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以下の文章は中央公論社発刊の雑誌「自然」1960年1月号より引用した。

朝永振一郎 著 「ゾイデル海の水防とローレンツ」

 1953年にオランダの大物理学者、H・A・ローレンツの生誕百年祭があった。この機会に招かれてオランダに行ったが、そのとき、ローレンツがゾイデル海のダム建設に一役買ったことを知って大いに興味を感じた。先日、このことについて雑誌『科学』に短いものを書いたが、なおひろく人々に知ってもらいたい気がしきりとするので、『自然』から原稿依頼のあった機会に少し詳しく述べさせていただく。

 ご承知のようにオランダは海よりもひくい国である。したがって国のまわりは堤防でかこまれている。それにもかかわらず、しばしば水害に見舞われ、そのたびに、多くの犠牲者を出した。1916年1月には北海からひどい高潮がおそってきて、ゾイデル海のまわりの堤防がニカ所やぶれ、アムステルダムの北方地方に大洪水がおこり、その犠牲は大変なものであった。
 そこで、オランダ政府は根本的な対策として、ゾイデル海の入口をダムでふさぐ大計画をたてた。今までゾイデル海をめぐって作られていた堤防は弱い地盤の上に作られているので、それでは高潮をくいとめる力のないことが明らかになったからである。さらにこの計画の利点は、この新しいダムによって、ゾイデル海は淡水化するので、夏の乾期にかんがい用水の豊かな水源になることである。

 しかし、ゾイデル海の入口をふさぐとき大きな問題が一つある。地図をみればわかるように、ゾイデル海の北方に北海に面してワッデン諸島がならんでいる。この島々とダムとの問にはさまれた部分、すなわちダムの完成後ワツデン海とよばれることになった部分の問題である。ダムを作ればこの部分の潮の上げ下げは必ず以前よりもはなはだしくなるにちがいない。したがって、このワッデン海沿岸の堤防はさらに高いものにしなければならない。これをどれくらいに見つもるべきか。
 これについていろいろの説があった。ある説によれば、ゾイデル海をダムで仕切ってもワツデン海の潮の上げ下げは6インチ増すにすぎないという。またある説によるとそれは12フィート以上にもおよぶという。これでは、ワッデン地方の堤防をどれだけの高さにするかきめようがない。いいかげんのままで、いいかげんの高さで工事を始めれば、もし低すぎるなら万一の場合に大変なことになる。そうかといって高すぎるなら莫大な国費のらん費になる。
 こういう事態で、学者の見解が二つに分れたとき、予算のかからぬ方の説を採用したり、あるいは加えて二で割って、ただちに工事にかかるというのも一つの行き方かもしれなパ。しかし、オランダの政治家はそうしなかった。まずやるべきことは、この問題を科学的に研究することだというきわめて合理的な方針を採用した。1918年に、この検討のための委員会が作られることになり、政府は委員長にH・A・ローレンツを起用した。
 ローレンツは世界的な大物理学者ではあったが、およそ土木事業に関心をもったということは聞かない。その仕事はマックスウェルの電磁気論の完成、工ーテルの本質の究明、ローレンツ収縮、ローレンツの力、ローレンツ変換、電子論など最も抽象的な、純粋に理論的な、かつアカデミツクなものばかりである。彼の仕事がアインシュタインの相対性原理という、これまた最も難解で高踏的な学説に引きつがれたこともよく知られている。土木事業に関する委員会の長として、土木学者でも機械学者でもないローレンツをえらんだことはオランダ政府の大英断であった。
 ローレンツはこれが大変な仕事であることを知っていたが、自己の能力をこの大事業につぎこむことがオランダ国民としての義務であると考えて、これを引受けた。ついでに副委員長は土木工学者のウォルトマンであったことを付記しておく。

