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学校教育の役割

学校教育が果たすべき役割は三つある。

1.人類が獲得・蓄積してきた知識を子孫に伝える

(1)伝えるべき知識の体系

教育の一つ目の役割は人類が獲得、蓄積してきた知識を子孫に伝えること
 これは原始時代の狩猟採集生活の段階から教育の一番根元的役割である。如何にして獲物を捕るか、どれが食べられる植物か、それは何処に生育しているか等々を教える。親が子供に、実地の狩りや、食物採集の道すがら教える。また言語を操る事ができるようになってからは、色々な物に名前をつけて呼び方を決め、様々な概念に名前を付けて言語の体系を作った。それを用いて日常生活の会話の中で教えてきた。また文字が発明されてからは様々な記録物に書き留められ伝えられた。さらに印刷術が発明されてからは莫大な書物に記録され、コピーされて伝えられた。

 農業、漁業、林業が発達するにつれ子孫に伝えるべき内容はどんどん増えた。いつ種をまき、いつ収穫するか、肥料をどうやって作り、どの段階で施すか。害虫を防ぐにはどうするか。魚はどの辺にいるか、潮の流れはどう読むか、天候はどう予測したらよいか、魚を捕る仕掛けはどの様に作ればよいか。どの木がどの様な性質を持っているのか、炭焼きや製材の技術。植林や下刈りの技術。伐採して運搬する技術。運搬に河川を使うにしても、河川改修や水利管理の技術。舟や港の建造技術、等々様々な技術の伝承が加わってくる。これらの技術はノウハウの塊で伝達すべき知識の量は膨大である。
 さらに工業が起これば、製鉄の技術、鍛冶屋の技術、鍬や鎌や鋤きの造り方。頑丈で軽い大八車はどうやって作るか、家はどうやって建てるか。さらに技術が進んで自動車の作り方、飛行機の作り方、モーターや発電機の作り方。発電のしかた。電力送電のしかた。ラジオやテレビの作り方、様々な工場の運用のしかた。伝えるべき知識の量に際限がない。
 もちろんこういった技術ばかりではなく、この社会をうまく運営するための知識がいる。政治機構はどうする。選挙のやり方はどうする。経済をうまく成り立たせるためには貨幣を造ろう。貨幣はどの様に運用するか。新しい工場をつくるのに資金がいる。資金の調達のための仕組みはどうするか。それらをうまく機能させるために指針となる法律を作ろう。法律をどの様に作ったらよいか。等々・・・・政治、経済、法律と言った社会学的な膨大な知識の体系も必要になる。

 とにかく人間は原始時代から考えると比較にならないほど複雑で厖大な社会を作り上げ、目を見張るような高度の文明を築きあげてきた。人類は今や瞬時に何千キロも離れた人と会話し、情報を交換できる。何百キロも離れた発電所で作り出されるエネルギーを湯水のように使って夜を明るく照らし、洗濯をさせたり、掃除をしたり、調理をすることができる。電気の力を用いれば何千トンもの重量物を動かしたり、持ち上げたりできる。どんな動物よりも速く地上を移動できる。鳥よりも速くそして高く大空を駆けめぐることができる。人類は他の惑星へも到達できる。
 これらの文明の成果を改めて思い返せば目くるめく思いがする。これほど高度で膨大な、そして互いに複雑に絡み合って影響しあっている人間社会を営むには多くの知識や智恵の集積が必要である。それらの知識を子孫に伝達しなければならない。それぞれの家庭で、それぞれの地域社会で、それぞれの仕事場で日々子孫に伝えられている。それらの伝達の中で子供達を一所に集めて伝えた方が効率が良い平均的・普遍的な知識もある。つまり学校という場所で教えるのが最も効率がよい内容というものがある。そう言った知識の伝達は学校で行われるべきである。
 学校で教えられている知識などは役に立たないという人がいるが、それは間違っている。知らず知らずにそれらの知識は人が生きていく上で役にたってる。家庭で知らず知らずのうちに行われている知識の伝達もある。また職場で伝達しないとうまくいかない知識もある。それらの知識はそれぞれの場で伝達されればよい。そして学校で伝達するのが最も効率の良い知識もある。そこは学校教育が頑張らねばならない所であるし、生徒諸君は学校でしっかり勉強しなければならないところである。

