米(細長くぱさぱさしている。)+羊肉の串焼き+生の玉ねぎ+ヌン(イーストを用いないパン)+バター+(生卵の黄身) 米にバターはなかなか合う。生の玉ねぎをかじりながら食べるとなかなかおっな味。
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アフガニスタン
- ○アフガニスタンのヘラート(人口10万人)
- アフガニスタンは夢を見ているような国だ。ちょうど日本に於ける中世の平安時代の町がこんな感じで在ったであろうと想像されるような町並だ。まさに文明から取り残され、時間が止まった国。ヘラートはシルクロードの要所だが、1221年と1224年の二度にわたり蒙古軍により住民が皆殺しにされた。
- ○含みタバコ
- アフガニスタン人は含みタバコをやる。ほとんどの男は小さなカンを持っており、その中の粉末状のタバコ(ちょうど日本の抹茶に似ている。)をひとつまみ手のひらの上に出して舌の下に入れて数分口の中に含んでおく。そして吐き出す。とにかく彼らは所かまわず唾を吐く。緑色の唾を。オーストラリアの高校生二人と茶店で試す。1分位で頭がクラクラしてきて5分もすれば足腰が立たなくなるほど強い。その高校生は、同じ貧乏旅行仲間だが、なかなかしっかりしていて肝が据わっている。彼らは毎晩夜になるとハッシッシ(大麻)をやりに出かけている。
- ○ハッシッシ
- 回教国では酒が飲めない。そのかわりがハッシッシ。ちょうど我々がお酒を飲んで酔っぱらうのと同じ事のようだ。しかし建前上アメリカなどの先進国の圧力で禁止。しかし一般人にはまるで関係無い。アフガニスタンでは簡単に手にはいる。旅行者とみるとすぐすり寄ってきて売りつける輩に事欠かないから。純度の高い物は樹液を固めた褐色をした塊。純度の低い物には葉や茎が混ざっていてガンジャという。火であぶって柔らかくして揉んでぼろぼろの鼻糞状にしてきざみタバコに混ぜて、紙に巻いたりパイプに詰めて吸う。吸うと聴覚が鋭くなって音楽などをかけると、音楽のイメージが増幅されて夢の世界に遊べるという。
とくにアフガニスタンでは安く大量に手にはいるからこれを西側世界に持ち出して一儲けしようとする旅行者は後を絶たず、アフガニスタンとイランの国境事務所にはこういう所も調べるんだぞと車のシートの中、シャーシの中、パイプフレームザックのパイプの中など密輸摘発証拠写真を沢山ならべて見せしめに掲示してある。貧乏旅行していると「先日何国人のだれそれが何kg持っているのを見つかって何年(持っていた量で刑期の日数が決まる)監獄にぶち込まれることになった。」といったたぐいの噂話はよく聞いた。
インドやネパールではいろいろな薬草、茸の類で色々な幻覚作用を起こすものがあるらしく、そんな話にとても詳しい日本人にカルカッタのサルベーションアーミーで出会った。彼はそういったたぐいの茸(きのこ)を求めてネパールをさまよい歩いていているらしく、幻覚作用についていろいろ講釈してくれた。
- ○ヘラートの警察署にて
- カブールへ行くのに北回りで行こうと思いロードパーミッション(通行許可証)を取りに警察に行った。北回りはヒンズクシーの大山脈の中を通らねばならず、ランドクルーザーのような四輪駆動の自動車でないととても通り抜けられない道で、軍事上の理由がどうか知らないがとにかく許可証がいる。
ところでその警察だが、まるで西部劇にでて来るような土壁に囲まれた砦の中にある。オフィスの係官はかなり学があるらしく聡明な顔をした偉丈夫だったが、その帰りに中庭で繰り広げられている警察官の訓練風景を見て笑ってしまった。服も靴も埃にまみれてヨレヨレ。隊列を組んでの行進がまともにできない。手と足がまるであわない。ちょうど幼稚園生徒がやるように手と足が一緒に出る。号令もまるで合わない。しかしみんな必死で、真剣な顔をして、真面目にやっていてそうなのである。
1973年の革命直前には文盲率90%以上、国会議員の半数が文字が読めなかったというから無理もない。それこそアフガニスタンなのだ。
- ○アフガニスタンの風土
- 平均高度2700m。冬の寒さは厳しい。昼夜の温度差は激しい。全体に乾燥しており、風が吹けばすぐ砂嵐。北部はヒマラヤにつらなるヒンズクシーの大山脈。全体的に砂漠と荒涼とした岩山ばかりで山の谷間の小川(水源は雪解け水)にそったわずかばかりの平地に緑の林や畑がある程度。そこは荒野の中のオアシスといった感じで、わずかばかりの農業が営まれている。
- ○南ルート
- 北回りのバスを捜しているとカンダハール経由の南回りカブール直行便に出くわしたので急きょ変更してバスに乗り込む。アフガニスタンの南回りの幹線道路は舗装が行き届いてとても良い。(ソ連とアメリカの援助による。ここは社会主義、資本主義の中央アジア戦略上の隠れたる要所で双方が援助合戦している。) 砂漠と岩山だけの何もない荒野の中を100km/h以上のスピードで特急バスは走る。驚くべきことに一日で千km以上走った。
- ○チャイハナ(喫茶店)
- ちょうど江戸時代の茶店にあるような縁台に布がかぶせてあり、その上に腰掛けたりあぐらをかいて、世間話をしながらお茶(紅茶)を飲んでいる。土壁の部屋の土間に絨毯を敷いただけの茶屋もある。村の社交場だ。
- ○アフガニスタンの果物
- 甘くておいしい。そして安い。とくにその葡萄はミズミズしくてはじけるようだ。そしてその甘いこと。食べた後、手がベトベトして糖分が析出してくるようだ。水の少ない乾燥した土地の果物ほど糖度が高いようだ。
- ○アフガニスタンの水
- アガニスタンに限らず、一般に乾燥地帯の水は良くない。生水を飲むと下痢をおこし、肝炎になる。だからアフガニスタン、パキスタンでは紅茶(チャイ)ばかり飲んでいた。トルコでは瓶詰めの水(スーと言う)を飲んだ。
- ○カブール
- その旧市街の汚いこと。裏通りの道ばたはいたるところ糞と小便だらけ、そして皆所かまわず唾を吐き捨てる。人間ばかりではない。羊、山羊、ラクダも所かまわずやる。それらがやがて乾燥して踏み散らかされ、風が吹くとモウモウと舞い上がる。古来遊牧で移動しながら暮らしてきた彼らには便所という概念が無いようだ。テントのまわりが、糞(くそ)だらけになるころには他の場所へ移動していくのだから。
- ○チャドリ(女性について)
- アフガニスタンでは成人した女性に外で出会うことは滅多にない。出会ってもチャドリで顔を完全に隠している。イランでは布を頭からかむっただけだか、トルコ奥地のチャドリは目のところだけあいた完全な覆面型。さらにアフガニスタンでは、唯一開いている目のところにも、御丁寧に蚊帳のような網が縫いつけてあり目元も完全に見えない(アフガニスタンではブルカと呼ばれる)。近代化が遅れているところほど隠し方も徹底している。
アフガニスタンのカブールで中学生くらいの女の子の一団が素顔(ペルシャ的で、皆とても美人)で歩いているのに出会って、衝撃をうけた。中近東に入って以来素顔の若い女性を見たのは久しぶりだった。
後でわかったことだがこの時期が1973年のクーデターにより王政が倒れて共産圏よりの政権がアフガニスタンに成立していてほんの一時期開放政策が行われ例外的に女性の解放が進みつつあった。ところがその後、親ソ連派と反対派のクーデター、暗殺が繰り返され1979年のソ連軍の軍事介入を招き今日に至るアフガニスタンの悲劇が始まる。
- ○バーミアン
- ヒンズクシー山脈のど真ん中に位置し、1〜6世紀に仏教の中心地として栄、当時は数千人の僧が住んでいたそうだ。だが現在はみる影もない。ただ往時を偲ばせる大石仏像と岸壁の穴居跡がのこっている。大石仏像の高さは53m、小さい方が高さ35m。どちらもイスラム教徒に顔面を削り取られている。(この石仏は2001年タリバンにより見る影もなく徹底的に破壊された。)ここでジンギスカンの孫が戦死したため、1221年蒙古軍により生きとし生けるものは皆殺しにされた。アフガニスタンには蒙古軍に皆殺しにされた町が沢山ある。
バーミアンの谷は美しい。ポプラと樅の林が青い渓流にその影を映し、素晴らしい。私が訪れたときは、ちょうど木々が黄色く色づき始めた中秋の頃で、空気は冷たく澄んでおり、斜光が赤い岩肌を赤く染め、黄、青、朱のコントラストが夢のような美しさ見せた。(写真は大石仏の方から見たパーミアンの谷)
[2010年追記]
最近ではGoogleEarthによりバーミアンの詳細を鳥観することができる。上の写真と同じ位置・同じアングルで現在の状況を見ると、見渡す限りの建物や林は破壊し尽くされており不毛の荒野が広がっている。
- ○バーミアンの安宿で
- 安宿の夕食の後、ほの暗いガソリンランプが照らす食堂(といってもテーブルと椅子を並べた薄暗い土間)の隅で、宿の主人と、その友人らしい人が歌いだした。その時客はほとんどいなく(私と他に数名の貧乏旅行者がいるだけだった)、彼らは自分達の楽しみの為に楽器(シタールに似た楽器)をかき鳴らし鼓に打ち興じて、自ら陶酔しているようであった。それはとても印象的な光景であった。
アフガン音楽はアフガンで、インド音楽はインドでこそ最も素晴らしい。
- ○バンディアミール