 この委員会は1918年に発足して、結論を得るまでに8年かかっている。1926年の11月にすべての報告書がまとめられてオランダ女王のもとに提出された。よくあるような単なる作文ではなくて、八年問研究に研究を重ねた報告書である。
 ローレンツの仕事も、単に委員会を司会して「御異議はございませんか、それでは・・・・・」といったようなものではなかった。
 まず仕事は検潮儀を方々にすえつけて行なう観測から始まった。どの場所にそれをおくかという検討も周密に行なわれた。この観測は委員会の工学部門によってもっぱら行なわれ、ウォルトマンがその中心人物となったが、ローレンツ自身も検潮儀の設計などをやって、一流エンジニアの腕のあることを示した。
 これと平行して、それまでに発表されていたあらゆる文献、データの検討が行なわれた。統計をとる仕事のほかに、これらのデータを海洋学の面からと土木工学の面から批判的に研究を重ねた。
 潮の上げ下げの問題は海洋学者にとっておなじみのものであったが、これまで海洋学者のやっていたのは深い海の問題ばかりである。つまり、水と底との間の摩擦が問題にならないような議論ばかりであった。これに対して水と底との摩擦の問題は土木学者にはなじみ深いものであったが、彼らのやっていたのは川とか運河の流れに関するもの、すなわち定常的な流れの問題ばかりであった。基礎方程式はもちろん知られていたが、島と島との問のすき間から浅い砂底の海になだれこんでくる高潮の動きにあてはめてそれを解くことは大変むつかしい問題であった。
 1920年にローレンツみずからこの問題と理論的に取組む決心をした。まず順序として、暴風時の高潮の問題はあとまわしにして、正常な潮の干満から研究を始める方針をたてた。水の摩擦力は流れの速度の二乗に比例するものだが、それでは問題が非線形になり、とても数学的に取扱えないので、ローレンツはある仮想的な一乗に比例する力でこれをおきかえる近似法(注1)を案出した。そしてこの近似法が果して妥当なものかどうかをU字管の中の液体振動の減衰の実験でチェックしたりした。
 こういう数理的方法は現在でこそ土木工学者にとっても手なれたものになっているようだが、その当時、土木工学者にとってこれははなはだ手ごわい相手であった。しかしローレンツはそれらの人々をよく指導した。しばしば、口−レンツはこれらの人々を自宅によんで討論したりした。また彼みずから計算尺をとって計算したりした。
 この方法を実地にあてはめる前に、まず、より簡単な地形の場所にあてはめて当否をしらべるという慎重な手つづきがとられた。第一にえらばれたのがスエズ湾であって、計算の結果と実際の観測とが比較された。一致は予想以上によいことがわかった。第二にえらばれたのは、やや複雑な地形のブリストル湾であったが、ここでも一致はきわめてよかった。
 これら念に念をいれた予備的な検証に力を得て、いよいよゾイデル海の計算に入った。そして実測との比較によってさらに確信が深められた。
 ここまでは理論の近似度の検証であって、本当の仕事はこれからである。ゾイデル海の入口をダムで仕切ったらどうなるかという予言に入らねばならない。すなわち、ダムの存在という新しい境界条件で計算をやりなおして、前の計算と比較することである。計算の結果、ゾイデル海を仕切ると、ワッデン海の干満の振幅が約二倍になることがわかった。
 この事実は、定性的には予期されていたことであったが、定量的な点がこれで初めてはっきりしたのである。また計算の結果、予想外の事実も明らかになった。それは、ワッデン諸島の島々のすきまの流量が、ダムを作ることによってかえって増すという事実である。ダムを作ればワッデン諸島のうしろの海域はせまくなるから、この流量は減りそうなはずなのにかえって増すというのである。この不思議な現象の理由はなにか、いろいろ考えたがわからない。委員たちは困惑してローレンツにおうかがいを立てた。ローレンツ自身もこの意外な計算結果に驚いたが、約十分のうちにその理由をかぎつけた。その理由は、北海から流れ込む潮の波と、ダムによって反射された波との干渉にあった。すなわちこの干渉の結果、定在波があらわれ、ちょうどワッデン諸島のところが波の節点になり、そこでは振幅は極小、その代り流量は極大になることがわかった。
 わかってみればあたり前のことだが、この計算が行なわれるまでは誰も気のつかないことであった。このことがわかると、ワッデン諸島には高い堤防を作らないでもよいことになる。なぜなら、そこでは振幅が極小になるから。事実、このことが明らかになった結果オランダ政府は数百万ギルダーの経費節約ができることになったという。これはローレンツ委員会の大きな収穫とされている。
 次の問題は暴風時の高潮の計算である。この計算は1921年から始められたが、それには今までの計算法では不十分である。問題は周期現象ではない。したがって、今までやっていたハーモニック(注2)を取出してやる議論ではだめである。また一乗摩擦力で問題を線形化することも今度は許されない。
 さすがのローレンツも、この問題に適切な解法をみつけるのに1925年までかかった。この方法の詳しいことをここに述べる必要はないが、とにかくこの方法によって暴風時の高潮の問題に解答が与えられた。もちろん、暴風というものは来るたびにちがった形でやってくる。したがって、過去の記録からいろいろな場合について計算をやらなければならない。この仕事は他の委員会にゆだねられた。
 こうして1926年に長い業務が終った。報告書の半分以上が、ローレンツ自身の筆によるといわれている。
 その後、この報告にもとづいて、1927年から実際の工事が始まった。初めこの工事に9年の日時が必要であると考えられたが、工事が順序正しく科学的な計画で行なわれたために、1932年にすでにダムが出来上ったということである。すなわち予定より4年早いわけである。
 ローレンツの計算結果はその後暴風のくるごとに検証されている。とくに1953年に南オランダのロッテルダム地方に大洪水を引きおこした高潮があったが、このとき、ワツデン海の高潮はロ−レンツの計算と驚くほどよく一致したという。もちろんワツデン海、ゾイデル海の沿岸にはローレンツのおかげで何らの被害もなかった。

