠々と乗っている。行きにミニバスで6時間だったカブール=バーミアン間が帰りは現地バスで11時間かかった。体力が無いと乗れないのがアジアのバス。(写真はバーミアンからカブールへ向かう現地バス。)

2008年8月31日追記

 今日、アフガニスタン情勢は最悪です。別稿「アフガニスタンと中東情勢」を記す。高校生諸君はぜひ本質を見抜く見識を持って欲しい。

パキスタン

○アフガニスタンからパキスタンへ
 カイバール峠を通ってパキスタンへ入る。カイバール峠は思った程の難所ではない。むしろその手前にすごいところがある。落差百メートルを越える屏風のような断崖絶壁の中程の道を下るのだ。落ちたら一巻の終わり。
 
 ヒンズクシーの南麓を横切ってペシャワール盆地に入ればそこはインダス河上流の全くインド世界で緑一色の農耕社会。人間が実に多い。国境を越えた当りから増え始め、谷に下れば下る程人間が多くなる。人が疎らにしかいないアフガニスタンの砂漠地帯とは好対照。
○パキスタンの市内バス
もともとはちゃんとしたバスだろうが、市内を走っているバスはどれもドアは取れて無くなっており、窓ガラスも無い。床も穴だらけで中から下の地面が見えるのには感動した。これからインドを出るまで、都市のバスはだいたいこのようであった。
○下痢
パキスタンではペシャワール、ラホールにいる間じゅう腹ぐわいが悪く下痢。人混みにあてられ、パキスタンにはあまり良い印象が無かった。
○パキスタン、インドの国境(ワガ)
パキスタンとインドは犬猿の仲。印パ紛争(1971年秋、S.46)以来国境には緩衝地帯が在ってそこは車が通過できない。だから国境を越えて荷物を運ぶ場合は、人夫の担ぎ屋によって運ばれる。そういった担ぎ屋が何百人も列を成して荷物を運んでいる。不経済この上もない。
2002年のアフガン戦争をきっかけにカシミールを巡るパキスタンとインドの確執は近年ひどくなる一方である。

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インド

○インドの風土
インドの西北部の町アムリッツに入ったのは10月10日だったが、とにかく暑かった。日中の外の気温は40℃近くになるのではないだろうか。とにかくフライパンの上であぶられるみたいだ。ただアムリッツあたりは高度も高く湿度が低いので部屋の中にいればしのぎ安い。
○ゴールデンテンプル
アムリッツにあるシーク教の総本山で黄金色に輝いている。シーク教はきちんと巻いたターバンですぐに見分けがつく。商人が多く、生活、知的水準が高いものが多く、インドではかなりいい位置を占めている。
このお寺は後にシーク教徒の反乱(1984年)時、政府軍により徹底的に破壊された。そして、このことに関連してインディラ・ガンジー首相が暗殺され、ラジブ・ガンジー首相暗殺未遂事件が起こる。後にラジブはテロリスト少女の自爆テロで暗殺(1991年)される。
○中近東、アジアでかかる病気
アジアではコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、マラリアなどの恐い病気が在るが、これらは予防注射を射っておけば、抗生物質の良いものがあるから心配ない。それよりもっと恐いのは肝炎である。こいつばかりは防ぎようがなく、長期滞在者はほぼ確実にやられる。生水は絶対に気をつける。
 
とくに雨期のアジア旅行には、抗生物質、防虫剤、マラリア予防薬は必携のようだ。
○インドの水
インドは不潔な所の代名詞のように言われているがインドの水は良い。生水を飲んでも大丈夫のようだ。やはり水量が豊富なところの水はきれいなようだ。
○入浴について
インド人は水浴びが好きで、公園や駅の水場、河のほとりで、水浴しているのを良く見かける。そして彼らの体は予想外に清潔だ。水が豊富なので貧乏人でもよく水浴して、肌はつるつる光っている。彼らの着ている褐色のシャツも近くでみれば良く洗濯されたこざっぱりしたものである。
 
それにひきかえアフガニスタン人や、トルコの山岳地帯の住民には入浴の習慣がないので、垢まみれ、埃まみれである。イランのように近代化が進んだ国では、砂漠の国でありながら清潔。
○インドの鈍行列車
朝NewDelhiを発って200km離れたAgarへ汽車で入った。その鈍行の遅いこと亀のごとし。各駅停車はいたしかたないが、5っめごとくらいに20分から30分近く止まって動かない。たった200kmに8時間40分かかった。ただ鈍行はとても空いている。また無賃乗車が自由自在と言う感じ。途中の風景も、澄んだ青空のもとに田園地帯がどこまでも広がり、とてものどかであった。ただ現実には大地主のもとに小作農が苦しい生活を営んでいるらしい。実際鈍行の2等に乗っているインド人にはろくな服装をしたのがいない。
○Delhiの観光バス
多分世界で最も安い観光バスのひとつ。バスとしてはわりあいまともで、インド人のお登りさんと一緒に観光地巡りをした。
○インドのスリ
インドにはスリや詐欺師が沢山いてうんざりする。10月14日の午後New-DelhiのIndianaの近くで30ドル入りの財布をすられた。この旅行中どこかで財布をすられるのは覚悟していたからサイフの中には現地の金以外はいれないようにしていたのだが、たまたま我々(このとき東京商船大生と一緒に旅していた。)がDelhiに入った時インド最大の祭りであった。最大の祭りと言っても日本のようにいろいろな催しがあるわけではなくて、せいぜい祭りの最後の日にラケリラ・グランドで火薬を仕込んだ大きな魔王の張り子に火がつけられるくらいが主な見ものだ。ただその祭りにくりだす人間の数の多さには驚いた。何十万人という人間がウロウロ、ゾロゾロ繰り出して移動している。その有様はすごい。インドなんて何の楽しみもないからこんな祭りでもみんなウキウキするらしい。祭りのため三日間銀行が休みでインドルピーの持ち合わせがなくなり、運悪くその日ブラックマーケットで両替しようとして財布にいれていてすられた。登山シャツの胸ポケットに入れていたのを新聞売りのスリに目を付けられたらしい。後で考えるといつすられたかはハッキリわかるが、すられたときは全く気がつかなかった。
 