- ヒンズクシー山脈の山奥深く真っ青な水をたたえる神秘の湖。いいかげん山奥のバーミアンから、さらにトラックに揺られて山道を3時間走ると突然見えてくる。
- ○アフガニスタンのバス、トラック
- バンディアミールを午後3時ごろトラックで出発したが、700mもいかない内にエンスト。そこでどうするか見ていたら悠長にコンタクトブレーカーやディストリビューターを分解しはじめた。そして1時間ほどでやっとなおって4時に出発。バーミアンに着いたのは7時頃だ。
一つのエピソードを紹介しよう。10月1日に日本人(彼は東京商船大学の学生)がバンディアミールから帰るときに乗った中型トラック(トラックはほとんどソ連製らしい)の左の後輪がコロンと外れたそうだ。そしてガガーとシャフトが地面を擦って止まったそうだ。あまりにバカバカしい事故に同乗の外国人一同、怒る気にもならなかったそうである。
実際彼らはトラックに絵や模様を描き、飾りを付けてゴテゴテに飾りつけるが、車は壊れるまで整備することはない。
現地人が乗るバスはひどい物だ。トラックに屋根を付けただけだと考えればよい。窓は閉まらず、座席は板張同然のベンチで、砂ぼこりはすごい。その上身動きできないほど人が乗る。屋根もボンネツトの上も人と荷物で鈴なりだ。バスが運ぶ荷物も鶏、牛の毛皮、穀物と手当り次第何でも。それがモウモウと砂埃を立てて砂漠や山岳地帯の悪路を行く様子を想像して欲しい。アフガン人はそんなバスでも悠々と乗っている。行きにミニバスで6時間だったカブール=バーミアン間が帰りは現地バスで11時間かかった。体力が無いと乗れないのがアジアのバス。(写真はバーミアンからカブールへ向かう現地バス。)
[2008年8月31日追記]
今日、アフガニスタン情勢は最悪です。別稿「
アフガニスタンと中東情勢」を記す。高校生諸君はぜひ本質を見抜く見識を持って欲しい。
パキスタン
- ○アフガニスタンからパキスタンへ
- カイバール峠を通ってパキスタンへ入る。カイバール峠は思った程の難所ではない。むしろその手前にすごいところがある。落差百メートルを越える屏風のような断崖絶壁の中程の道を下るのだ。落ちたら一巻の終わり。
ヒンズクシーの南麓を横切ってペシャワール盆地に入ればそこはインダス河上流の全くインド世界で緑一色の農耕社会。人間が実に多い。国境を越えた当りから増え始め、谷に下れば下る程人間が多くなる。人が疎らにしかいないアフガニスタンの砂漠地帯とは好対照。
- ○パキスタンの市内バス
- もともとはちゃんとしたバスだろうが、市内を走っているバスはどれもドアは取れて無くなっており、窓ガラスも無い。床も穴だらけで中から下の地面が見えるのには感動した。これからインドを出るまで、都市のバスはだいたいこのようであった。
- ○下痢
- パキスタンではペシャワール、ラホールにいる間じゅう腹ぐわいが悪く下痢。人混みにあてられ、パキスタンにはあまり良い印象が無かった。
- ○パキスタン、インドの国境(ワガ)
- パキスタンとインドは犬猿の仲。印パ紛争(1971年秋、S.46)以来国境には緩衝地帯が在ってそこは車が通過できない。だから国境を越えて荷物を運ぶ場合は、人夫の担ぎ屋によって運ばれる。そういった担ぎ屋が何百人も列を成して荷物を運んでいる。不経済この上もない。
2002年のアフガン戦争をきっかけにカシミールを巡るパキスタンとインドの確執は近年ひどくなる一方である。
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インド
- ○インドの風土
- インドの西北部の町アムリッツに入ったのは10月10日だったが、とにかく暑かった。日中の外の気温は40℃近くになるのではないだろうか。とにかくフライパンの上であぶられるみたいだ。ただアムリッツあたりは高度も高く湿度が低いので部屋の中にいればしのぎ安い。
- ○ゴールデンテンプル
- アムリッツにあるシーク教の総本山で黄金色に輝いている。シーク教はきちんと巻いたターバンですぐに見分けがつく。商人が多く、生活、知的水準が高いものが多く、インドではかなりいい位置を占めている。
このお寺は後にシーク教徒の反乱(1984年)時、政府軍により徹底的に破壊された。そして、このことに関連してインディラ・ガンジー首相が暗殺され、ラジブ・ガンジー首相暗殺未遂事件が起こる。後にラジブはテロリスト少女の自爆テロで暗殺(1991年)される。
[2023年8月追記]
2023年6月にカナダ国籍を持つシーク教の有力指導者の暗殺事件があったのですが、カナダ政府はインド政府が画策した暗殺とみています。ここ数ヶ月でイギリスやパキスタンでシーク教指導者が次々に暗殺されていますので、おそらくインド政府の差し金でしょう。
トルコのエルドアンにしろ、インドのモディ にしろ強権的な姿勢を強めて独裁化の道を突き進んでいますが、愚かさを地で行っていますね。
- ○中近東、アジアでかかる病気
- アジアではコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、マラリアなどの恐い病気が在るが、これらは予防注射を射っておけば、抗生物質の良いものがあるから心配ない。それよりもっと恐いのは肝炎である。こいつばかりは防ぎようがなく、長期滞在者はほぼ確実にやられる。生水は絶対に気をつける。
とくに雨期のアジア旅行には、抗生物質、防虫剤、マラリア予防薬は必携のようだ。
- ○インドの水
- インドは不潔な所の代名詞のように言われているがインドの水は良い。生水を飲んでも大丈夫のようだ。やはり水量が豊富なところの水はきれいなようだ。
- ○入浴について
- インド人は水浴びが好きで、公園や駅の水場、河のほとりで、水浴しているのを良く見かける。そして彼らの体は予想外に清潔だ。水が豊富なので貧乏人でもよく水浴して、肌はつるつる光っている。彼らの着ている褐色のシャツも近くでみれば良く洗濯されたこざっぱりしたものである。
それにひきかえアフガニスタン人や、トルコの山岳地帯の住民には入浴の習慣がないので、垢まみれ、埃まみれである。イランのように近代化が進んだ国では、砂漠の国でありながら清潔。
- ○インドの鈍行列車
- 朝NewDelhiを発って200km離れたAgarへ汽車で入った。その鈍行の遅いこと亀のごとし。各駅停車はいたしかたないが、5っめごとくらいに20分から30分近く止まって動かない。たった200kmに8時間40分かかった。ただ鈍行はとても空いている。また無賃乗車が自由自在と言う感じ。途中の風景も、澄んだ青空のもとに田園地帯がどこまでも広がり、とてものどかであった。ただ現実には大地主のもとに小作農が苦しい生活を営んでいるらしい。実際鈍行の2等に乗っているインド人にはろくな服装をしたのがいない。
- ○Delhiの観光バス
- 多分世界で最も安い観光バスのひとつ。バスとしてはわりあいまともで、インド人のお登りさんと一緒に観光地巡りをした。
- ○インドのスリ
- インドにはスリや詐欺師が沢山いてうんざりする。10月14日の午後New-DelhiのIndianaの近くで30ドル入りの財布をすられた。この旅行中どこかで財布をすられるのは覚悟していたからサイフの中には現地の金以外はいれないようにしていたのだが、たまたま我々(このとき東京商船大生と一緒に旅していた。)がDelhiに入った時インド最大の祭りであった。最大の祭りと言っても日本のようにいろいろな催しがあるわけではなくて、せいぜい祭りの最後の日にラケリラ・グランドで火薬を仕込んだ大きな魔王の張り子に火がつけられるくらいが主な見ものだ。ただその祭りにくりだす人間の数の多さには驚いた。何十万人という人間がウロウロ、ゾロゾロ繰り出して移動している。その有様はすごい。インドなんて何の楽しみもないからこんな祭りでもみんなウキウキするらしい。祭りのため三日間銀行が休みでインドルピーの持ち合わせがなくなり、運悪くその日ブラックマーケットで両替しようとして財布にいれていてすられた。登山シャツの胸ポケットに入れていたのを新聞売りのスリに目を付けられたらしい。後で考えるといつすられたかはハッキリわかるが、すられたときは全く気がつかなかった。
インドで合った貧乏旅行者の誰に聞いても必ず一度はスリ、泥棒、サギのいずれかの被害に遭っていた。
- ○インドの映画
- アフガンのヘラートでも見たし、カルカッタでは良くみた。生産量は世界第2位である。その恋愛シーンの異様さ、暴力シーンの濫用、多様さ、に特徴がある。歌と踊りとアクションの混ざった恋愛映画が多い。映画館は座席指定。
- ○インドの急行列車(expressの2等)
- 大陸横断特急は意外と時間に正確。それというのも主要な駅では30分から1時間くらい停車するから。その間に皆ホームに降りて顔を洗ったり、食事をしたりする。プラットホームにはそのための物売りが沢山たむろしていて食べ物には事欠かない。また駅はいわゆるプラットホーム生活者(乞食より少しまし)の生活の場。また汽車の停車中は乞食が物乞いに沢山乗り込んでくる。物乞いの様式も様々。中には歌を歌ったり、演説したり。涙を流し真に迫った表情で何かを訴えてものを乞うものもいる。