(2)複雑化・高度化する知識

 文明が発達するにつれて、その伝えるべき知識の量は増大し、複雑化し、難解なものに成ってくる。経済の分野に於いても、かっての読み書きソロバンのレベルから、帳簿記録技術の発展に伴う会計学の成立、複雑な金融理論を駆使しての資金運用、等々。時とともに複雑難解なものに発達してきた。医学の分野においても今日の医学生は生化学、分子遺伝学、分子細胞学、等々の分厚い教科書を読みこなしそれらを習得しなければならない。その膨大な知識の体系は今日気が遠くなるほどの量に成りつつある。理学においても工学においても集積された知識は産業革命当時とは比較にならないほど膨大な量になった。私が生まれた後の最近50年間の進歩に限っても目くるめくものがある。もはや個人がすべてに通じるのは不可能である。
 文明が発展するにつれて、その最先端の知識の体系は複雑で難解なものになり、多くの分野に枝分かれした。そして悲しむべきことに、その難解な知識を理解し継承できる者も一部の者に限られてくる。最先端の高度な知識の体系を継承するにはたぐいまれな高度な能力を必要とするようになった。もはやそれらの知識を継承する機会が万人に等しく開かれているわけではない。
 ここが難しい。先人の知識の遺産を継承することについては、学校は生徒の能力に応じて知識を授け無ければならない。能力ある生徒には高い知識を、そうでない生徒にはその子なりに理解できる知識を授ける。すべて一律に理解させようとすると無理が生じる。すべての者が同じように理解しなければならないわけではない。人は自分の能力を正しく秤り、自分に適した分野、自分で継承可能なレベルの知識の習得に努力する。そして自分の能力で可能な範囲で知識を継承し、それを役立てて社会に参加する。そのため多様な学習の場が存在し、多様な選択枝が存在する。自分がどの分野の知識の継承に向いているか、どの程度までの知識を継承する能力を持っているか見極めることが大切。

 文明の進化は人類にとっていかなる事を意味するのか?インターネットの普及を例にして考えてみる。インターネットの技術は偉大なアイディアの積み重ね(別稿「ネットワークを支える6つの技術」参照)と、半導体、集積回路、電子技術の発展の上に成立した。ネットワークの技術は日々発展しており、その内容は厖大な物になり、もはや素人がその全貌を理解するのは不可能になりつつある。
 その様な技術の発展があると、いつも最初はその技術を理解でき利用できる人と、それが理解できず利用できない人々の区別が生じて、両者の間に利益・不利益の差が生じると議論されてきた。しかし、そういった技術革新を沢山経験してきた我々は、そういった技術によるデバイドはやがてなくなることを知っている。
 確かにテレビやラジオが発明された当初は、その原理を理解した人が作り・組み立て・修理できて優先的にそれらの技術を利用できたかもしれない。確かにライト兄弟の時代に飛行機を作って飛ばすには、流体力学の知識・エンジンの知識・飛行の理論は必要だったかもしれない。しかし現在はテレビの原理をまったく知らなくてもテレビを利用できる。飛行機のメカニズムをまったく知らなくても飛行機を乗り物として利用できる。最近はやりのIT技術もそうである。確かにかっては一般人も多くの事を勉強しなければIT技術を利用できなかった。しかしそういったデバイドはすぐに解消する。解消するための方法が模索され、解消するための技術が開発されて、すぐにより使いやすく、より簡単になっていく。そうすることでより多くの人が利用できるようになり、普及することがその技術に関わる人々の儲けになるからだ。