インドで合った貧乏旅行者の誰に聞いても必ず一度はスリ、泥棒、サギのいずれかの被害に遭っていた。
○インドの映画
アフガンのヘラートでも見たし、カルカッタでは良くみた。生産量は世界第2位である。その恋愛シーンの異様さ、暴力シーンの濫用、多様さ、に特徴がある。歌と踊りとアクションの混ざった恋愛映画が多い。映画館は座席指定。
○インドの急行列車(expressの2等)
 大陸横断特急は意外と時間に正確。それというのも主要な駅では30分から1時間くらい停車するから。その間に皆ホームに降りて顔を洗ったり、食事をしたりする。プラットホームにはそのための物売りが沢山たむろしていて食べ物には事欠かない。また駅はいわゆるプラットホーム生活者(乞食より少しまし)の生活の場。また汽車の停車中は乞食が物乞いに沢山乗り込んでくる。物乞いの様式も様々。中には歌を歌ったり、演説したり。涙を流し真に迫った表情で何かを訴えてものを乞うものもいる。
 
 ローカル線の鈍行列車と違って、その混みようはものすごい。気違いじみた混みようだ。座席は板張りで蚕棚のような寝台車形式。通路、蚕棚、座席、床、所かまわず、鈴なりになって場所取りをする。また車中の汚いこと。インド人は食べ物のかすを所かまわず捨てる。ゴミ箱に捨てるという習慣が無い。我々貧乏旅行者は物が盗まれるのが恐いので席を立っのもままならない。通路に置いたリュックサックの上に座り込んで一昼夜そのままと言う感じ。アフガニスタンのバスより体力を消耗する。
○タジマハール
たしかに美しい。白い大理石が青い空と緑の芝生に良く映えてみごとだが、建築に要した金は漠大なものだろう。タジマハールやアグラフォートはインド人にとっても観光名所らしく沢山のインド人が観光に来ていた。アグラは緑の多いゆったりとした落ちついた町だ。
○アグラの銀行でパスポートをすられる。
それは町の小さな銀行でドルをルピーに両替して書類を仕舞う為にちょっと左脇に挟んだ、ほんのわずかのスキにすられた。いつすられたのか全く気が付かなかった。
 
スリにとってインド人のなかに混じって行動する貧乏旅行者は恰好のカモである。我々には彼らが見えず、彼らは一般の善意あるインド人に混じって近づくことができるから。 この点、冷房のきいた観光バスや航空機で移動し、高級ホテルに泊まる大名旅行者は、そのズボラさに関わらず安全である。彼らとインド人はあまりにも異質だから。
 
インドでは汽車やバスでは決して自分の荷物から目を離してはいけない。また銀行とか駅とかサイフやパスポートを出す場所では特に注意すること。こう言った場所には必ずスリがいる。(インドでは誰もが貧乏なのだから、悪い奴が目をつけるのは旅行者しかいない、貧乏旅行者とて彼らから見れば金持ち)宿屋も信用できない場合がある。必ず錠前を持ち歩くこと。
 
だけどインド人の名誉の為に言っておくが、そんな悪い人はごく一部だと思う。親切な、好奇心あふれるインド人に沢山お世話になったのだから。
○インドの力車(現地語でもリキシャと言うらしい。)
アムリッツ、アグラ、カルカッタ...どこの駅に着いても、人力車の運ちゃんと宿屋の客引きが押し寄せてくる。(文字通り大勢でドッと押し寄せる。)彼ら同士で互いにののしりあって、ものすごい形相で客の奪い合いだ。
○インドのカレー
インドのカレーはサラリとしていて汁かけご飯のようだ。辛いことは辛いが、様々なスパイスの味がとても微妙に作用しあっていてハーモニイを奏でとてもおいしい。アグラの町の食堂(食堂といっても縦長の四畳半位の部屋でベンチと机だけ。)で食べたカレーの安くて旨かったこと。たしか3ルピー(100円くらい)。一般に庶民の食べるカレーの方が旨かった。高級料理店のカレーも食べたが、こちらは日本のカレーに近い味で高いだけだった。
○ヴァラナシ英語読みでベナレス(Bewares)
ヒンドゥ教の聖地。沐浴場がある。まさにインドだ。とにかく汚い。しかしカブールのオールドタウンやカルカッタの町並みの汚さとはまた違った汚さである。ベナレスの汚さとは、汚物を洗い流す水が豊富にあるが、それ故に所かまわずよごされた汚さなのだ。
 
道をはさんだ店の前の下水溝(と言うよりどぶ溝)で子供が糞や小便をしている。生活汚水を捨てる。食いかすを投げる。赤い血のような痰(かみタバコのせいで赤い)を吐く。手ばなをかむ。汚水のそばで物の煮炊きをして食い物を売る。路傍で行水はする。しゃがこみ、寝そべる。露天の散髪屋があり、そのそばには屋台の食堂があり、かみタバコや、紅茶を売ったり、飲んだりしている。
○インドのチャイ(紅茶)
インドのミルクティー(ミルクと砂糖のたっぷり入った紅茶。香料をいれたものもある。)は旨い。さすが紅茶の本場。1ポットが1ルピー(30円)くらいでたっぷり飲める。しかし茶を出すきゅうすやコップのきたないこと。ひび割れつぎはぎされ茶垢にまみれている。
○癩病(レプラ、ハンセン氏病)について
癩病には二種類あるようだ。
 
(1)手や足の先からロウか溶けるように溶けてなくなるやつ。傷口はツルとしている。
 
(2)文字通り手や足が腐るやつ。こちらは膿でぐずぐずになっており正視に耐えない。
 
我々は癩病患者の乞食に、にじり寄って近づいてこられると震えあがるが、インド人はレプラに関してはわりと鈍感。癩病患者の乞食も、施しを受けた金で食べ物を買って食べている。その金もまわりまわつて我々の所に来ると思えばあまりよい気はしない。
 
癩病患者はインドのいたる所で見かけたがベナレスが最も多かった。彼らも不治の病(本当は抗生物質の良いのがあって、ちゃんとした病院で金をかけさえすれば治る。)と思って、最後の神頼みと、巡礼者からの施しを期待して聖地へ集まるのだろう。ガンカ(沐浴場)へ通じる参道の両側には彼らが沢山ならんで物乞いをしている。
 ハンセン氏病は感染力は非常に弱く、現在では治療が開始されれば周囲に感染のおそれはなく在宅治療で治癒可能になった。1980年代に有効な治療法(MDT)が登場して以来、患者数は激減している。1980年当時全世界で600万人といわれた感染者も現在は数十万人の規模に縮小しており、完全に制圧されるのも間近であると言われている。
○ベナレスの沐浴場
ここは老いも、若きも、金持ちも、貧乏人も、もちろん癩病患者も沐浴して神に祈り、体を洗い、口をすすいでいる。実はこの沐浴場の上流と下流には死体の焼却場があって生焼きの遺体も最後はガンジス河に投げ込まれて大地に返される。私が訪れたときも死体を焼いていた。だから沐浴場の川底には生焼けの死体や骨が沢山沈んでいるはずだ。もちろん雨期の洪水期にはすべてあらい流されるが。
○ガンジス河の洪水について
ベナレスはガンジス河の屈曲点に発達した町で、河沿いの岸壁(高さ十数メートルの崖が連なる)の上に広がり、岸沿いに巡礼者のための旅籠がならんでいる。ボートで河に出て川面から岸壁を見上げると岸壁の石垣の上に線が何本も引かれていて、これこれは何年の洪水の時の増水時の水面と記してある。驚くなかれ、その線の位置たるや、現在の水面から遥か10メートル以上の頭上なのだ。
 