ローカル線の鈍行列車と違って、その混みようはものすごい。気違いじみた混みようだ。座席は板張りで蚕棚のような寝台車形式。通路、蚕棚、座席、床、所かまわず、鈴なりになって場所取りをする。また車中の汚いこと。インド人は食べ物のかすを所かまわず捨てる。ゴミ箱に捨てるという習慣が無い。我々貧乏旅行者は物が盗まれるのが恐いので席を立っのもままならない。通路に置いたリュックサックの上に座り込んで一昼夜そのままと言う感じ。アフガニスタンのバスより体力を消耗する。
- ○タジマハール
- たしかに美しい。白い大理石が青い空と緑の芝生に良く映えてみごとだが、建築に要した金は漠大なものだろう。タジマハールやアグラフォートはインド人にとっても観光名所らしく沢山のインド人が観光に来ていた。アグラは緑の多いゆったりとした落ちついた町だ。
- ○アグラの銀行でパスポートをすられる。
- それは町の小さな銀行でドルをルピーに両替して書類を仕舞う為にちょっと左脇に挟んだ、ほんのわずかのスキにすられた。いつすられたのか全く気が付かなかった。
スリにとってインド人のなかに混じって行動する貧乏旅行者は恰好のカモである。我々には彼らが見えず、彼らは一般の善意あるインド人に混じって近づくことができるから。 この点、冷房のきいた観光バスや航空機で移動し、高級ホテルに泊まる大名旅行者は、そのズボラさに関わらず安全である。彼らとインド人はあまりにも異質だから。
インドでは汽車やバスでは決して自分の荷物から目を離してはいけない。また銀行とか駅とかサイフやパスポートを出す場所では特に注意すること。こう言った場所には必ずスリがいる。(インドでは誰もが貧乏なのだから、悪い奴が目をつけるのは旅行者しかいない、貧乏旅行者とて彼らから見れば金持ち)宿屋も信用できない場合がある。必ず錠前を持ち歩くこと。
だけどインド人の名誉の為に言っておくが、そんな悪い人はごく一部だと思う。親切な、好奇心あふれるインド人に沢山お世話になったのだから。
- ○インドの力車(現地語でもリキシャと言うらしい。)
- アムリッツ、アグラ、カルカッタ...どこの駅に着いても、人力車の運ちゃんと宿屋の客引きが押し寄せてくる。(文字通り大勢でドッと押し寄せる。)彼ら同士で互いにののしりあって、ものすごい形相で客の奪い合いだ。
- ○インドのカレー
- インドのカレーはサラリとしていて汁かけご飯のようだ。辛いことは辛いが、様々なスパイスの味がとても微妙に作用しあっていてハーモニイを奏でとてもおいしい。アグラの町の食堂(食堂といっても縦長の四畳半位の部屋でベンチと机だけ。)で食べたカレーの安くて旨かったこと。たしか3ルピー(100円くらい)。一般に庶民の食べるカレーの方が旨かった。高級料理店のカレーも食べたが、こちらは日本のカレーに近い味で高いだけだった。
- ○ヴァラナシ英語読みでベナレス(Bewares)
- ヒンドゥ教の聖地。沐浴場がある。まさにインドだ。とにかく汚い。しかしカブールのオールドタウンやカルカッタの町並みの汚さとはまた違った汚さである。ベナレスの汚さとは、汚物を洗い流す水が豊富にあるが、それ故に所かまわずよごされた汚さなのだ。
道をはさんだ店の前の下水溝(と言うよりどぶ溝)で子供が糞や小便をしている。生活汚水を捨てる。食いかすを投げる。赤い血のような痰(かみタバコのせいで赤い)を吐く。手ばなをかむ。汚水のそばで物の煮炊きをして食い物を売る。路傍で行水はする。しゃがこみ、寝そべる。露天の散髪屋があり、そのそばには屋台の食堂があり、かみタバコや、紅茶を売ったり、飲んだりしている。
- ○インドのチャイ(紅茶)
- インドのミルクティー(ミルクと砂糖のたっぷり入った紅茶。香料をいれたものもある。)は旨い。さすが紅茶の本場。1ポットが1ルピー(30円)くらいでたっぷり飲める。しかし茶を出すきゅうすやコップのきたないこと。ひび割れつぎはぎされ茶垢にまみれている。
- ○癩病(レプラ、ハンセン氏病)について
- 癩病には二種類あるようだ。
(1)手や足の先からロウか溶けるように溶けてなくなるやつ。傷口はツルとしている。
(2)文字通り手や足が腐るやつ。こちらは膿でぐずぐずになっており正視に耐えない。
我々は癩病患者の乞食に、にじり寄って近づいてこられると震えあがるが、インド人はレプラに関してはわりと鈍感。癩病患者の乞食も、施しを受けた金で食べ物を買って食べている。その金もまわりまわつて我々の所に来ると思えばあまりよい気はしない。
癩病患者はインドのいたる所で見かけたがベナレスが最も多かった。彼らも不治の病(本当は抗生物質の良いのがあって、ちゃんとした病院で金をかけさえすれば治る。)と思って、最後の神頼みと、巡礼者からの施しを期待して聖地へ集まるのだろう。ガンカ(沐浴場)へ通じる参道の両側には彼らが沢山ならんで物乞いをしている。
ハンセン氏病は感染力は非常に弱く、現在では治療が開始されれば周囲に感染のおそれはなく在宅治療で治癒可能になった。1980年代に有効な治療法(MDT)が登場して以来、患者数は激減している。1980年当時全世界で600万人といわれた感染者も現在は数十万人の規模に縮小しており、完全に制圧されるのも間近であると言われている。
- ○ベナレスの沐浴場
- ここは老いも、若きも、金持ちも、貧乏人も、もちろん癩病患者も沐浴して神に祈り、体を洗い、口をすすいでいる。実はこの沐浴場の上流と下流には死体の焼却場があって生焼きの遺体も最後はガンジス河に投げ込まれて大地に返される。私が訪れたときも死体を焼いていた。だから沐浴場の川底には生焼けの死体や骨が沢山沈んでいるはずだ。もちろん雨期の洪水期にはすべてあらい流されるが。
- ○ガンジス河の洪水について
- ベナレスはガンジス河の屈曲点に発達した町で、河沿いの岸壁(高さ十数メートルの崖が連なる)の上に広がり、岸沿いに巡礼者のための旅籠がならんでいる。ボートで河に出て川面から岸壁を見上げると岸壁の石垣の上に線が何本も引かれていて、これこれは何年の洪水の時の増水時の水面と記してある。驚くなかれ、その線の位置たるや、現在の水面から遥か10メートル以上の頭上なのだ。
毎年その洪水によってあらゆる物をあらい流して、新しい年を始めるガンジス河はヒンズー教の聖地なのだ。だから鉄道でガンジス河を渡るとき、彼らは決って河に向かって礼拝する。
- ○インドの風土
- 7〜9月の雨期にインドを旅行したものの話によると、その時期のガンジス河流域はいたるところ洪水で水びたしだったそうだ。道路だけが水面に出ていると言った感じだったそうだ。それに比べると10月、11月の内陸部の秋は天気が良く空はどこまでも青く澄み渡り、旅行にはベスト。
- ○アジアの郵便事情
- インド、ネパール、アフガニスタンの郵便局は信用できない。実際アフガニスタンから送った内のいくつかが日本に着いていなかった。またカルカッタの郵便局では釣銭をごまかされた。他の貧乏旅行者も、ほとんどの者が一度ならず同じ目にあっているらしい。
- ○カルカッタのデルタ地帯
- カルカッタのデルタ地帯には大陸横断の急行夜行列車で入り朝カルカッタのHooray
Stationに着いた。カルカッタに入る前の鉄道沿線は、見渡す限りの水田と湿地帯で朝もやがかかり、日の出前は水蒸気のためか、空は紫色に染まりとても荘厳である。そして朝もやのなかで、人々は活動を開始している。牛を追ったり、川べりで水をあびたり、洗い物をしたり。汽車の窓から見るそれらの光景は感動的でさえ在った。
- ○カルカッタの町
- ハウラ橋付近の喧噪はものすごい。700万の人口に対して失業者は200万を越すといわれ、人口過剰、失業、貧困、犯罪、伝染病、暴力などが集まっており凄絶な都会を作り上げている。治安状態は極めて悪い。カルカッタは英国統治当時の英国風町並みが続くが、長い間まともな手入れもされておらず、どれも薄汚れており、汚くてゴミゴミしている。
ここではサルベーション・アーミー(救世軍の木賃宿、英国風のサービスをする野戦病院のような感じの宿)に身をよせる。ここは貧乏旅行者の吹き溜まりみたいな所で、ここの塀の中だけはインド人の世界と隔絶しておりここに帰るとホッとする。もちろん門を一歩出ると乞食、路上生活者のたむろする世界。
- ○カルカッタの風土
- カルカッタに入ったのは10月21日だったが、とにかく暑かった。毎日午後には決まったようにスコールがあり、スコールが降るたびに下町は水浸しになる。煉瓦塀は苔むし、塀からのぞく樹木もジャングルの樹木だ。まさに湿度100%の蒸せかえるような緑の濃密な空気を呼吸しなければならない。ただしインドを発った11月22日頃は湿度もさがりしのぎやすく、ちょうど日本の9月下旬頃の気候になった。それがまたタイに行くと真夏の気候に逆戻りだ。
- ○椰子の実
- 路上で沢山売っている。買うと椰子の実売りはナタで削って果汁を飲み易く穴を開けてくれる。飲んだ後は二つに割って中の果肉を出してくれる。果肉はいかの刺身に似ていて、白くコリコリする。
- ○インドの車
