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江沢洋著 “コンプトン効果” (平凡社「世界大百科事典」より引用)

 X 線が自由電子に当たって進路を曲げられる(散乱される。X 線散乱という)とき、曲り角(散乱角)によって決まるわずかの値だけ波長が延びる現象。原子に束縛された電子でも、原子の外側にあるものについては束縛の影響はほとんど現れないので、同様にこの効果が観測される。1921年に A.h. コンプトンが実験により発見し、24年の末までには光が量子からなるという見方に対する最初の確固たる実験的証拠として受け入れられるようになった。

 それまで光量子(光子、フォトンともいう)は、A. アインシュタインが1905年に唱えた発見法的な見方としてのみ見られ、光電効果の精密実験も、X 線の振動数と電子のエネルギーの関係を与えるアインシュタインの公式の証明として受け入れられこそすれ、物理学者の関心を光子に向けるにはいたらなかった。光の波動性との矛盾が乗り越えられなかったからである。

 コンプトンは、X 線の波長の延びを、電子が光圧で押し動かされるために起こるドップラー効果として古典論で理解することはできないと指摘した。彼は、振動数 ν のX 線はエネルギーが hν で運動量が hν/c の塊(光子)からなるというアインシュタインの見方に立ち、そのおのおのが一つの単位となってそれぞれ1個の電子に衝突すると考えた(h はプランク定数、c は光速)。
 その個々の衝突にエネルギーと運動量の保存則を適用することにより、X 線の散乱角φと波長の延び Δλ との実験値の関係を正しく再現する公式、 

得ることができたのである。ここに m0は電子の静止質量で、h/m0c=2.426×10-12mは電子のコンプトン波長と呼ばれる。

 散乱によって X 線の波長が延びる(コンプトン散乱と呼ばれる)(図1)のは、そのとき X 線が電子をはねとばしてエネルギー hν の一部を失うため振動数 ν が減るからである。

 その減少は正面衝突でφ=180_ となるとき最大だが、それでも波長の延びは2h/m0c≒5×10-12mにしかならないから、X 線(λ≒10-8〜10-13m)くらい波長の短い光でないと観測にかかりにくいわけである(図2)。

 コンプトン効果は光の粒子性を鮮やかに浮き出させ、光の粒子性と波動性の矛盾を物理学者たちに避けて通れない問題としてつきつけることになった。
 光子の描像によれば X 線の波長の延びは計算できるが、しかし、X 線の散乱角はどのくらいか(散乱角の頻度分布はどうなのか)、散乱 X 線の強さはどうかという問いに理論的に答える役には立たない。これらの問いには、むしろ X 線の波動像に立つ J. J. トムソンの理論が(λ≫h/m0c なるかぎり)正しい答えをあたえる。
 J. c. スレーターは、光の粒子性を波動性と折り合わせるために、光子の道案内をし吸収や放出の確率をも決める場が存在すると考え、この場を通して原子たちは定常状態にある間も絶えず交信しているとした。
 N. ボーアと h. A. クラマースは、これを修正し、原子の不連続的な遷移は、その確率だけが誘導場の連続的な放出に伴って決められる統計現象だと主張した(1924)。
 そのため、エネルギーと運動量の保存則も個々の過程では必ずしも成立せず、単に統計的に成り立つにすぎないことになる。

 このボーア=クラマース=スレーターの説には、h. ガイガーと W. ボーテが直ちに反証をあげた。コンプトン効果における散乱 X 線と反跳電子は同時に発生しているように見え、これが偶然の一致である確率は10-5より小さいことを彼らは同時計数の方法で示したのである。
 さらにコンプトンとA. W. サイモンはコンプトン散乱の霧箱写真をとり、散乱角を測って個々の衝突でエネルギーと運動量の保存則が成り立っていることを直接に確かめた(1925)。
 これを否定する実験結果を1936年に R. S. シャンクランドが得て、一時はボーア=クラマース=スレーター理論の復活も取りざたされたが、50年に R. ホフスタッターらおよび N. F. ラムゼーらがそれぞれガイガー=ボーテ、コンプトン=サイモンの実験を精密化してこれに反証した。
 理論的にもエネルギー保存則が物理学の枠組みの中で根底的な地位を占め、容易には疑いえないものであることが論じられた。

 現在では光の粒子性と波動性は量子力学により矛盾なく統一的に記述される。コンプトン効果は、散乱 X 線の波長の延びも角度分布も強度も含めてあらゆる側面が量子電磁力学により計算できる。
 波長の延びはコンプトンの結果と一致し、散乱 X 線の角度分布と強度は反跳電子の同様の特性と合わせてクライン=仁科の公式に集約され、実験の及ぶかぎりの光の波長範囲でまちがいないことが確認されている。

 

2.コンプトン散乱(岩波「理化学辞典」より引用)

コンプトン散乱[Compton scattering]
 コンプトン効果(Compton effect)ともいう。物質によって散乱されたX線のなかに、その波長が入射X線より長い方にずれたものが含まれている現象として1923年にコンプトンが発見した。これはX線(振動数ν)が物質中の電子によって弾性散乱をうけるためで、波長変化は光子(そのエネルギーはhν、運動量はhν/c)と電子との衝突においてエネルギー保存則と運動量保存則が成立することから導かれる。
 コンプトン散乱は光子がきまった運動量を荷う粒子として振舞うことの直接の証拠であった。コンプトン散乱の全断面積や角度分布はクライン‐仁科の式によって与えられる。波長が長い極限ではトムソン散乱になる。
 硬X線ないしγ線(エネルギー数十keV〜10MeV程度)が物質に入ると、物質中の電子とのコンプトン散乱が主なエネルギー損失過程となる。
 一方、高いエネルギーの電子による電波や赤外線の光子の散乱を逆コンプトン散乱(inverse Compton scattering)と呼ぶ。これは宇宙空間での高エネルギーγ線発生過程として重要である。

コンプトン波長[Compton wavelength]
 質量mの粒子に対してλ0=h/mcまたは/mcをいう。光が静止している粒子にあたったときのコンプトン散乱による波長変化は、だいたいこの程度である。
 電子は=0.0039×10-10m、陽子は=0.2103×10-15mである。

クライン‐仁科の式[Klein-Nishina formula]
 自由電子に対するコンプトン散乱による電磁波(X線、γ線)の散乱断面積をあたえる式。1928年にO.クラインおよび仁科芳雄がディラック方程式を用いて導いた。古典電子半径をr0とすれば,振動数νの入射光子の静止している電子によるコンプトン散乱の全断面積は

となる。γ=hν/mcは入射光子のエネルギーを電子の静止エネルギーで割ったものである。
 この結果は実験結果とよく一致し、またγ→0の極限ではトムソン散乱と一致する。陽電子の発見以前は、これがディラックの電子論のもっとも重要な実験的検証であった。 

 

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