毎年その洪水によってあらゆる物をあらい流して、新しい年を始めるガンジス河はヒンズー教の聖地なのだ。だから鉄道でガンジス河を渡るとき、彼らは決って河に向かって礼拝する。
○インドの風土
7〜9月の雨期にインドを旅行したものの話によると、その時期のガンジス河流域はいたるところ洪水で水びたしだったそうだ。道路だけが水面に出ていると言った感じだったそうだ。それに比べると10月、11月の内陸部の秋は天気が良く空はどこまでも青く澄み渡り、旅行にはベスト。
○アジアの郵便事情
インド、ネパール、アフガニスタンの郵便局は信用できない。実際アフガニスタンから送った内のいくつかが日本に着いていなかった。またカルカッタの郵便局では釣銭をごまかされた。他の貧乏旅行者も、ほとんどの者が一度ならず同じ目にあっているらしい。
○カルカッタのデルタ地帯
カルカッタのデルタ地帯には大陸横断の急行夜行列車で入り朝カルカッタのHooray Stationに着いた。カルカッタに入る前の鉄道沿線は、見渡す限りの水田と湿地帯で朝もやがかかり、日の出前は水蒸気のためか、空は紫色に染まりとても荘厳である。そして朝もやのなかで、人々は活動を開始している。牛を追ったり、川べりで水をあびたり、洗い物をしたり。汽車の窓から見るそれらの光景は感動的でさえ在った。
○カルカッタの町
ハウラ橋付近の喧噪はものすごい。700万の人口に対して失業者は200万を越すといわれ、人口過剰、失業、貧困、犯罪、伝染病、暴力などが集まっており凄絶な都会を作り上げている。治安状態は極めて悪い。カルカッタは英国統治当時の英国風町並みが続くが、長い間まともな手入れもされておらず、どれも薄汚れており、汚くてゴミゴミしている。

ここではサルベーション・アーミー(救世軍の木賃宿、英国風のサービスをする野戦病院のような感じの宿)に身をよせる。ここは貧乏旅行者の吹き溜まりみたいな所で、ここの塀の中だけはインド人の世界と隔絶しておりここに帰るとホッとする。もちろん門を一歩出ると乞食、路上生活者のたむろする世界。
○カルカッタの風土
カルカッタに入ったのは10月21日だったが、とにかく暑かった。毎日午後には決まったようにスコールがあり、スコールが降るたびに下町は水浸しになる。煉瓦塀は苔むし、塀からのぞく樹木もジャングルの樹木だ。まさに湿度100%の蒸せかえるような緑の濃密な空気を呼吸しなければならない。ただしインドを発った11月22日頃は湿度もさがりしのぎやすく、ちょうど日本の9月下旬頃の気候になった。それがまたタイに行くと真夏の気候に逆戻りだ。
○椰子の実
路上で沢山売っている。買うと椰子の実売りはナタで削って果汁を飲み易く穴を開けてくれる。飲んだ後は二つに割って中の果肉を出してくれる。果肉はいかの刺身に似ていて、白くコリコリする。
○インドの車
インドの国内を走っているオートバイや自動車はほとんど国産である。そしていずれも日本なら昭和30年代を走っていたような型であり、日本の車(初期のセリカ)のように恰好のよい車は皆とても珍しがる。インドにはほとんど外国製品は入っていない。閉鎖的な経済。
○ナンダーラの仏教大学の遺跡
5km×11km の遺構内には赤煉瓦の大講堂、会議場、僧坊、教場、研究室、礼拝堂がみごとな配置をもって並んでいる。つまりかってのインドは世界最高の真理探求国だったのだ。インドに行けば、こうした大学が何十とあり真理をつかんで帰ることができる。そういった期待と憧憬が世界の学僧たちの心をゆさぶっていた。
○フッダガヤについて
のどかで、これこそが典型的なインドの農村といった感じだ。ベナレスと違って穏やかで瞑想的な自然の中の村。周りは水田と森が広がる。ガンジス河の支流の豊かな大河のほとり菩提樹の木の下で生まれた仏教は、以前述べた回教と本質的に成立ちが異なる。こういった環境だからこそ瞑想的で深遠な哲学的宗教が生まれたのだろう。悟りの境地などは、回教やヒンズー教の荒々しいドライで単純な教義の宗教では、計り知れない高度な内容なのだ。
 
ブダガヤにはネパール、ビルマ(今ではミャンマーと言うが)、タイ、セイロン、日本などの仏教寺院があるが、日本寺以外はどれもけばけばしく装飾され、ヒンズー教的なまなまなしさを持っている。寺院を比較しても仏教の思想は日本で最も良く根付いたようだ。(写真中央に精舎の尖塔が見えるが、その場所で釈迦が悟りを開いた)
 
ブダガヤではチベッタンテント(チベット人がしている安宿)に泊まった。かれらは顔つきが日本人そっくりで料理も我々の口に合い、おいしかった。だがチベット人は入浴は好きでは無いようだ。
 
釈迦が悟りを開いた所の菩提樹は三代目でセイロンから運ばれた。アショカ王の手による高さ52mの大精舎(後に改築)がある。チベッタンテントで合った日本の僧は、ここの精舎を最初に訪れた時は、感激の為に足が振るえて立っておられなかったそうだ。
 