- インドの国内を走っているオートバイや自動車はほとんど国産である。そしていずれも日本なら昭和30年代を走っていたような型であり、日本の車(初期のセリカ)のように恰好のよい車は皆とても珍しがる。インドにはほとんど外国製品は入っていない。閉鎖的な経済。
- ○ナンダーラの仏教大学の遺跡
- 5km×11km の遺構内には赤煉瓦の大講堂、会議場、僧坊、教場、研究室、礼拝堂がみごとな配置をもって並んでいる。つまりかってのインドは世界最高の真理探求国だったのだ。インドに行けば、こうした大学が何十とあり真理をつかんで帰ることができる。そういった期待と憧憬が世界の学僧たちの心をゆさぶっていた。
- ○フッダガヤについて
- のどかで、これこそが典型的なインドの農村といった感じだ。ベナレスと違って穏やかで瞑想的な自然の中の村。周りは水田と森が広がる。ガンジス河の支流の豊かな大河のほとり菩提樹の木の下で生まれた仏教は、以前述べた回教と本質的に成立ちが異なる。こういった環境だからこそ瞑想的で深遠な哲学的宗教が生まれたのだろう。悟りの境地などは、回教やヒンズー教の荒々しいドライで単純な教義の宗教では、計り知れない高度な内容なのだ。
ブダガヤにはネパール、ビルマ(今ではミャンマーと言うが)、タイ、セイロン、日本などの仏教寺院があるが、日本寺以外はどれもけばけばしく装飾され、ヒンズー教的なまなまなしさを持っている。寺院を比較しても仏教の思想は日本で最も良く根付いたようだ。(写真中央に精舎の尖塔が見えるが、その場所で釈迦が悟りを開いた)
ブダガヤではチベッタンテント(チベット人がしている安宿)に泊まった。かれらは顔つきが日本人そっくりで料理も我々の口に合い、おいしかった。だがチベット人は入浴は好きでは無いようだ。
釈迦が悟りを開いた所の菩提樹は三代目でセイロンから運ばれた。アショカ王の手による高さ52mの大精舎(後に改築)がある。チベッタンテントで合った日本の僧は、ここの精舎を最初に訪れた時は、感激の為に足が振るえて立っておられなかったそうだ。
ブダガヤには日本人の聖地巡礼者を目当てにしたみやげ物屋が沢山ある。客引きの子供たちの日本語の旨いこと。
- ○ラジキールの温泉
- 日本の湯治場といった温泉だか、温泉そのものは石造りのがっちりした建物で、石の階段で地底に降りて行く。皆服をきたまま入浴する。入浴場はカーストの階級により三つに分かれており湯は上から順に下の階級の湯舟にながれていく。もちろん垢も一緒に流れて行く。
- ○高度7千メートルの山
- ラジキールであった青年の話。彼はすこし前にネパールの7千メートル峰を登ってきた帰りだそうだ。高校を出て働いていたが、ヒマラヤ遠征の話が舞い込んできて、その山岳会には属していなかったが外様メンバーで参加した。彼によるとヒマラヤは自分の身を削って登る山だ。山に入る前にできるだけ太って身に付けておくべし。5千メートルを越えると、そこは、寝ていてもそこに居るだけで体力を消耗していく世界。その中で行動しなければならないとき、たよるものは自分の体に付いている脂肪と筋肉だけだそうだ。しかし雪崩に合い装備を流され遠征は失敗してさんざんだったそうだ。
また彼は外様メンバーだったので遠征隊でのエゴに嫌な思いをしたらしい。外様は結局荷物を沢山担がされ、早くつぶれて行かざるをえない。ヒマラヤは、そうしてメンバーが脱落していき最後に残ったものが、それまでのメンバーの荷揚げの努力の上に乗って頂上に立つような山だ。だが彼は体力があり途中でつぶれず最後まで残った。彼はそんなことで、「もうチームを組んでの登山はもう嫌だ。こんどヒマラヤに行くなら自分一人でのんびりトレッキングしたい」と言っていた。
- ○日本山妙法寺(ラジキール)
- 藤井日達師の開いた日本山妙法寺がインドにはあちこちにあるが、ここのお坊さん達は、日本の一般のお寺の堕落した僧と違って、非常に質素な生活と、厳しい修行の毎日を送っている。インド人達からも尊敬されている。貧乏旅行者も困ったときは良く助けてもらっている。合掌
- ○インド人の性格
- 彼らはとてもドライで、カラリとしている。そして貧乏ながら喜々として働いている。乞食でも少しもみじめたらしい所が無い。彼らには物が無くても、タイの都会人のように物に対する欲望や、飢餓感にさいなまれてはいない。物が無くて、貧しいのがあたりまえの状況のなかで、それらをあたりまえと思っている。彼らには悲しんだり、人をうらやんだり、ねたんだりする余裕など無いのだろう。ただ毎日の食を求めて精一杯生きている。
- ○インド人は怠け者か?
- 彼らはとても良く働く、農村でも、町でも、カンカン照りつける暑い中を汗をタラタラ出しながら必死に働いている。だが、なにせ生産制が低く、働けど働けど貧乏である。ちょうど日本の戦後すぐの闇市時代の様子だ。
開発途上国の子どもは小さいときから必死に働いている。そしてカメラを向けるとワッと寄ってきて、人なっこく、ドライで、好奇心旺盛で、物おじしない。
- ○インド社会の貧富の差
- インドは最も貧富の差の大きな国だが、大別すると二つのグループでくくれる。つまり英語が話せる階層と英語が話せない階層。前者は身なりのみならず、体格からして堂々としている者が多い。後者は痩せて貧相である。ニューデリーも官庁街に近い所では、いわゆる英国風の広い芝生と煉瓦造りの瀟洒な館が連なる高級住宅街が続く。オールドデリーの貧民街を考えるとこれが同じインドとは思えない。
- ○カルカッタで目撃したこと
- ある昼下がりカルカッタの(おそらく金持ち階級の為の)幼稚園の前に人力車がずらりと並んでいた。何事かと思っていると幼稚園が終って門を出てきた子供達がそれに乗って帰るのである。その子供たちはあたかも王子さま、お姫さま然と、それに乗り込んだ。そして力車のあんちゃん達は喜々として力車を引っ張って出発するのである。あれだけ追い払うのに苦労し、料金の交渉などで手をやいた、力車のあんちゃんが、小さな子供に全く頭が上がらないのだ。
- ○貧乏旅行者
- 貧乏旅行者同士は道で合うと互いにすぐわかる。彼らとは不思議な連帯感が有ってすぐに仲良くなれる。また彼らと交換する情報(ブラックマーケツト、安宿、安い食堂、交通機関、見るところ等々)は非常に貴重である。彼らとしばし茶を飲み世間話をする。彼らの中には好奇心が強く大望をもって旅行しているアクの強い人もいるが、おしなべてギスギスした人間関係が苦手で、シャイで優しい人が多かったような気がする。
- ○みにくい日本人
- インドを高級ホテルに泊まり、町から町へ飛行機で移動し、冷房バスで観光し、高級土産店でさっそうと買物をする日本人。彼らは、何故かきざで醜い。彼らのインド人を見下した態度、物腰はたまらない。叉インド人も彼らに対しては妙にオドオドして媚びへっらう。
我々はサイフを取られたり、騙されたり、長距離列車の座席の獲得で焦ったり、力者のあんちゃんとやりあったりで、インド人の海のなかで揉まれ揉まれて旅行している。町の不潔さ(田舎の村は不潔ではない)、太陽の暑さ、人ごみの喧噪にうんざりしている。
それでもインドが好きだ。インドにいたときはうんざりしていて、もうこんな国はこりごりだと思ったのだが、インドを離れて時が経つにつれて、どこまでも広がる緑の水田と、あの真っ青な空が透明な感慨とともによみがえり、インドがなつかしく思い出される。そして、また行ってみたくなる。貧乏旅行したものでなければインドの不思議な魅力は理解できないだろう。
- ○バルクの人骨
- カルカッタであった日本人(吉岡という、もとタクシー運転手のおじさん。おんぼろのスバルレオーネで自動車旅行してた。)の泊まっている安宿をたずねると、いいものを見せようと新聞紙にくるんだ物を大事そうに出して広げた。それには焦げ茶色に変色した今にも崩れそうな人骨5、6本だった。おそらく大腿骨か腕の骨だ。
アフガニスタンのバルクでは今でも荒野に人骨がごろごろしているそうだ。ちょっと掘れば、人の頭蓋骨や、体の骨がいくらでも出る。頭蓋骨を持って帰りたかったが、頭蓋骨は土から掘り出すとぼろぼろくずれて原形をとどめないので諦めたそうだ。バルクはモンゴル軍の大虐殺が有った町でそのときの人骨なのだ。これがその昔モンゴル軍に殺されたアフガン人の遺骨かと思えば感慨深かった。(彼は日本に帰ってから葉書をくれたが、カルカッタを出るとき税関を通りそうもなかったので、結局岸壁から海に捨てたそうだ。惜しいことをした。)
- ○バルク
- 唐の僧玄奘法師が訪れた頃(1340年)は広大な沃野で百を越える仏寺に三千人あまりの僧侶が充満し、さながら小王舎城の観だったそうだ。
- ○カルカッタのネズミ
- カルカッタの中心街のバスステーション近くの公園の隅にネズミが巣くっている。それは何千匹という数で、ピーナッなどを芝生の上にばらまくと原っぱの穴の中からワッと出て来る。それは壮観だ。
面白いのはインド人がそれを面白がっており、ネズミにやる豆を売る者が、その近くの路上で沢山商売している。ちょうど日本でハトやコイにやる餌を茶店で売っているようなものだ。なんとも日本では考えられない。
- ○乞食狩り