 たしかにテレビや飛行機やインターネット等の装置をつくる為には厖大な知識が必要だし、それらを開発する技術者には大いなる能力が必要とされる。だからその方面に適した能力を持った一部の人しかできない。しかしそれを使いこなすのは誰でもできるようになる。それらをつくる為の知識を獲得する能力が自分にないからと言って悲しむ必要はまったく無い。別の分野でその人なりの勉強と努力で習得できる知識はあり、そのことにより世の中の役に立つ仕事ができる。第2項で述べるように、いかにしてそれを見つけるかである。

(3)人類に取って文明の進化とは

 今までのいずれの変革もそうであったが、新しい道具・技術が普及浸透すると、確実に状況は変化する。単なる道具でしかないのだが、それまでと全く異質の能力を秘めた道具や技術は世の中を変化させ、人の生き方を変える。
 人間の遺伝子は短期間にそんなに変われない。人間の本姓はそんなに簡単には変われないが世の中はめくるめくほどに変わり便利になった。電気、車、飛行機、電話、テレビ等々の発明、発展、普及の結果を考えて見よ。今はやりのIT技術や携帯電話もそんなに急速に変われない人間能力に合わせて、すべての人々が使いこなせるように進化してきた。過渡期には色々な不都合や矛盾が生じるが人間はそれらをやがて賢く利用できるようになる。IT革命の内部をすべて理解できるほど人類全体が賢くなれないが、それらを旨く利用するには十分に賢い。それらの道具の新しい使い方を編み出していく能力を今の人類は持っている。どんな高度で難しい技術もやがて誰もが使いこなせるように簡単化され普及していく。

 しかしここで一つの疑問が生じる。例えば丸木舟で魚を取っていた人が大きな網を引けるエンジン付の強力な舟を買ったとしよう。舟が大型化して沢山魚を捕れるようになった。しかし、舟を買い舟を維持するために沢山の魚を取らねばならない。そして儲けたお金で舟を作った人、エンジンを作った人に代価を支払い、船を動かす油を買わねばならない。そうして支払われたお金が製造業者やその他を養う。工業が発達する前の丸木船の時代と比較すると、次々に新しい職業が生まれ、仕事の分業が進みおのおのの生産量が上がり忙しくなった。全体として皆が、新しく生まれた物、より多くのものを享受し消費できる豊かな社会になった。確かに豊かになったが、それで人間が幸せになったかは疑問である。
 丸木船の漁業の時代には丸木船も漁具もすべて自分で作って準備できた。だから自分が食べるだけ、自分が生きるのに必要なだけ魚を捕れば良かった。後は寝て暮らすことも可能だった。
 上記の二つの生活のどちらがその人に取って幸せか?それは解らない。それはその人の感じ方、生き方そのものにかかっている。物は無くても精神的に豊かな生活ができる人もいれば、いくらあくせく働いても満足できない人もいる。文明の進化を無批判に崇め奉る必要はない。
 文明は個々の思いとは裏腹に否応なしに発展していく。知識や技術は否応なしに蓄積され、それらが社会を変え、生活を変え、生き方を変えていく。文明発展の成果は淡々と受け入れざるを得ない。受け入れるとき、その中の何が良くて何が悪いかを見極め、そのときそのとき最善の方向を選択して行くしかない。
 確かに行きすぎや過ちも起こるだろう。車文明を見直し、道路を造るときには歩道と自転車道を必ず優先的に作ろうとか、原子力発電はやめて風力や太陽光発電で行こうとか、化学肥料や殺虫剤はやめて有機農法に帰ろうとか、現在様々な事が言われている。行き過ぎを戒め進路の訂正も起こるだろう。ただしこの訂正は過去への逆戻りではない。新しい形への深化であり展開である。自転車文化もかっての自転車とは全く違う。風力発電も有機農業も科学的により進化したものだ。