ブダガヤには日本人の聖地巡礼者を目当てにしたみやげ物屋が沢山ある。客引きの子供たちの日本語の旨いこと。
○ラジキールの温泉
日本の湯治場といった温泉だか、温泉そのものは石造りのがっちりした建物で、石の階段で地底に降りて行く。皆服をきたまま入浴する。入浴場はカーストの階級により三つに分かれており湯は上から順に下の階級の湯舟にながれていく。もちろん垢も一緒に流れて行く。
○高度7千メートルの山
ラジキールであった青年の話。彼はすこし前にネパールの7千メートル峰を登ってきた帰りだそうだ。高校を出て働いていたが、ヒマラヤ遠征の話が舞い込んできて、その山岳会には属していなかったが外様メンバーで参加した。彼によるとヒマラヤは自分の身を削って登る山だ。山に入る前にできるだけ太って身に付けておくべし。5千メートルを越えると、そこは、寝ていてもそこに居るだけで体力を消耗していく世界。その中で行動しなければならないとき、たよるものは自分の体に付いている脂肪と筋肉だけだそうだ。しかし雪崩に合い装備を流され遠征は失敗してさんざんだったそうだ。
 
また彼は外様メンバーだったので遠征隊でのエゴに嫌な思いをしたらしい。外様は結局荷物を沢山担がされ、早くつぶれて行かざるをえない。ヒマラヤは、そうしてメンバーが脱落していき最後に残ったものが、それまでのメンバーの荷揚げの努力の上に乗って頂上に立つような山だ。だが彼は体力があり途中でつぶれず最後まで残った。彼はそんなことで、「もうチームを組んでの登山はもう嫌だ。こんどヒマラヤに行くなら自分一人でのんびりトレッキングしたい」と言っていた。
○日本山妙法寺(ラジキール)
藤井日達師の開いた日本山妙法寺がインドにはあちこちにあるが、ここのお坊さん達は、日本の一般のお寺の堕落した僧と違って、非常に質素な生活と、厳しい修行の毎日を送っている。インド人達からも尊敬されている。貧乏旅行者も困ったときは良く助けてもらっている。合掌
○インド人の性格
彼らはとてもドライで、カラリとしている。そして貧乏ながら喜々として働いている。乞食でも少しもみじめたらしい所が無い。彼らには物が無くても、タイの都会人のように物に対する欲望や、飢餓感にさいなまれてはいない。物が無くて、貧しいのがあたりまえの状況のなかで、それらをあたりまえと思っている。彼らには悲しんだり、人をうらやんだり、ねたんだりする余裕など無いのだろう。ただ毎日の食を求めて精一杯生きている。
○インド人は怠け者か?
彼らはとても良く働く、農村でも、町でも、カンカン照りつける暑い中を汗をタラタラ出しながら必死に働いている。だが、なにせ生産制が低く、働けど働けど貧乏である。ちょうど日本の戦後すぐの闇市時代の様子だ。
 
開発途上国の子どもは小さいときから必死に働いている。そしてカメラを向けるとワッと寄ってきて、人なっこく、ドライで、好奇心旺盛で、物おじしない。
 ○インド社会の貧富の差
インドは最も貧富の差の大きな国だが、大別すると二つのグループでくくれる。つまり英語が話せる階層と英語が話せない階層。前者は身なりのみならず、体格からして堂々としている者が多い。後者は痩せて貧相である。ニューデリーも官庁街に近い所では、いわゆる英国風の広い芝生と煉瓦造りの瀟洒な館が連なる高級住宅街が続く。オールドデリーの貧民街を考えるとこれが同じインドとは思えない。
○カルカッタで目撃したこと
ある昼下がりカルカッタの(おそらく金持ち階級の為の)幼稚園の前に人力車がずらりと並んでいた。何事かと思っていると幼稚園が終って門を出てきた子供達がそれに乗って帰るのである。その子供たちはあたかも王子さま、お姫さま然と、それに乗り込んだ。そして力車のあんちゃん達は喜々として力車を引っ張って出発するのである。あれだけ追い払うのに苦労し、料金の交渉などで手をやいた、力車のあんちゃんが、小さな子供に全く頭が上がらないのだ。
○貧乏旅行者
貧乏旅行者同士は道で合うと互いにすぐわかる。彼らとは不思議な連帯感が有ってすぐに仲良くなれる。また彼らと交換する情報(ブラックマーケツト、安宿、安い食堂、交通機関、見るところ等々)は非常に貴重である。彼らとしばし茶を飲み世間話をする。彼らの中には好奇心が強く大望をもって旅行しているアクの強い人もいるが、おしなべてギスギスした人間関係が苦手で、シャイで優しい人が多かったような気がする。
○みにくい日本人
インドを高級ホテルに泊まり、町から町へ飛行機で移動し、冷房バスで観光し、高級土産店でさっそうと買物をする日本人。彼らは、何故かきざで醜い。彼らのインド人を見下した態度、物腰はたまらない。叉インド人も彼らに対しては妙にオドオドして媚びへっらう。
 
我々はサイフを取られたり、騙されたり、長距離列車の座席の獲得で焦ったり、力者のあんちゃんとやりあったりで、インド人の海のなかで揉まれ揉まれて旅行している。町の不潔さ(田舎の村は不潔ではない)、太陽の暑さ、人ごみの喧噪にうんざりしている。
 
それでもインドが好きだ。インドにいたときはうんざりしていて、もうこんな国はこりごりだと思ったのだが、インドを離れて時が経つにつれて、どこまでも広がる緑の水田と、あの真っ青な空が透明な感慨とともによみがえり、インドがなつかしく思い出される。そして、また行ってみたくなる。貧乏旅行したものでなければインドの不思議な魅力は理解できないだろう。
○バルクの人骨
カルカッタであった日本人(吉岡という、もとタクシー運転手のおじさん。おんぼろのスバルレオーネで自動車旅行してた。)の泊まっている安宿をたずねると、いいものを見せようと新聞紙にくるんだ物を大事そうに出して広げた。それには焦げ茶色に変色した今にも崩れそうな人骨5、6本だった。おそらく大腿骨か腕の骨だ。
 
アフガニスタンのバルクでは今でも荒野に人骨がごろごろしているそうだ。ちょっと掘れば、人の頭蓋骨や、体の骨がいくらでも出る。頭蓋骨を持って帰りたかったが、頭蓋骨は土から掘り出すとぼろぼろくずれて原形をとどめないので諦めたそうだ。バルクはモンゴル軍の大虐殺が有った町でそのときの人骨なのだ。これがその昔モンゴル軍に殺されたアフガン人の遺骨かと思えば感慨深かった。(彼は日本に帰ってから葉書をくれたが、カルカッタを出るとき税関を通りそうもなかったので、結局岸壁から海に捨てたそうだ。惜しいことをした。)
○バルク
唐の僧玄奘法師が訪れた頃(1340年)は広大な沃野で百を越える仏寺に三千人あまりの僧侶が充満し、さながら小王舎城の観だったそうだ。
○カルカッタのネズミ
カルカッタの中心街のバスステーション近くの公園の隅にネズミが巣くっている。それは何千匹という数で、ピーナッなどを芝生の上にばらまくと原っぱの穴の中からワッと出て来る。それは壮観だ。
 