- 私がインドに入ったのは10月だったが、それいらい何時も乞食にはつきまとわれた。しかし6月ごろインドに入った者によると、そのころは今よりずっと沢山の乞食がいたそうだ。そして乞食狩りをしていたそうだ。カルカッタではステッキの様なもので乞食の首を引っかけてはトラックに乗せて何処かへつれていっていたそうだ。
印パ紛争(1971年、昭和46年)のころは700万から800万といわれる難民がカルカッタ東方の難民キャンプに囲い込まれていた。インド政府はこの難民のインド国内離散を最も畏れている。それでこの時期(1975年)でも定期的に乞食狩りをしているらしい。そうすると一時的に町から乞食が少なくなる。
- ○インドの乞食
- インドでは乞食にも色々ある。完全な物もらい。歌か詩を朗読したり、大道芸をして物を乞うもの。なんらかの仕事(おおくは路上商店、日雇い人足、力者等)を持っているが住む家がなく路上やプラットホーム(彼らは水が出る所なら所かまわず住み着く)で生活する者。
インドの乞食は悲惨だか、みじめな感じではない。どの乞食もあっけらかんと堂々としている。香港やタイの乞食は悲惨ではないがみじめである。
でも後、命は一週間と持たないだろうと思える痩せこけた動く気力もない老婆の乞食を見たときには胸が痛んだ。彼女とは安宿を外出で出る度に目が会った。
- ○両替請負屋
- インドではもう使えなくなった紙幣が多い。そんなやつを釣銭でつかまされると銀行で両替しなければならなくなる。それも普通の銀行ではだめで、国立銀行みたいな大層な銀行で替えなければならない。それが非能率きまわりない。10ルピー札でそんなやつをつかまされて銀行に行ったのだが、あっちこっちの窓口(どの窓口も長蛇の列)をたらい回しにされて2時間くらい経過しても、らちがあかない。とうとう頭にきて銀行の入口の所にいた乞食にやってしまった。
両替に時間がかかるので代わりに列に並んで両替する両替請負屋が商売としてなりたつ。なんたる国だ。
- ○インドの役所の非能率(自分の場合)
- カルカッタの日本領事館にパスポートの盗難を届(10月21日)、同時にインドの警察に申しでたのは10月22日だった。領事館では郵便でニューデリーに問い合わせニューデリーから日本に問い合わせ、その返事が来るのを待つのだが、インドの郵便事情が悪くパスポートの再交付を受けたのは11月11日。なんと20日もかかってしまった。
それからすぐにforeigner officeに行ったがexit permissionを取得したのはなんと11月19日だった。officeでは郵便で私の入国を国境事務所に確認するのだがこれも郵便事情が悪くて時間がかかる。その間パスポートがないのでインド国内に足止め(できることならネパールに入りたかったのに。そのかわり、ブダガヤやラジキールを回る。)
- ○インドの役所の非能率
- ヨーロッパ、アジアを回ってきてカルカッタから車(トヨタのセリカ)を日本へ船積みする日本人が通関手続きするのを1日だけ付き合った。彼の言葉によると通関手続きだけですでに1週間通いずめだそうだ。あっちこっちにたらい回しにされ書類、書類と、その度に書類をかかされ、一つの事務処理ごとに手数料を請求される。それをしぶると何時までも進まない。出せばスムーズにいく。彼いわくどうもワイロのようだ。一処理ごとに賄賂がいる。
最後の船積みのときもつきあったが、アフガニスタンで買った毛皮が問題になった。これが税関をとおらない。どうも話の感じでは、賄賂を出せば旨くいくらしい。人の良い彼もこの場にいたってとうとう我慢の限界に達したらしく、毛皮なんかいらないといってそこにいた他のインド人にやってしまった。
- ○インドのタバコ
- 細い糸でくくった24本の小葉巻。30パイサくらい。よい香り。
- ○カルカタッタの日本民間企業
- 闇のイエローカード(検疫証明書)の発給ではJALに、またパスホート無しの両替では東京銀行にお世話になった。領事館の対応はなんとなく官僚的で杓子定規だか、民間企業は異境の地で実際に商売をしなければならないので、対応が柔軟で裏の道も心得ているように感じた。カルカッタから動けない時JALで本を借りては暇つぶしに良く読んだ。感謝!
- ○国際学生証明書(International Student Identity Card)の偽造
- カルカッタあたりでは簡単に作れる。偽造を専門にやっている所がある。これがあると学割航空券が買える。パスポートの偽造をやってくれるかどうかは解らなかったが、盗まれた日本人のパスホートはよい値で売れるらしい。
インドのIT革命
インドは1990年代以降ソフトウェアー産業において大発展を始めた。その事が可能に成った鍵は
- 莫大な人口ゆえにきわめて優秀な人材を供給できる。インド科学大学院やインド工科大学の受験競争はすさまじく、その厳しい競争が優秀な人材を供給する。
- 通信技術、インターネットの発達により距離の隔たりが無くなり、オンサイト・サービスではなくてオフシェア・サービスが可能になった。つまりインドに居ながらにして先進国の仕事ができる。ソフトウェアー産業はそういった技術革命にもっとも適していた。
- インドの生活費が諸外国に比べてとても安い。そのため技術者の賃金が先進国に比べて非常に安く、ソフトウェアーの顧客企業の利益に還元でき高い競争力をもっことができた。
- ソフトウェアー産業は、インフラの遅れた国でも通信回線と自家発電さえ整備すれば立ち上げ可能な産業だったこと。
- この時期にアメリカを中心に急速に進んだIT(情報技術)革命にうまく出会い相乗的に発展の波に乗ることができたこと。
等である。これは、まさにインターネットを中心とする通信・情報技術の発展がインドのおかれていた状況とピッタリ一致して起こった大発展である。科学技術の進歩がまったく新しい状況を生み出し、それに依って大変革が起こる可能性があることの典型である。
[2008年7月追記]
インドは最近ますます急速に発展している。中国とインドが抱える膨大な人口の中には優れた能力を持つ人材が沢山いる。それらの割合は他の国々と同じであるが、彼らは、彼らの祖国の社会体制・社会状況から彼らの能力を発揮する機会に恵まれなかった。そのため、能力ある人々はアメリカに渡りそこで活躍する場を求め成功する人もでた。その後、中国の政治施策の変更や、インドのIT革命などをきっかけにして、大いなる経済成長をはじめた。そして、祖国の発展に合わせてアメリカで活躍していた人々の祖国への回帰が始まり、それが今の大発展を支えている。
ここで注意しなければならないのは、中国・インドの大発展の原動力は能力の発揮を押さえられていた人々が、その能力を発揮できる環境になった事から生じているという事である。だから彼らの活動により、これからの世界はかなりかきまわされ、変化を迫られ、色々な
環境が激しく変化して行くであろう。世界はより流動的になり、忙しくなり、より急き立てられるであろう。それが、人類に取って幸せなことかどうかは解らない。ただ、とにかく変わっていくだろう。
確実に言える事は、今までのインド人で成功した人はその能力もさることながら人間性に於いても優れた人材であるということだ。何を持って優れていると言うかは色々問題があり、またそういった人々が存在することが人類に取って幸せかどうかはわからない。しかし、とにかくインド人で成功した人には理工系の能力に優れ、理数的な分析力・判断力で成り上がった人が多い。
そんな中でもインダス起業家協会(The Indus Entrepreneurs)創設者カンワル・レキ氏の次の言葉は味わい深い。「アイディアに頼りすぎては行けない。アイディアはすぐに時代遅れになる。良い起業家とはすぐに頭を切り換えられる人である。そして、アイディアは10%で残り90%は人間性(人柄)である。」
しかし、そういった最高レベルの人材が無尽蔵と言うことはない。やがて、そういった人々による世界の攪乱もやがて飽和に達してその次のレベルの人々の時代になる。そうすると、中国もインドも普通の国になり、世界全体の社会変化も落ち着いたものになるだろう。
HOME 1.出発 2.ヨーロッパ 3.中近東 4.アフガニスタン 5.インド 6.東南アジア 7.独り言
タイ
- ○タイのバンコック
- 空港からバンコック市内に通じる高速道路の両側は日本企業の広告塔がずっと林立している。こんな中で毎日くらし、しかも、その商品を買う金の無いタイの人にとって日本の商品は欲望をかき立てるだけだ。(タイではこの時期軍事クーデターが繰り返される。日本に帰ってからタイでは大規模な日本商品のボイコット運動が広がった。)
- ○タイのバンコック市内
- 日本製の自動車、オートバイが氾濫している。町の店のショーウインドウの中も日本製テレビ、ラジオ、カメラ時計と日本製品ばかりだ。中近東、インドではほとんどお目にかからなかった日本製品なのだが、東南アジアに入ってからの異常な氾濫ぶりに驚く。タイ以東のアジアはまさに日本の経済圏なのだ。
- ○タイという国
