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ヘイケ・カメルリング・オネス(Heike Kamerlingh Onnes)

奥田毅 著「低温小史−超伝導へのみち」内田老鶴圃(1992年刊) から引用

 ヘイケ・カメルリング・オネス(Heike Kamerlingh Onnes 1853年9月21日〜1926年2月21日)
 オンネスは1853年にオランダに生れ、グローニンゲンの大学を卒業したのちハイデルベルグに行き、ブンゼンやキルヒホッフの下で研究した。1882年からはライデン大学の実験物理学の教授になった。彼が28歳の時である。
 初期の研究は主として気体の性質を調べることであった。これは、1873年にファン・デル・ワールスが気体について有名な状態方程式を発表していたからである。その方程式が正しいか否かを実験的に調べるのがオンネスの仕事であったので、できるだけ広い温度の範囲で気体の圧力と体積の関係を研究しなければならなかった。従って超低温になっても液化しない気体が必要であった。

 1894年から低温研究室の準備を始め、1904年には大学で液体空気ができるようになった。さらに続いて1906年にはデュワーの装置にも勝る水素液化機を組立てた。それから問もなく、ヘリウムは5Kあたりで液化できるのではないかと思うようになった。しかしヘリウムを入手するのが大問題であった。
 幸いにもアムステルダムで通商関係の役所に勤めていた兄の好意でノースカロライナからモナザイト砂を手に入れることができた。この砂にはウラニウム塩が含まれていてヘリウムを分離することができる。オンネスは大変な努力をして実験に必要な最少量のヘリウムを集めた。ヘリウムは1908年7月10日に初めて液化され4Kの液体ヘリウムができたので、最初の目的であった気体の性質は充分に研究されるようになった。

 その後オンネスは固体ヘリウムをつくろうとして1Kの近くまで温度を下げて実験したが成功しなかったので、金属の電気抵抗が温度とともにいかに変化するかを研究することにした。
 金属の針金の両端に電圧をかけると電流が流れる。電流と電圧と電気抵抗の問には有名なオームの法則が成立する。金属のなかには動きやすい自由電子があるが、これは金属を形成している原子から出たもので金属のなかを自由に動きまわることができる。自由電子に電圧が作用すると一定の方向に流れができるが、これが電流である。しかしこの自由電子の流れは、熱運動をしている金属内の原子のためにさまたげられて電気抵抗が現れる。
 原子の熱運動は一定の位置を中心とした振動であるが、金属の温度が上がると、この運動が盛んになり自由電子との衝突も盛んになる。自由電子の運動はそのためにますます妨害され金属の電気低抗の増加となって現れる。たとえば常温で1オームの電気抵抗がある銅線をおよそ600℃に熱すると電気低抗は3オームほどになる。逆に液体空気で冷すと-190℃近くの低温になり、電気低抗は0.2オームまで減少する。
 金属の電気抵抗が低温度でこのように減るのは金属の原子の熱運動が静かになるためで、自由電子は金属内を通りやすくなり電気低抗は減ってくる。

 金属が純粋なほど、また歪みが少ないほど電気低抗は低温で小さくなり、0Kの付近では恐らく図上図のようになるだろうと想像された。これは液体水素を初めてつくったデュワーの考えである。
 一方、マチーセンの説ではのようになる。これは金属内にある不純物や構造の不整のためであるとする。
 また、絶対温度Kの目盛で有名なケルビン卿は1902年に、超低温になると自由電子はもとの原子に凍結して動かなくなり、電気低抗はおそらくのように増大するであろうと述べた。
 どの学説が正しいか、これを実験的に明らかにしようとしたのはオンネスをリーダーとしたライデン大学の低温研究所である。この問題については、先にデュワーが16Kまで温度を下げて研究しているが確実な結果が得られていなかったので、オンネスは液体ヘリウムを使い同じような実験を繰り返すことにしたのである。

 オンネスは助手のドノレスマンとホルストとともに金と白金を使って実験をしたところ、上図のような結果が得られたので不純物の影響が大きいと思われた。これは1910年の終りに近い。
 その頃、水銀は蒸留を繰り返すことによって高純度が得られるのがわかっていたので、オンネスは水銀を便って実験することにした。水銀を毛細管に入れて冷却すると水銀線ができるので、その電気抵抗の温度変化を測定してみた。
 その結果は、思いもよらず下図に示したように水銀の電気抵抗は液体ヘリウムの温度で突然ゼロに近い値となった。

 このことが初めて発表されたのは1911年4月28日で、アムステルダムの学会の席上であった。この実験はその後、幾度も繰り返して行われたが全く新しい事実であることが確認されたので、水銀は4K付近の温度を境として、さらに低温になると“超伝導状態"に移ることが明らかになった。
 超伝導状態になった水銀の電気低抗はどの程度まで小さくなっているか?これがオンネスの次の研究テーマになった。1911年12月の測定では常温での値に較べて10億分の1の程度であろうと思われたが、1913年には100億分の1に近いという結果が得られた。これは電気低抗ゼロといってもよい状態である。
 またどの程度の温度幅で超伝導の状態に移るかという測定もされたが、水銀についてのオンネスの測定では0.02Kの温度幅で転移が起きることが明らかになった。転移の温度幅は不純物の影響を受けることもわかった。今日の優れた技術によってつくられた純粋の超伝導体では0.00001Kの温度幅で転移が起きることが知られている。
 オンネスはさらに研究を続けて1912年12月3日にはスズが約3.7Kで超伝導になることを発見し、続いて鉛も6K付近で超伝導になるのを発見した。その後の測定によるとスズは3.722K、鉛は7.193Kで超伝導になることが知られている。

 1913年前半の研究によると超伝導状態は一定の大きさの電流によって消失することが明らかになった。しかも温度が違うと超伝導状態を消す電流の大きさが違うことがわかった。
 1913年の12月10日にはオンネスにノーベル物理学賞が贈られた。
 1914年8月には第一大戦が始まりアメリカからヘリウムが輸入されなくなったので、ライデンでの低温研究は続けられなくなった。1918年に第一次大戦が終ると物理学の研究は再び盛んになった。
 オンネスは1926年に72歳で没したが、ライデンで液体ヘリウムの新しい状態、ヘリウムIIが発見されたのは1927年のことである。

 オンネスは視野の広い科学者で、立派な研究をするためには背景によい技術陣がなければならないのに気づき、硝子工室、金工室などを完備して研究所内の要求を満足させるだけでなく、外部からの注文も引き受けて常に技術の向上を考えていた。ここで技術を身につけた硝子工は長い間、オランダの国内ばかりでなくヨーロッパ各地で重要人物になっていた。できたばかりのオランダの弱電気工業でも重きをなしていた。オンネスの研究所は第二次大戦までは世界一の低温研究所であり、日本からも物理学の木下正雄先生、化学の鮫島実三郎先生などがライデン大学で低温の研究をされた。

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