 結局、人間にとって何が良いのか解らない。ただ一ついえることは、最先端の微細な知識や技術もさることながら、大局見地から世の中の事(世界のこと、自然界のこと、社会の仕組み、人間の営み)が解るようになる事である。そこが解ればどの様なことが起こっても、うろたえることはない。あらゆる事態に対して適切な判断が可能になる。適切な判断こそ誤りのない発展を生み出し、誤りのない発展こそ人心の安定・社会の安定を生み出す。
 中でも一番大切なことは人間そのものが解ることである。人間とは何かを論じた知識の体系を学ぶことである。人間が解ればすべての事柄に達観できる。その達観こそが適切な立ち居振る舞い、身の処し方を可能にする。適切な立ち居振る舞いこそが、周りのすべての人に心の安らぎを与え、それが振り返って自らの心の安らぎと生き方の安定を生み出す。

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2.複雑で互いに依存しあっている現代社会で、何を仕事とし、どんな形で参加するか見つける手助けをする

(1)自分の能力と特質を見極める

 今日の人間社会は複雑すぎてすべての事を一人でこなすことができない。そのため様々な職種に細かく分業が進み、お互いに依存しあって生きていかねばならなくなった。教育の二つ目の役割は、この複雑な社会で、人それぞれが何を自分の仕事とし、どんな形でこの社会に参加していくか、各自の生き方を見つける手助けをすることである。この社会の中での自分の状況を理解して生き方を確立し、その生き方を他人と調整していくやり方を学ぶこと。それぞれの能力気質に応じて生きる道を選ばせ、篩(フル)い分けて、各自の能力気質をうまく発揮できる術(スベ)を身につけさせることです。
 学校には様々な人が集まっている。様々な性格、気質、能力の人が一つ所にいるから良い。最近の高校生の中には自分と違う人と一緒に生活しなければならない学校という場にストレスを感じて学校に行きたくないという人が増えています。しかし難しく考えないで下さい。人と比較しなければ自分の特質は解らない。人と比較しないと自分の生き方を見つけるのは難しい。自分の生き方を見つけるために、雑多な人が集まっている学校という場を利用するのだと考えて下さい。

 学校では進路の篩い分けを勉強の能力や試験の点で試みるが、おおざっぱに生徒を篩い分ける方法としては実は一番簡単で効率のよい方法です。ここで勘違いしたり、腹を立てたり、落ち込んだりしないで欲しい。自分と他人がどう違うかをおおざっぱに知る第一段階としては一番簡便でわかりやすい方法だというだけです。試験期間になると理不尽なほど机にしがみついて、本を読み問題を解きアクセクアクセク努力しなければならない。悔しいけど同じように努力しても試験の点が良くて成績の良い人もいればそうでない人もいる。また集中していくらでも勉強できる人もいれば、すぐに飽きて長続きしない人もいる。しかしそれはそれで良い。それが一つの篩い分けなのだから。
 学力による区別は自分の生きる道を見つける上で一番最初のおおざっぱなふるい分けです。試験期間になれば、誰もが「何でこんな勉強をしなければならないのだ!」「こんな事を暗記して何の役に立つのだ!」と思う。その思いはある意味では正しい。君達になぜこんな辛い思いをさせ勉強をさせるのか?それは、この辛い試練に耐えるかどうかがためされているからだ。ふるい分けの機構なのだから理不尽に難しい問題もあるし、生きていく上でたいして役に立ちそうもない事柄も多い。自分が好きでもない分野の勉強をしなければならないこともある。でもそれで良い。学校生活を送る内に、どうも自分は数学は好きではないぞ、とか社会のような暗記科目はとてもじゃないがやっておられんとか、どうもスポーツの才能は自分にはないなと、自分の向き不向きが段々解ってきます。それと同時に、自分が苦手な分野の問題が楽々解ける人がおり、自分の苦手なスポーツや音楽に優れた人がいることも解ってくる。
 数学や物理の問題が楽々解ける能力や、音楽やスポーツの才能が無いと話にならない分野もある。考えてみて欲しい。物理学が理解できなければ橋や建物を設計できない。モーターや自動車を作れない。発電所を運用できない。だれも力学の理解できない人に橋を設計して欲しくないでしょう。能力を持った人が設計しないと橋が崩れてしまう。また病気になって医者にかかるときも医学の知識のある人に見て欲しい。また外国と商取引をする商社では外国語が話せないと仕事にならない。だったら英語の能力が必要。新聞社や雑誌社に勤めて、さまざまな情報を大衆に伝える記者になろうと思えば正しい日本語が使いこなせる国語力がなければ話にならない。料理をちゃんと作ろうとすれば家庭科の知識が必要です。裁縫が好きでなければ洋裁店に勤めても楽しくない。音楽会に行ったとき、できることなら優れた演奏家の演奏を聴きたい。
 数学や理科が得意な子もいれば苦手な子もいる。国語や英語や社会が得意な子もいれば苦手な子もいる。音楽やスポーツが得意な子もいるが、その逆もいる。とにかくこの世の中の仕事でその方面の知識や、才能がないと駄目な分野は多いことです。だからまず、各方面で必要な学力や才能で選別される。その方面の能力が無かったら、他の自分の能力を生かせる分野で勝負した方がよい。それが世のため人のためそして自分の為です。だから自分と他人は何処がどう違うのか良く見極める。大切なことは優劣を付けることではなくて、違いを知り、違いを認めることです。