- 初秋を感じさせるカルカッタからきた私にとってまたムッとする夏に逆戻りしたような感じ。Bangkokはもう日本とほとんど同じでその騒々しさはたまらない。町の感じもインドの汚さ、不潔さから比べるとずっときれいになり都会的な感じになる。果物などもインドよりもずっと豊富で新鮮。あらゆる面でインドとは比較にならないくらいの豊かさと品質の向上を感じる。その反面、都会にあふれる車の騒々しさ、セカセカトせわしい人混み、都会のもつ冷さが存在する。そこにしばらくいると、閉鎖的な経済を実施して物はないが外からの情報による欲望から隔絶されていたインドのおおらかさや包容力が無性になつかしい。しかしタイの田舎はきっとインドのようにのんびりしているはずだ。
- ○タイのホテル
- ほとんどのホテルが売春婦を斡旋しており、部屋を取るとすぐにセールスにくる。ぽん引きの兄ちゃんの場合もあるし、女性が直接たずねてくる場合もある。タイの女性はスラリとしてスタイルの良い人が多い。とても綺麗なタイ女性と同棲して飲み屋の用心棒をしている日本人と仲良くなった。タイには彼の様なあぶれ日本人が沢山いるようだ。
- ○メナム川(Bangkok市内ではチャオプラヤ河と言う)
- しばしば氾濫する(泥で黄色に濁っている。)私が行ったときも河近くの町は床下浸水の洪水であったが、いつもの事らしく住民はそのなかで普段通りの生活を営んでいる。
- ○タイの中華料理
- タイには中華料理屋が多い。安くて日本人の口にあうからタイでは中華料理ばかり食べていた。それにしても東南アジアにはどこにも中国人が勢力を張っている。
- ○タイから香港への空路
- 飛行機の飛行経路がずっと南方洋上を通って大回りだったのがなぜか腑に落ちない。
今にして思えばベトナムの空を飛ぶなどとんでもない時期だった。サイゴンが陥落してベトナム戦争が終結したのが1975年4月30日。南ベトナムは共産化の真っ盛り。そしてポル・ポト政権によるカンボジア人民150万人の虐殺が行われていたのはまさにこの時期なのだ。
この後南ベトナムからの大量の難民発生。中国とベトナムが戦争を開始したのが1979年2月14日。ベトナム軍が、カンボジア西部全域でポル・ポト政権勢力撃滅の大攻勢作戦を開始したのが1979年4月6日。カンボジア難民のタイへの越境が激増する。
香港
- ○香港
- 香港の商店は華やかである。そのネオンサイン、広告のきらびやかな事は特別だ。香港から東京に帰った時(夕暮れ時についた)飛行機の空からみる東京のなんと薄暗く陰気くさかったことか。
後で考えると日本はちょうどオイルショックの後で全国的に灯火規制をしていた時期だ。ちなみに第一次石油ショックは1973年10月、第二次石油ショックは1979年2月
- いくら香港が華やかだといっても商店のなかから日本製のテレビ、ラジオ、カメラ、自動車や、アメリカ製品、ドイツ製品を取り除いたら後は何も残らない。香港とはそんな町だ。香港は資本主義国の見本市で、それらの商品で華やかさを保ったいる。そんな香港でも最近は郊外にどんどん工場がたって工業化に勤めている。
- ○中国大陸
- 香港の新界(New Territories)に行って中華人民共和国を遠望する。あそこが中国かと思うとなんか不思議な気がした。中国側耕地がひらけ遠くには中国の農村の集落が3ケ所くらいかたまっているのが見える。、田は取り入れが終わった時期で中国農民の働く姿は見ることはできなかったが望遠鏡でのぞけば人々の暮らしの様子がそのままのぞけそう。
当時の中国はソ連の鉄のカーテンならぬ竹のカーテンの彼方で中国の内情は誰もわからない時代だった。当時は1966年に始まった暗黒の文化大革命の終焉期。ちなみに毛沢東が死亡したのが1976年9月9日、四人組(王洪文、張春橋、姚文元、毛沢東未亡人の江青)が失脚して文化大革命が終了したのが1976年10月6日です。
文化大革命は独裁者毛沢東が画策した単なる権力闘争でしかなかったのですが、裁判にかけられた江青はすぐに自殺した。
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独り言
- ○各国の物価について
- 西ドイツ、スイスは日本なみ。ギリシャ、イタリアは日本の7割程度。一回の食事代が600〜800円程度ですんだ。トルコは日本の半分程度。ブドウ1kg40円、リンゴ1kg70円、一回の食事代300〜400円程度。インド、アフガニスタンは日本の1/3以下。一回の食事代が庶民食堂で200〜300円程度ですんだ。
- ○ヌンについて
- 中近東からインドにかけてイースト菌を使わないで焼いたパンが主食。国々によって少しずつ呼び名が変わり、形が変わる。トルコでヌン(Nan)といい直径20cm程度で少し厚い。イランでもヌンと言うが水滴型でうちわを細長くした位の大きさで薄くペラペラになる。パキスタン、インドではチャパティといい直径15cm程度でとても薄く焼いてある。
- ○この旅行で利用した乗り物
- 飛行機、汽車、電車、バス、トラック、ミニバス、力車、船、三輪車
- ○この旅行で泊まったところ。
- ホテル、ペンション、Student Hotel、ユースホステル、Salvation Army、野宿、船中泊、夜行汽車、夜行バス、安宿、屋上
- ○Black Market(闇ドル買い)について
- ブラックマーケットとは闇の両替屋のことだ。後進国には常にブラックマーケットが存在する。その理由は主に二つある。
(1)後進国政府が自国の通貨を、そのものが持つ価値(そのものが持つ価値とはたとえば二国が貿易をして貨幣と品物を交換する場合需要と供給の関係から必然的かつ自然に定まる交換率のことだ。)以上に設定する。たとえば本来1ルピーは1/9ドルの価値しかないのに1ルピー=1/8ドルの高い交換率にしたとしよう。
物を売る立場からみれば不等に高く売ることになり商売上必ずしも得策だとはいえない。しかし交換率を不等に高くしている後進国には売るべき商品はあまりないのが普通、むしろ買わされるほうだ。買わされる立場では高くしておくにこしたことはない。安く買えるのだから。このことから生ずる輸入超過は関税を高くして押さえる。
交換率を人為的に高くしている後進国は必ず関税が高い。だから、それらの国では密輸が非常にぼろい儲けになる。それがまた官権と密輸業者の賄賂と汚職のもとになる。
(2)もう一つの側面は、これらの国々では米ドルだけが金や宝石と同じような価値と安定性を持っている事による。アジアのほとんどの国々が輸入超過を記録しており、政府は極力外貨の無駄使いを押さえている。そのため外国製品の価格は高騰し人々は何とか非合法の形であっても外国製品を手にいれたいと考えている。簡単に言えば密輸である。しかし自国の通貨の信用度は薄く外国との商売には使えない。米ドルだけが密輸の取引に使える通貨とすれば、人々はなんとかしてそれを手に入れようとする。そのひとつの方法として政府が定めた両替レートより有利なレートを示して旅行者から米ドルを(非合法に)買い集める。これがブラックマーケットである。
悲しいことだがその辺の事情を心得ると金を儲けながら旅をすることができる。たとえば政府の交換率で1ドル8ルピー、闇では1ドル9ルピーなら闇でルピーに替え、そのルピーを銀行でドルに替える。そのドルを叉闇でルピーに替えるということをすればいくらでも金はふえていく。
そんな事を防止するために、こういった後進国ではドルをルピーに交換したという両替証明書を持っていかないとルピーをドルに再両替してくれない。(そこで、こすい奴はその両替証明書を改懺する。つまり本当は10ドルしか両替していないのに100ドル両替したように0や1の数字を書き加えるのだ。そのためのカーボン紙を持ち歩いている奴がいる。)
また自国の人間がルピーをドルに替えることには厳しい制限をもうけている。そこで旅行者から盗んだパスポートが金になる。パスポートの写真を張り替えて旅行者になりすまして両替の詐欺をするのだ。
国境を越えるときは免税店でウィスキー、タバコを買っておけばインド、ネパール、ビルマでは確実に2〜3倍で売れる。売れるかどうか心配する事は全く無い。後進国の大都会にはそれを餌に一儲けしようとする輩が沢山いるから。カルカッタなどのブラックマーケットはかなり強大な組織である。カルカッタのNew
Marketの近くをウロウロしているとすぐにウィスキーやタバコを売れ、カメラや時計を売れと呼び込みの兄ちゃんが近寄って来る。しかし彼らは客引きの下っ端である。彼らに従ってマーケットの奥深く入っていくと、かっぷくのいいボスが出てきて品定めをする。私もカメラを売る交渉をしたが、彼らは実に日本製のカメラや時計の事を良く知っている。その知識量からして彼らの背後には巨大な闇商人の組織があることが解る。
貧乏旅行者は少しでも有利に両替しようとしてブラックマーケットを利用する。(ただし、決して両替し過ぎないこと。ドルへの再両替は不可能だから。そしてその国を出れば後進国の紙幣はただの紙屑になるのだから。)だからそういった旅行者をカモにして荒稼ぎしようとする詐欺師が出て来る。(そうゆう奴は闇ドル買いで儲けるほどの組織も資本もないチンピラが多い。)どんな詐欺かと言うと、ドルだけ持ってルピーをくれずにとんずらする奴。あるいは警官を装った仲間に闇交換の現場を押えさせて、ドルもルピーも巻き上げるなどである。だから闇ドル交換は絶対に路上でやってはならない。路上で声をかけて来る闇商人は普通の闇レートより高いレートで話かけてくる。しかし路上で交換をやろうとする奴は間違いなく上述の詐欺師だと思って間違いない。(私は二度この手の詐欺にひっかかりかけた。)