面白いのはインド人がそれを面白がっており、ネズミにやる豆を売る者が、その近くの路上で沢山商売している。ちょうど日本でハトやコイにやる餌を茶店で売っているようなものだ。なんとも日本では考えられない。
○乞食狩り
私がインドに入ったのは10月だったが、それいらい何時も乞食にはつきまとわれた。しかし6月ごろインドに入った者によると、そのころは今よりずっと沢山の乞食がいたそうだ。そして乞食狩りをしていたそうだ。カルカッタではステッキの様なもので乞食の首を引っかけてはトラックに乗せて何処かへつれていっていたそうだ。
 
印パ紛争(1971年、昭和46年)のころは700万から800万といわれる難民がカルカッタ東方の難民キャンプに囲い込まれていた。インド政府はこの難民のインド国内離散を最も畏れている。それでこの時期(1975年)でも定期的に乞食狩りをしているらしい。そうすると一時的に町から乞食が少なくなる。
○インドの乞食
インドでは乞食にも色々ある。完全な物もらい。歌か詩を朗読したり、大道芸をして物を乞うもの。なんらかの仕事(おおくは路上商店、日雇い人足、力者等)を持っているが住む家がなく路上やプラットホーム(彼らは水が出る所なら所かまわず住み着く)で生活する者。
 
インドの乞食は悲惨だか、みじめな感じではない。どの乞食もあっけらかんと堂々としている。香港やタイの乞食は悲惨ではないがみじめである。
 
でも後、命は一週間と持たないだろうと思える痩せこけた動く気力もない老婆の乞食を見たときには胸が痛んだ。彼女とは安宿を外出で出る度に目が会った。
○両替請負屋
インドではもう使えなくなった紙幣が多い。そんなやつを釣銭でつかまされると銀行で両替しなければならなくなる。それも普通の銀行ではだめで、国立銀行みたいな大層な銀行で替えなければならない。それが非能率きまわりない。10ルピー札でそんなやつをつかまされて銀行に行ったのだが、あっちこっちの窓口(どの窓口も長蛇の列)をたらい回しにされて2時間くらい経過しても、らちがあかない。とうとう頭にきて銀行の入口の所にいた乞食にやってしまった。
 
両替に時間がかかるので代わりに列に並んで両替する両替請負屋が商売としてなりたつ。なんたる国だ。
○インドの役所の非能率(自分の場合)
カルカッタの日本領事館にパスポートの盗難を届(10月21日)、同時にインドの警察に申しでたのは10月22日だった。領事館では郵便でニューデリーに問い合わせニューデリーから日本に問い合わせ、その返事が来るのを待つのだが、インドの郵便事情が悪くパスポートの再交付を受けたのは11月11日。なんと20日もかかってしまった。
 
それからすぐにforeigner officeに行ったがexit permissionを取得したのはなんと11月19日だった。officeでは郵便で私の入国を国境事務所に確認するのだがこれも郵便事情が悪くて時間がかかる。その間パスポートがないのでインド国内に足止め(できることならネパールに入りたかったのに。そのかわり、ブダガヤやラジキールを回る。)
○インドの役所の非能率
ヨーロッパ、アジアを回ってきてカルカッタから車(トヨタのセリカ)を日本へ船積みする日本人が通関手続きするのを1日だけ付き合った。彼の言葉によると通関手続きだけですでに1週間通いずめだそうだ。あっちこっちにたらい回しにされ書類、書類と、その度に書類をかかされ、一つの事務処理ごとに手数料を請求される。それをしぶると何時までも進まない。出せばスムーズにいく。彼いわくどうもワイロのようだ。一処理ごとに賄賂がいる。
 
最後の船積みのときもつきあったが、アフガニスタンで買った毛皮が問題になった。これが税関をとおらない。どうも話の感じでは、賄賂を出せば旨くいくらしい。人の良い彼もこの場にいたってとうとう我慢の限界に達したらしく、毛皮なんかいらないといってそこにいた他のインド人にやってしまった。
○インドのタバコ
細い糸でくくった24本の小葉巻。30パイサくらい。よい香り。
○カルカタッタの日本民間企業
闇のイエローカード(検疫証明書)の発給ではJALに、またパスホート無しの両替では東京銀行にお世話になった。領事館の対応はなんとなく官僚的で杓子定規だか、民間企業は異境の地で実際に商売をしなければならないので、対応が柔軟で裏の道も心得ているように感じた。カルカッタから動けない時JALで本を借りては暇つぶしに良く読んだ。感謝!
○国際学生証明書(International Student Identity Card)の偽造
カルカッタあたりでは簡単に作れる。偽造を専門にやっている所がある。これがあると学割航空券が買える。パスポートの偽造をやってくれるかどうかは解らなかったが、盗まれた日本人のパスホートはよい値で売れるらしい。
インドのIT革命
 インドは1990年代以降ソフトウェアー産業において大発展を始めた。その事が可能に成った鍵は
  1. 莫大な人口ゆえにきわめて優秀な人材を供給できる。インド科学大学院やインド工科大学の受験競争はすさまじく、その厳しい競争が優秀な人材を供給する。
  2. 通信技術、インターネットの発達により距離の隔たりが無くなり、オンサイト・サービスではなくてオフシェア・サービスが可能になった。つまりインドに居ながらにして先進国の仕事ができる。ソフトウェアー産業はそういった技術革命にもっとも適していた。
  3. インドの生活費が諸外国に比べてとても安い。そのため技術者の賃金が先進国に比べて非常に安く、ソフトウェアーの顧客企業の利益に還元でき高い競争力をもっことができた。
  4. ソフトウェアー産業は、インフラの遅れた国でも通信回線と自家発電さえ整備すれば立ち上げ可能な産業だったこと。
  5. この時期にアメリカを中心に急速に進んだIT(情報技術)革命にうまく出会い相乗的に発展の波に乗ることができたこと。
等である。これは、まさにインターネットを中心とする通信・情報技術の発展がインドのおかれていた状況とピッタリ一致して起こった大発展である。科学技術の進歩がまったく新しい状況を生み出し、それに依って大変革が起こる可能性があることの典型である。