 このごろ、わが国では原子炉の安全性の問題とか、伊勢湾台風の被害にからんで災害予防の問題とか、いろいろな問題が起っているが、以上オランダでの例からいろいろと教訓を引出すことができそうである。
 この教訓は明らかだと思うが、何より気がつくことは、驚くべき科学性である。試行錯誤というやり方も場合によっては必要だが、このときのやり方は一度に成功する方法である。そのためには、科学的な研究が必要であって、ローレンツは近道をとらず、あたかも精密科学のように順を追って問題ととり組んだ。まず基礎方程式をたて、それの近似法を考え、その近似の度合を実験でチェックし、次に簡単な場合から次第に複雑な場合に、一つ一つ実地の観測とてらし合せ、十分な確信を得てから本論にとりかかった。このとき、彼が理論物理できたえた数学の腕と、物理的な感覚と直観カが大いに物をいって、今までの海洋学者と土木工学者には全く手におえない問題が解かれていった。このローレンツの力と熱意とからわれわれは大いに学ばねばならない。
 次に、この大事業をこのような科学的なやり方で出発させたオランダの政治家の識見に敬意を表さざるを得ない。ローレンツを起用したのは彼らの大きな手柄である。そして、急がずあせらず、8年もの検討をローレンツに許した度量と科学者に対する信頼とは範とすべきだと思う。またローレンツの指導のもとにそれに協カした多くの技術者たちの功績も大きなものであるにちがいない。
 とにかく、これは政治家、科学者、技術者の最も美しい協力の例であり、それがまた驚くほどみごとに成功した例である。
 以上は、ローレンツ生誕百年祭にあたって出版された、、“H.A.Lorentz,Impression of His Life and Work”という本の中のJ.Th.Thijsseの「ゾイデル海の閉鎖」という論文をもとにして綴ったものである。このThijsseという人はローレンツと協力してこの仕事をした工学者であるらしい。この人がその文章を終るにあたって次のように述べている。

 Lorentz put a whole section of engineering on a scientific foundation. After the Zuidersee we know that even in very complicated cases it is possible to stick to a strictly theoretical method, that approximations, which are always necessary, should be justified and their consequences checked. Half a century ago many operations were jumps in the dark indeed. . . . . . . Now this is calculated in advance. . . . . . .

 わが国のいろいろな operations は現在でもなお Jumps in the dark のように思われてならないが、これがもしまちがいであれば幸である。

(注1)ローレンツが電子論の中で輻射の反作用の扱いのために工夫した近似法の応用と思われる。
(注2)振動数のきまった運動。