(2)様々な能力

 ここで注意しておきたいことは勉強ができなくても落ち込むことは全くないということです。例えば普通の意味で頭の良い人といった場合、宇宙論や素粒子理論を論じている理論物理学者のような人を想像するでしょう。一般相対性理論など凡人が幾ら努力しても理解することは不可能です。そんな抽象的・論理的思考が得意な明晰な頭脳を持った人がいます。確かに世の中には素晴らしく頭の良い人がいます。しかし、そんな意味で頭が良い人だからといって、優秀な教師になれるでしょうか。優秀な新聞記者になれるでしょうか。優秀な工場ライン管理者になれるでしょうか。優秀な料理人になれるでしょうか。優秀なサラリーマンになれるでしょうか。優秀なデパートの販売員になれるでしょうか。優秀な建具職人になれるでしょうか。優秀な農業従事者になれるでしょうか。優秀な漁師になれるでしょうか。全くそうでないことはすぐに解る。それぞれの職業には単なる頭の良さ以外の何かが必要です。よく考えれば、頭の良い人が職業選択の幅が広いかというと全くそうではない事が解る。あえて言えば学力テストが苦手な人の方が職業選択の幅は広い。
 勉強のできるできないや学力の善し悪しで選別するのは一番簡便で効率が良いからと言ったが第一段階の篩い分けで働いているだけですから気にすることはありません。すべての人が論理的思考力や記憶力に優れていなければならないという訳ではありません。うんうん頭を絞って努力しても成績が全く伸びなかったらやる気がなくなりますが、その時は別な道を探そう。もちろん努力もせずに諦めたらだめです。もしかしたらその方面の才能が眠っているかもしれません。私が言いたいのは幾ら努力しても追いつけない部分の才能差のことです。確かに学力や知力を必要とする職場があるのも事実ですが、すべての人がそう言った職業に就くわけでもありませんし、そういった職業の人たちばかりでこの社会が成り立つわけでもありません。そう言った職場はそう言った方面の能力に優れている人に任せておきましょう。それ以外に膨大な種類の職業が必要なのです。たまたまそういった能力に恵まれなかった人も他の能力を持っているわけですからそれらの能力が生かせる職場を探しましょう。人間の持つ能力の中では、学力テストで計れない能力の方が多いし、学力テストで計れない能力が大事な職業の方が遙かに多いのですから。