闇ドル交換は必ず店を構えている闇商人のところでやること。それも背後に組織を持っている闇商人の方が安全である。店を構えている以上、今後の事もあるので上述の様なケチな詐欺はしない。非合法交換の店を構えていると言うのも変な話だが、たいてい表向きは他の普通の品物を売る店である。彼らにしてみれば交換する現場を警官に踏み込まれなければ交換したドルはどうにでも処理できるのだ。だから交換するときは手下が二、三人店の外に出て様子をうかがい、なかなか物々しい。それを見るとこちらも本当に法律を犯す悪いことをしているのだという気がしてくる。
カルカッタのNew Marketの中はこんな店が沢山ある。これらの店は警察の手入れに対しては賄賂で旨く切り抜けているということだ。後進国はこういった意味でも否応なく腐敗していかざるを得ない。
- ○この旅行(1975年当時)で身に滲みて感じるたのは後進国が生き残るには三つの選択肢しかない。
- (1)傀儡政権の上部構造
(2)社会主義化
(3)資源独立国
ただし今になって考えればこれらはとんでもない勘違いだった。結局(1)(2)(3)すべてが旨く行かないことが判明したのがこの20世紀末だったのだ。どの政治体制でもその体制内で資本主義化を押し進め企業家精神を持った中産階級をそだてて、民主化を実行し自由主義的な資本主義国家に移行するしかないようだ。
- ○日本
- 日本は世界の中で本当に、例外的に豊で、平和で、安定した国なのだ。
- ○旅は一人でするもの
- 仲間と一緒に旅をする者に対しては、現地の人はなかなか近づきがたいようだ。しかし一人で旅をしている者はどことなく頼りなげに見えるのだろう。道が解らずウロウロしていると必ず向こうから声をかけてくれる。そしてすぐに親切をかって出てくれる。
世の中にはそんな親切な人が沢山いる。そして現地の人と親密になれる。一人旅では何事によらず現地の人と交わらざるをえないし、現地の人の世話にならざるをえない。一人旅でこそ現地の内情にわけ行っていける。旅は一人でするべし。
- ○アジアの旅
- アジアは誰もが必死で生存競争に参加している世界であり、地面の上をはいずるようにして生きている人々の世界だ。文字通りアジアの旅は観光地をめぐりながらのんびりするのではなく、襲いかかる不安と恐怖の中で必死に自己を守りながら、大地の上で懸命に生きる人々の群れのなかに無理やり頭から突っ込んでいくもの。いつも財布の安全を確かめていなければならない旅だ。
この旅で新しい土地に着くといつもすごく新鮮で素晴らしい感じを持った。それはイズミアーに着いたときもイスタンブール、エルズルム、ドゴバヤジ、タブリッツ、テヘラン、メショド、ヘラートに着いたときも常にそうだった。その町の持つ魅力にとりこになって、うきうきして町をうろついた。そして観光名所のある場合にはそれを見て回った。
だがそのうきうきした感覚はそう長くは続かなかった。二日たち三日たつうちに最初感じた新鮮な感じは除々に色あせ、ギラギラ照りつける太陽の暑さと、風に舞う砂ぼこりの味気なさと路地裏に漂う悪臭のみが目につくようになる。そして、最初着いたときにはあれほど外国人に対して親切にみえた人々の計算ずくの親切や、観光客とみて値段をふっかけてくるずるさ(もちろん親切な人もいるし、彼らをずるくさせた責任は旅行者にもあるのだが)また、同国人どうしでののしりあっている醜さのみが目につくようになる。不毛の大地の厳しさ、町の汚さ味気なさにうんざり、あきあきして最後は逃げるように次の町に旅だって行った。そしてアジアとはこんなものだ、この町はこんなもんだ、人間とはこんなものだと見限りながら、どこの国も同じようなものだというあきらめの思いを旅の感想としていた。
だがアジアは文字通り混乱と貧困の中でみなが必死にいきている世界。旅行者として、この地域に入れば彼らの必死の生きざまを素通りして行くわけには行かない。とくに昨今人気上昇中の航空機を利用したパッケージ・ツアーでなく、人々の嫌らしさ、醜さ、美しさを、高級乗用車を乗り回す金持ちからボロに身をくるんで地面をはいずりまわって生きている路上生活者、外国人に気軽に話しかけてくる人々から強い拒絶反応を示す人々まで全部ひっくるめて見ようという貧乏旅行者にとってはなおさらだ。
アジアの旅はあこがれへの出発ではない。甘い感傷や美しい夢を根こそぎにする現実への旅立ちである。それは真剣に必死に自他と戦わなければ不可能な旅だ。人々のいやらしさ、みにくさ、また各町の汚さ平凡さを乗り越えて観光案内書に書かれているような美辞麗句でない各国の魅力、またその中に生きる人々の力の源泉を探る旅である。
2002年12月記
確かに1975年当時はこんな感じでした。しかしその後冷戦の構造が崩壊して、世界の大変革が始まる。
1991年に冷戦が終決した。そして、真の意味での多民族国家・移民の国アメリカだけが、その柔軟な政治体制・経済力・軍事力をもってして、この世界をリードし、平和を司る資格を持つ状況になった。(民族紛争やテロリズムはその後各地で発生しているが、国家と国家が対立する戦争はなくなった)
市場が国境を越えて単一化され、世界貿易が自由になった。そのため東南アジア諸国、そして引き続いて中国が安い労働力を武器に、諸外国から資本を導入し、設備投資を行い、あらゆる商品を大量に生産しはじめた。そして新たに東欧諸国がこれに加わろうとしている。まさにデフレの時代が始まった。そしてこの状況は今後数十年は続くと思われる。それが古い制度や経済構造に抜本的変革を迫る。これこそが今後の世界経済、世界情勢を見極める本質だと思います。
2008年7月追記
ここで注意したいことは、1975年当時と比べて、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタンの
中東情勢の悪化です。当時、普通の旅行者が何の差し障りもなく旅行できたのが夢のようです。このページを作った6年前(2002年)と比較しても、これらの国々の状況は良くなるどころかさらに悪化している。救いは当時最悪だったインドシナ半島の安定化です。タイとミャンマーに関してはそうとは言えないが。
そしてこの6年間の世界情勢の変化に今更ながら驚かされる。BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と言われる国々の隆盛が世界情勢を大きく変えてきた。それらの国々が豊かになるにつれて、単なる低賃金国の自由主義経済への参入ではなくなってきた。それらの国々の賃金の上昇と消費の増大により、デフレの基調が世界経済を支配する時代ではなくなり、またアメリカ一極集中の世界とは言えなくなった。これらの国々の発展は、エネルギーや資源の不足を加速し、環境の悪化、金融の混乱を引き起こし、世界経済の不安定要因を増大させている。
2018年5月追記
今年(2018年)の初めにこのページを読まれた読者からいただいたメールへの返事です。
・・・お送り頂いたファイルは興味深く読ませて頂きました。
いずれにしましても若いということは恐れを知らないと言うべきか、後先考えない無鉄砲と言うべきか、年取ってからなかなかできないことができてしまいますね。
後先考えずに、自分の思う方向へ、自分のやりたい道へどんどん進んでしまう。また、私自身旅をして良くわかったのですが、世の中には親切な人がたくさんおられて、右も左も解らない状況でも、親切に教え導いてくださる。そして旅をする者は様々な人に助けられながらいろいろな事を体験する。そして、不思議なことに、自然と道は開けてくるものですね。
その当たりは私自身も身をもって体験しましたので良くわかります。
私のアジア旅行も最初は夏休み中の2〜3週間程度の旅行のつもりだったのですが、お送り頂いた旅行記の作者の様に、ついでにもっと見てみよう、もっと行ってみようということになり、私の旅も結局4ヶ月を超えてしまいました。
ただ、旅行中に世界を放浪していて何年も日本に帰っていないという日本人に何人も合いました。そんな彼らを見ていると、私自身もそのまま旅を続けていけば、そのうちに、根無し草になってしまうのではないかと言う思いにとらわれたのも確かです。
私の場合は持ち金と相談して適当なところで日本に帰ろうと決めていましたので丁度4ヶ月で打ち止めにしました。4ヶ月でちょうど当時のお金で確か55万円程度使ったと思います。これはソ連の旅行の為に旅行社にあらかじめ最初に払っていた13万円を含めた金額です。
日本の羽田空港に着いたときには、結局私の財布に残っていたお金は確か5000円程度だったと思います。
それは山口の郷里には鈍行の夜行列車でもたどり着けない金額でしたので、取りあえず横浜に住んでいた叔父の所に転がり込んで身を寄せて、そこから山口の父に「家まで帰る金が無いので叔父さんの所までお金を送って」と電話したのです。