2008年7月追記

 インドは最近ますます急速に発展している。中国とインドが抱える膨大な人口の中には優れた能力を持つ人材が沢山いる。それらの割合は他の国々と同じであるが、彼らは、彼らの祖国の社会体制・社会状況から彼らの能力を発揮する機会に恵まれなかった。そのため、能力ある人々はアメリカに渡りそこで活躍する場を求め成功する人もでた。その後、中国の政治施策の変更や、インドのIT革命などをきっかけにして、大いなる経済成長をはじめた。そして、祖国の発展に合わせてアメリカで活躍していた人々の祖国への回帰が始まり、それが今の大発展を支えている。
 ここで注意しなければならないのは、中国・インドの大発展の原動力は能力の発揮を押さえられていた人々が、その能力を発揮できる環境になった事から生じているという事である。だから彼らの活動により、これからの世界はかなりかきまわされ、変化を迫られ、色々な 環境が激しく変化して行くであろう。世界はより流動的になり、忙しくなり、より急き立てられるであろう。それが、人類に取って幸せなことかどうかは解らない。ただ、とにかく変わっていくだろう。

 確実に言える事は、今までのインド人で成功した人はその能力もさることながら人間性に於いても優れた人材であるということだ。何を持って優れていると言うかは色々問題があり、またそういった人々が存在することが人類に取って幸せかどうかはわからない。しかし、とにかくインド人で成功した人には理工系の能力に優れ、理数的な分析力・判断力で成り上がった人が多い。
 そんな中でもインダス起業家協会(The Indus Entrepreneurs)創設者カンワル・レキ氏の次の言葉は味わい深い。「アイディアに頼りすぎては行けない。アイディアはすぐに時代遅れになる。良い起業家とはすぐに頭を切り換えられる人である。そして、アイディアは10%で残り90%は人間性(人柄)である。」
 しかし、そういった最高レベルの人材が無尽蔵と言うことはない。やがて、そういった人々による世界の攪乱もやがて飽和に達してその次のレベルの人々の時代になる。そうすると、中国もインドも普通の国になり、世界全体の社会変化も落ち着いたものになるだろう。

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タイ

○タイのバンコック
空港からバンコック市内に通じる高速道路の両側は日本企業の広告塔がずっと林立している。こんな中で毎日くらし、しかも、その商品を買う金の無いタイの人にとって日本の商品は欲望をかき立てるだけだ。(タイではこの時期軍事クーデターが繰り返される。日本に帰ってからタイでは大規模な日本商品のボイコット運動が広がった。)
○タイのバンコック市内
日本製の自動車、オートバイが氾濫している。町の店のショーウインドウの中も日本製テレビ、ラジオ、カメラ時計と日本製品ばかりだ。中近東、インドではほとんどお目にかからなかった日本製品なのだが、東南アジアに入ってからの異常な氾濫ぶりに驚く。タイ以東のアジアはまさに日本の経済圏なのだ。
○タイという国
初秋を感じさせるカルカッタからきた私にとってまたムッとする夏に逆戻りしたような感じ。Bangkokはもう日本とほとんど同じでその騒々しさはたまらない。町の感じもインドの汚さ、不潔さから比べるとずっときれいになり都会的な感じになる。果物などもインドよりもずっと豊富で新鮮。あらゆる面でインドとは比較にならないくらいの豊かさと品質の向上を感じる。その反面、都会にあふれる車の騒々しさ、セカセカトせわしい人混み、都会のもつ冷さが存在する。そこにしばらくいると、閉鎖的な経済を実施して物はないが外からの情報による欲望から隔絶されていたインドのおおらかさや包容力が無性になつかしい。しかしタイの田舎はきっとインドのようにのんびりしているはす゛だ。
○タイのホテル
ほとんどのホテルが売春婦を斡旋しており、部屋を取るとすぐにセールスにくる。ぽん引きの兄ちゃんの場合もあるし、女性が直接たずねてくる場合もある。タイの女性はスラリとしてスタイルの良い人が多い。とても綺麗なタイ女性と同棲して飲み屋の用心棒をしている日本人と仲良くなった。タイには彼の様なあぶれ日本人が沢山いるようだ。
○メナム川(Bangkok市内ではチャオプラヤ河と言う)
しばしば氾濫する(泥で黄色に濁っている。)私が行ったときも河近くの町は床下浸水の洪水であったが、いつもの事らしく住民はそのなかで普段通りの生活を営んでいる。
○タイの中華料理
タイには中華料理屋が多い。安くて日本人の口にあうからタイでは中華料理ばかり食べていた。それにしても東南アジアにはどこにも中国人が勢力を張っている。
○タイから香港への空路
飛行機の飛行経路がずっと南方洋上を通って大回りだったのがなぜか腑に落ちない。
 今にして思えばベトナムの空を飛ぶなどとんでもない時期だった。サイゴンが陥落してベトナム戦争が終結したのが1975年4月30日。南ベトナムは共産化の真っ盛り。そしてポル・ポト政権によるカンボジア人民150万人の虐殺が行われていたのはまさにこの時期なのだ。
 この後南ベトナムからの大量の難民発生。中国とベトナムが戦争を開始したのが1979年2月14日。ベトナム軍が、カンボジア西部全域でポル・ポト政権勢力撃滅の大攻勢作戦を開始するしたのが1979年4月6日。カンボジア難民のタイへの越境が激増する。

香港

○香港
香港の商店は華やかである。そのネオンサイン、広告のきらびやかな事は特別だ。香港から東京に帰った時(夕暮れ時についた)飛行機の空からみる東京のなんと薄暗く陰気くさかったことか。
 後で考えると日本はちょうどオイルショックの後で全国的に灯火規制をしていた時期だ。ちなみに第一次石油ショックは1973年10月、第二次石油ショックは1979年2月
いくら香港が華やかだといっても商店のなかから日本製のテレビ、ラジオ、カメラ、自動車や、アメリカ製品、ドイツ製品を取り除いたら後は何も残らない。香港とはそんな町だ。香港は資本主義国の見本市で、それらの商品で華やかさを保ったいる。そんな香港でも最近は郊外にどんどん工場がたって工業化に勤めている。
○中国大陸
香港の新界(New Territories)に行って中華人民共和国を遠望する。あそこが中国かと思うとなんか不思議な気がした。中国側耕地がひらけ遠くには中国の農村の集落が3ケ所くらいかたまっているのが見える。、田は取り入れが終わった時期で中国農民の働く姿は見ることはできなかったが望遠鏡でのぞけば人々の暮らしの様子がそのままのぞけそう。
 当時の中国はソ連の鉄のカーテンならぬ竹のカーテンの彼方で中国の内情は誰もわからない時代だった。当時は1966年に始まった暗黒の文化大革命の終焉期。ちなみに毛沢東が死亡したのが1976年9月9日、四人組(王洪文、張春橋、姚文元、毛沢東未亡人の江青)が失脚して文化大革命が終了したのが1976年10月6日である。

