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シェームズ・デュワー(James Dewar)

奥田毅 著「低温小史−超伝導へのみち」内田老鶴圃(1992年刊) から引用

 デュワーはスコットランドの旅館主の7男として生れた。エディンバラ大学で化学を修め33歳でケンブリッジ大学の教授となったが、周囲の人達とうまくいかなったのでロンドンの王立研究所へかわり化学の教授になった。ここは大変居心地がよかったらしく81歳で亡くなるまで勤めた。王立研究所は大学のような堅苦しさもなく、芸術家肌のデュワーは研究所の先輩であったデービーやファラデーの幽霊の存在を信じていた。ファラデーの亡霊が出てきて“自分がやり残した気体液化を続けるように”といったので、デュワーはすぐに酸素の液化を始めて1878年には少量ながら液体酸素をつくることができた。

 実験家としての腕前は充分にあり、科学者としての知識と芸術的才能でデュワーの実験付き講演は王立研究所の名物となった。聴衆に液化した気体をみせるために二重壁のガラス瓶を1892年に発明した。二重壁の中は真空にして熱の流入を防いだ。魔法瓶の原型である。今日でもデュワー瓶として広く実験室で使われている。
 デュワー瓶の発明は1892年の年末であったが翌年1月の講演会で公表したところ直ちに民問から1000ポンドの寄付があった。研究費の不足をいつも嘆いていたデュワーが喜んだのはいうまでもない。
 有名な発明にはつきものであるが、デュワー瓶が公表されるとドイツ人とフランス人からデュワー以前から真空容器を使っていたという申入れがあった。しかし当然のことながら問題にならなかった。

 デュワーが水素の液化に成功したのは1898年5月!0日であるが、彼はまず水素を液体酸素で予冷してからジュール=トムソン効果を使って液化に成功した。20tばかりの無色の液体であった。デュワーは液体水素の温度を測定しようとして、熱電対とか白金低抗温度計を使ってみたが成功しなかったので、原始的な気体温度計によって約20Kという値を得た。これは現在知られている温度20.4Kに近い。
 デュワーの水素液化の研究に対してラムゼー(William Ramsay 1852〜1916年)から横やりが入った。ラムゼーは当時のイギリスの大化学者である。“クラコフのオルスチェフスキーがすでに水素の液化には成功している”という発言であった。しかしその後の調査でこれは誤りであることが明らかになった。
 ラムゼーは1895年にヘリウムを発見していた。その後の研究でネオンからヘリウムを分離するために液体水素を必要としたのでデュワーに依頼したが、上記の様な事情があったので2人の共同研究は成立しなかった。

 水素の液化に成功したデュワーは当然のこととしてヘリウムの液化に取りかかった。しかし充分な量のヘリウムが得られず、苦心して入手したヘリウムには不純物があったため、液化に取りかかると不純物が固化して装置が動かなくなった。その上、若い不慣れな助手が誤って貴重なヘリウムを逃してしまったので、実験を続けることが不可能になった。ヘリウムの液化競争は結局オンネスの勝ちになった。
 デュワーは背が低く性格は短気で移り気であった。少年時代には健康が優れなかったので、村民からバイオリンの製作法を習ったりして日を送った。彼の金婚式には自作のバイオリンで演奏したそうである。

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