そしたら、父に、今までさんざん家族に心配をかけていて、帰る金がないので金送れとは何事か、とカンカンに怒られて、お金は送らないから自分で何とかしろと言って電話を切られてしまいました。
そのときは、叔父に帰りの汽車賃を借りて山口の実家までたどり着いた様な次第です。
日本に帰り着いた時、父に怒られた事で、自分勝手な行動が家族や大学の研究室の先生方や大学院の友人などにさんざん心配をかけたことが解って、とても申し訳なかったという思いで一杯でした。
その父も昨年4月に92歳で他界しましたが。・・・・
最近、前野ウルド浩太郎著「バッタを倒しにアフリカへ」光文社新書を読んだのですが、その
“あとがき”に書かれているラマダンのことについてです。私も同じ様な経験をしたので紹介します。
それは、私どもがここに記したアジア一周旅行から帰って、広島大学の大学院に復帰して日常の生活が始まった時のことです。旅行前と同じ大学院で修論のための学習・研究・実験を再開したのですが、旅行から帰ってから数ヶ月続いたと記憶していますが、世の中がバラ色に感じられたのです。
以前はまずいと思っていた学生食堂の粗末な食事が、ものすごく美味しく感じられたのです。何を食べても、何を飲んでも美味しく、身の回りに起こる出来事が、すべて愛おしく楽しく、とにかく世の中のすべての出来事・存在がバラ色に感じられたのです。これは本当に不思議な体験でした。
おそらく、旅行中は知らない内に緊張状態におかれ、常に様々なストレスにさらされていたのでしょうね。それが、終わって日常の大学院生の生活に戻ったとき、何故かその生活がとても楽しく、自分自身が幸せに包まれていると感じられたのです。
しかし、その感覚も3ヶ月を過ぎると跡形もなく消えてしまいもとの状態にもどりました。あのバラ色の幸せ感は何だったのだろう。とにかく不思議な体験だったことは確かです。
おそらく、比叡山千日回峰行中の修行僧が感じるという感覚と同じ様なものではないかと思います。
2022年6月14日追記
以下は、2022年5月18日にこのページをご覧になった方から頂いたメールへの返事なのですが、私どもが今の世界情勢に対して感じている思いそのままですので、ここに引用させて下さい。
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お便りありがとうございます。また、私どものHPをご覧頂きありがとうございます。○○さんがお読みいただいた「ユーラシア事情1975年」は、今から47年前の体験記ですから、ほぼ半世紀前のユーラシアの国々の状況ですね。
私自身も時々読み返す事があるのですが、今日の世界の国々の状況は当時と比べてはるかに近代化され豊かな社会になっていますが、世界情勢内部の混乱は当時の状況と比較して余り変化していないように思います。
私どもが高校1年生だった1964年当時、世界人口は36億人と習いましたが、今日の人類の生息数は75億人を越えようとしています。つまり、約半世紀で世界人口は2倍以上になったわけです。
恐ろしいスピードで増大しています。その人口爆発によって世界の情勢は良くなるどころかますます混迷の度合いを深めていくかも知れません。
特に最近のウクライナ侵攻に対するロシアの状況ですが、50年前のソビエト連邦時代の冷戦の時代と余り変わっていませんね。トルコも、イランもアフガニスタンも、パキスタンも、インドも当時の混迷の状況からそんなに良くなっていません。
当時は、第二次世界大戦が終了してから丁度30年経った頃で戦後の混乱も収束して日本は正に高度成長の時代でした。2度生じたオイルショックのちょうどその間(はざま)ですが、日本が割と元気な時代でした。
アジアの国々も植民地支配を脱してそれぞれの国がまがいなりにも民主主義に基づく平和で安定した社会が実現しつつあると思える時代でした。
1975年はちょうどベトナム戦争が終了した年でしたが、南北ベトナムは統一されて社会主義化、共産化が真っ盛りだった時です。ただしカンボジアではポルポト政権による共産化で150万人の人民が集団虐殺されていた時代です。
150万人の人民が虐殺されていた時代があったなど今日からは考えられませんが、事実です。しかし、当時その事実が外部に漏れ出ることはなく、他国の人々にはカンボジアの内部で行われていることがよくわからない時代でした。
中国も独裁者毛沢東が画策した権力闘争である文化大革命のさなかで、中国の内部で何が起こっているのかまるで分らない時代だったのです。
それでも確かに、HPに書いた4ヶ月の旅行で、当時のユーラシア大陸の国々の状況が良く解りました。当時も、決して平和で安定した世の中では無かったのですが、その中で人々は必死に生きていたし、世の中はそれなりに回っていました。現在も様々な混乱がありますが、それなりに皆が生きており世の中は進んでおり、世界は回っています。
ただ、これからの世界の問題は地球温暖化なのかもしれません。世界の多くの国々が温暖化に伴う大干ばつや大規模風水害の被害に悩まされる様になるでしょう。最近のインド内陸部の猛暑などは殺人的な気温になりつつあります。
また海面上昇に苦しむ事になるのでしょう。フィジーやモルジブなどの海洋国家では水没の危機が現実に始まっています。
悲観的な事ばかり書きましたが、○○さんにおかれましても様々な国々の状況を見聞される事は有益かもしれません。ただし、世界の状況を知ることができたからといって自分自身が幸せな状況になれるかということに関しましてはなんとも言えません。
当時と比較しましてもロシヤやトルコの奥地やイラン、アフガニスタン、ミャンマーなどは一般人が旅行するのはなかなか難しい世の中になりました。
当時、旅行するなど考えられなかったカンボジア、ベトナム、中国などは今日可能になりましたが(もちろんコロナが収束したらですが)
2,3年前までは観光旅行に行くのに何の差し障りもなかったスリランカなども今日経済破綻による混迷で国内はかなり乱れているようですから、今まで問題の無かった国々も今後どうなるか解りません。
もし、中国が台湾に軍事侵攻でもしたら台湾旅行などは不可能でしょうが、中国の軍事侵攻も現実的に考えられる世の中になりました。1975年当時には、このような心配は皆無だったのですから、世の中の変化に驚きます。
おすすめの国をご質問ですが、おすすめは日本が一番です。日本ほど今日の世界の国々の中で平和で安定した国は無い様に思います。とりとめの無いご返事になり申し訳ありません。こんごとも宜しくお願い致します。
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以上が、読者宛てに書いたメールですが、上記のメールに付け加えさして下さい。それは現在のカンボジアの状況です。
私は今から20年前の2002年8月に家内と二人でベトナムとカンボジアを旅行した事があります。
ベトナムではかってのサイゴン(今日のホーチミン市)の観光をしました。ベトナム戦争の最後の時にアメリカ軍のヘリコプターが最後の脱出者を乗せて離陸する映像で有名な、かっての南ベトナムの大統領府も見学しました。当時の大統領府の建物は歴史記念館になっていて、当時の大統領執務室も再現されていて、ベトナム戦争の最後の状況を説明する写真と共に当時の歴史が展示紹介されていたのです。
もちろんメコン川三角州の南国の果樹園やベトナムの郷土史博物館なども見学したのですが。
そして、カンボジアに移動してアンコールワットの遺跡を見学しました。たしかにアンコールワットは見事な遺跡で一見の価値はあります。またジャングルの中に点在するアンコールワット付近の遺跡群も見学しましたし、近くのトンレサップ湖も訪れてそこの水上生活者の暮らしぶりなども知ることができたのです。
当時のカンボジアはポルポトの大虐殺の悲劇を乗り越えて、やっと民主的で平和な国家が実現されつつあるのではないかと予想させるものでした。
しかし、ここでお伝えしたいのは、今日のカンボジアは(30年間その地位に居座り続けている)フン・センの独裁政権の支配下にあるのですが、そのカンボジアに迫っている暗雲についてです。
Google検索などで「カンボジアの独裁化」のキーワードで検索して見られると、今のカンボジアの状況を危惧する説明記事がいくらでもヒットしますので、どうぞご覧になられる事を勧めます。
ここでも、中国の横暴さがかかわっている事例がいくらでも出てきますので、独裁国家中国の破廉恥な度合いがここでも発揮されている事がおわかりになると思います。
ミャンマーの軍事政権や、カンボジアの独裁政権を旨く利用して自国の勢力を拡大して周囲への支配を強めようとしている中国の状況はプーチンのロシア以上の不気味な存在です。
習近平のような独裁者を支持する者は中国の国民の中に半数程度はいるのです。ロシヤがそうですし、トランプの様な愚か者を支持する者もアメリカ人の中には半数程度はいるのですから、人間の愚かさはなかなか解消できない様です。
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