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独り言 

○各国の物価について
西ドイツ、スイスは日本なみ。ギリシャ、イタリアは日本の7割程度。一回の食事代が600〜800円程度ですんだ。トルコは日本の半分程度。ブドウ1kg40円、リンゴ1kg70円、一回の食事代300〜400円程度。インド、アフガニスタンは日本の1/3以下。一回の食事代が庶民食堂で200〜300円程度ですんだ。
○ヌンについて
中近東からインドにかけてイースト菌を使わないで焼いたパンが主食。国々によって少しずつ呼び名が変わり、形が変わる。トルコでヌン(Nan)といい直径20cm程度で少し厚い。イランでもヌンと言うが水滴型でうちわを細長くした位の大きさで薄くペラペラになる。パキスタン、インドではチャパティといい直径15cm程度でとても薄く焼いてある。
○この旅行で利用した乗り物
飛行機、汽車、電車、バス、トラック、ミニバス、力車、船、三輪車
○この旅行で泊まったところ。
ホテル、ペンション、Student Hotel、ユースホステル、Salvation Army、野宿、船中泊、夜行汽車、夜行バス、安宿、屋上
○Black Market(闇ドル買い)について
 ブラックマーケットとは闇の両替屋のことだ。後進国には常にブラックマーケットが存在する。その理由は主に二つある。
 
(1)後進国政府が自国の通貨を、そのものが持つ価値(そのものが持つ価値とはたとえば二国が貿易をして貨幣と品物を交換する場合需要と供給の関係から必然的かつ自然に定まる交換率のことだ。)以上に設定する。たとえば本来1ルピーは1/9ドルの価値しかないのに1ルピー=1/8ドルの高い交換率にしたとしよう。
 物を売る立場からみれば不等に高く売ることになり商売上必ずしも得策だとはいえない。しかし交換率を不等に高くしている後進国には売るべき商品はあまりないのが普通、むしろ買わされるほうだ。買わされる立場では高くしておくにこしたことはない。安く買えるのだから。このことから生ずる輸入超過は関税を高くして押さえる。
 交換率を人為的に高くしている後進国は必ず関税が高い。だから、それらの国では密輸が非常にぼろい儲けになる。それがまた官権と密輸業者の賄賂と汚職のもとになる。
 
(2)もう一つの側面は、これらの国々では米ドルだけが金や宝石と同じような価値と安定性を持っている事による。アジアのほとんどの国々が輸入超過を記録しており、政府は極力外貨の無駄使いを押さえている。そのため外国製品の価格は高騰し人々は何とか非合法の形であっても外国製品を手にいれたいと考えている。簡単に言えば密輸である。しかし自国の通貨の信用度は薄く外国との商売には使えない。米ドルだけが密輸の取引に使える通貨とすれば、人々はなんとかしてそれを手に入れようとする。そのひとつの方法として政府が定めた両替レートより有利なレートを示して旅行者から米ドルを(非合法に)買い集める。これがブラックマーケットである。
 
 悲しいことだがその辺の事情を心得ると金を儲けながら旅をすることができる。たとえば政府の交換率で1ドル8ルピー、闇では1ドル9ルピーなら闇でルピーに替え、そのルピーを銀行でドルに替える。そのドルを叉闇でルピーに替えるということをすればいくらでも金はふえていく。
 そんな事を防止するために、こういった後進国ではドルをルピーに交換したという両替証明書を持っていかないとルピーをドルに再両替してくれない。(そこで、こすい奴はその両替証明書を改懺する。つまり本当は10ドルしか両替していないのに100ドル両替したように0や1の数字を書き加えるのだ。そのためのカーボン紙を持ち歩いている奴がいる。)
 また自国の人間がルピーをドルに替えることには厳しい制限をもうけている。そこで旅行者から盗んだパスポートが金になる。パスポートの写真を張り替えて旅行者になりすまして両替の詐欺をするのだ。
 
 国境を越えるときは免税店でウィスキー、タバコを買っておけばインド、ネパール、ビルマでは確実に2〜3倍で売れる。売れるかどうか心配する事は全く無い。後進国の大都会にはそれを餌に一儲けしようとする輩が沢山いるから。カルカッタなどのブラックマーケットはかなり強大な組織である。カルカッタのNew Marketの近くをウロウロしているとすぐにウィスキーやタバコを売れ、カメラや時計を売れと呼び込みの兄ちゃんが近寄って来る。しかし彼らは客引きの下っ端である。彼らに従ってマーケットの奥深く入っていくと、かっぷくのいいボスが出てきて品定めをする。私もカメラを売る交渉をしたが、彼らは実に日本製のカメラや時計の事を良く知っている。その知識量からして彼らの背後には巨大な闇商人の組織があることが解る。
 
 貧乏旅行者は少しでも有利に両替しようとしてブラックマーケットを利用する。(ただし、決して両替し過ぎないこと。ドルへの再両替は不可能だから。そしてその国を出れば後進国の紙幣はただの紙屑になるのだから。)だからそういった旅行者をカモにして荒稼ぎしようとする詐欺師が出て来る。(そうゆう奴は闇ドル買いで儲けるほどの組織も資本もないチンピラが多い。)どんな詐欺かと言うと、ドルだけ持ってルピーをくれずにとんずらする奴。あるいは警官を装った仲間に闇交換の現場を押えさせて、ドルもルピーも巻き上げるなどである。だから闇ドル交換は絶対に路上でやってはならない。路上で声をかけて来る闇商人は普通の闇レートより高いレートで話かけてくる。しかし路上で交換をやろうとする奴は間違いなく上述の詐欺師だと思って間違いない。(私は二度この手の詐欺にひっかかりかけた。)
 
 闇ドル交換は必ず店を構えている闇商人のところでやること。それも背後に組織を持っている闇商人の方が安全である。店を構えている以上、今後の事もあるので上述の様なケチな詐欺はしない。非合法交換の店を構えていると言うのも変な話だが、たいてい表向きは他の普通の品物を売る店である。彼らにしてみれば交換する現場を警官に踏み込まれなければ交換したドルはどうにでも処理できるのだ。だから交換するときは手下が二、三人店の外に出て様子をうかがい、なかなか物々しい。それを見るとこちらも本当に法律を犯す悪いことをしているのだという気がしてくる。
 
 カルカッタのNew Marketの中はこんな店が沢山ある。これらの店は警察の手入れに対しては賄賂で旨く切り抜けているということだ。後進国はこういった意味でも否応なく腐敗していかざるを得ない。
 
○この旅行(1975年当時)で身に滲みて感じるたのは後進国が生き残るには三つの選択肢しかない。
(1)傀儡政権の上部構造
(2)社会主義化
(3)資源独立国
 ただし今になって考えればこれらはとんでもない勘違いだった。結局(1)(2)(3)すべてが旨く行かないことが判明したのがこの20世紀末だったのだ。どの政治体制でもその体制内で資本主義化を押し進め企業家精神を持った中産階級をそだてて、民主化を実行し自由主義的な資本主義国家に移行するしかないようだ。
○日本
日本は世界の中で本当に、例外的に豊で、平和で、安定した国なのだ。
○旅は一人でするもの
 仲間と一緒に旅をする者に対しては、現地の人はなかなか近づきがたいようだ。しかし一人で旅をしている者はどことなく頼りなげに見えるのだろう。道が解らずウロウロしていると必ず向こうから声をかけてくれる。そしてすぐに親切をかって出てくれる。
 世の中にはそんな親切な人が沢山いる。そして現地の人と親密になれる。一人旅では何事によらず現地の人と交わらざるをえないし、現地の人の世話にならざるをえない。一人旅でこそ現地の内情にわけ行っていける。旅は一人でするべし。
○アジアの旅
 アジアは誰もが必死で生存競争に参加している世界であり、地面の上をはいずるようににして生きている人々の世界だ。文字通りアジアの旅は観光地をめぐりながらのんびりするのではなく、襲いかかる不安と恐怖の中で必死に自己を守りながら、大地の上で懸命に生きる人々の群れのなかに無理やり頭から突っ込んでいくもの。いつも財布の安全を確かめていなければならない旅だ。

 この旅で新しい土地に着くといつもすごく新鮮で素晴らしい感じを持った。それはイズミアーに着いたときもイスタンブール、エルズルム、ドゴバヤジ、タブリッツ、テヘラン、メショド、ヘラートに着いたときも常にそうだった。その町の持つ魅力にとりこになって、うきうきして町をうろついた。そして観光名所のある場合にはそれを見て回った。

 だがそのうきうきした感覚はそう長くは続かなかった。二日たち三日たつうちに最初感じた新鮮な感じは除々に色あせ、ギラギラ照りつける太陽の暑さと、風に舞う砂ぼこりの味気なさと路地裏に漂う悪臭のみが目につくようになる。そして、最初着いたときにはあれほど外国人に対して親切にみえた人々の計算ずくの親切や、観光客とみて値段をふっかけてくるずるさ(もちろん親切な人もいるし、彼らをずるくさせた責任は旅行者にもあるのだが)また、同国人どうしでののしりあっている醜さのみが目につくようになる。不毛の大地の厳しさ、町の汚さ味気なさにうんざり、あきあきして最後は逃げるように次の町に旅だって行った。そしてアジアとはこんなものだ、この町はこんなもんだ、人間とはこんなものだと見限りながら、どこの国も同じようなものだというあきらめの思いを旅の感想としていた。

 だがアジアは文字通り混乱と貧困の中でみなが必死にいきている世界。旅行者として、この地域に入れば彼らの必死の生きざまを素通りして行くわけには行かない。とくに昨今人気上昇中の航空機を利用したパッケージ・ツアーでなく、人々の嫌らしさ、醜さ、美しさを、高級乗用車を乗り回す金持ちからボロに身をくるんで地面をはいずりまわって生きている路上生活者、外国人に気軽に話しかけてくる人々から強い拒絶反応を示す人々まで全部ひっくるめて見ようという貧乏旅行者にとってはなおさらだ。

 アジアの旅はあこがれへの出発ではない。甘い感傷や美しい夢を根こそぎにする現実への旅立ちである。それは真剣に必死に自他と戦わなければ不可能な旅だ。人々のいやらしさ、みにくさ、また各町の汚さ平凡さを乗り越えて観光案内書に書かれているような美辞麗句でない各国の魅力、またその中に生きる人々の力の源泉を探る旅である。

2002年12月記

 確かに1975年当時はこんな感じでした。しかしその後冷戦の構造が崩壊して、世界の大変革が始まる。
 1991年に冷戦が終決した。そして、真の意味での多民族国家・移民の国アメリカだけが、その柔軟な政治体制・経済力・軍事力をもってして、この世界をリードし、平和を司る資格を持つ状況になった。(民族紛争やテロリズムはその後各地で発生しているが、国家と国家が対立する戦争はなくなった)
 市場が国境を越えて単一化され、世界貿易が自由になった。そのため東南アジア諸国、そして引き続いて中国が安い労働力を武器に、諸外国から資本を導入し、設備投資を行い、あらゆる商品を大量に生産しはじめた。そして新たに東欧諸国がこれに加わろうとしている。まさにデフレの時代が始まった。そしてこの状況は今後数十年は続くと思われる。それが古い制度や経済構造に抜本的変革を迫る。これこそが今後の世界経済、世界情勢を見極める本質だと思います。

2008年7月追記

 ここで注意したいことは、1975年当時と比べて、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタンの中東情勢の悪化です。当時、普通の旅行者が何の差し障りもなく旅行できたのが夢のようです。このページを作った6年前(2002年)と比較しても、これらの国々の状況は良くなるどころかさらに悪化している。救いは当時最悪だったインドシナ半島の安定化です。タイとミャンマーに関してはそうとは言えないが。
 そしてこの6年間の世界情勢の変化に今更ながら驚かされる。BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と言われる国々の隆盛が世界情勢を大きく変えてきた。それらの国々が豊かになるにつれて、単なる低賃金国の自由主義経済への参入ではなくなってきた。それらの国々の賃金の上昇と消費の増大により、デフレの基調が世界経済を支配する時代ではなくなり、またアメリカ一極集中の世界とは言えなくなった。これらの国々の発展は、エネルギーや資源の不足を加速し、環境の悪化、金融の混乱を引き起こし、世界経済の不安定要因を増大させている。

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