(3)成功の秘訣は心持ち謙虚になり誠実に振る舞うこと

 分業で成り立つ複雑な現代社会で生きていくことは、他人と自分の違いを理解して、他人の良いところは素直に認め、自分の良いところは恥ずかしがらずに主張して、お互いに認めあって生きていくことです。そのために様々な能力や気質の人が一つ所に集まっている学校の役割は大切です。そういった場で感じる優越感や劣等感も大切な感情です。学校の役割は、そこで感じる優越感や劣等感をうまくコントロールする方法を身につけさせることです。大切なことは、優越感で威張ったり劣等感で落ち込んだりするのではなく、違いを知って互いを認め合うことです。落ち込んだりドロップアウトするのは、その辺の認識が上手にできないからです。他人と比べて、この方面はあいつには負けないぞと一生懸命努力して競争することも大切です。そうすることでその人の能力は磨かれるでしょう。あるいは能力の違いを知ってあいつにはこの方面ではとてもかなわないから降参だ、この方面は君に任せようでもいい。その代わりここは自分が頑張るで良い。自分が特異な分野で威張ったり、それを誇ってもしょうがありませんよ。自分が苦手な分野では他の人に助けてもらわなければならないのですから。大事なことは違いを知り、違いを認めることです。

 雑多な人間が集まった集団の中で大切なことは、謙虚で誠実に振る舞うことです。それを学校という集団生活の中で学ぶ。人間関係のなかで最もやっかいなのが嫉妬の感情です。ねたみそねみの応酬ではお互いの発展はありません。嫉妬をコントロールする方法は自分のことを誇大に思わないことです。自分への評価を心持ち下げて謙虚に考える。そうすれば他人の良いところを素直に認めることができ、自分の持ち味を充分発揮して他人と上手くやっていける。そういった方法が学べるのも学校という場です。
 勉強だけ、学力だけではありません。普段の生活一般、責任感、信頼性、公共性その他すべてのことについて学ばねばならない。責任感がなく、信頼性のない人は、クラスの中での立場において、家族や地域社会の活動の中の評価において、それなりの判断を下されている。そのことから仕事の範囲も狭まるし、他の人からの信頼感も薄く、その人自身が損をしている。生徒は見ていないようで互いにそれぞれを観察しており、お互いを把握し、しっかり評価し合っている。教師がことさら言わなくても、キチンとしている子はそれなりの評価を受け、それなりの信頼感を得ている。そうでない子はそれなりの評価しかもらっていない。責任感がない人、信頼性がない人もそれらが必要だと言うことを様々な活動を通して学ばねばならない。生徒主導でやらねばならない様々な生徒会行事、体育祭や文化際などでは特にそれらの事を学べるだろう。
 誰でも努力次第で自らを改善できる。教師は、生徒がちゃんと公共活動の掃除や奉仕作業をするように、生徒としての責任と義務を果たすように、遅刻をしない、時間を守る、約束を守る、嘘をつかない、ゴミを捨てない、人の物を盗まない、身だしなみはキチンとする等々基本的な生活習慣をしつけてやらねばならない。教師は、そういったルールの執行者にならねばならないこともある。しかし教師の本当の役割は、法律の番人になることではなくて、生徒それぞれの状況を認めてやった上で、それらができない場合はどういった生き方になるかを気付かせてやる事だと思う。

 結局学校は人間関係の調整法を学び、仕事のやり方を学ぶところです。掃除やクラブ活動や学校行事で自分の役割を見つけ、自分の能力を自覚して、他人と協力しながら一つの仕事をやり遂げる。学校は、雑多な気質・能力の人々が集まって様々な事をやる為の場所と機会を与える所です。勉学のみならず、様々な課外クラブの活動、野球応援・体育祭・文化祭などの学校行事もそういった事を身につける機会である。学校とは生徒それぞれの人柄を磨くところ。人柄を磨くと言うことはどういう事か、人柄で大切なのは何かを学ぶ所。教師の役割は、生徒が学校という場の中で様々な活動を通して上記の事柄を学んでいくことを見守り・支え・助けること。暖かく見守ってやるが、突き放して自ら模索させることこそ大事だと思う。

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3.努力することの大切さや素晴らしさを教え体験させる

(1)努力して得られた成果こそ尊く素晴らしい

 私は山が好きで、若い頃はテントと寝袋・食料を背負って山に登っていました。重い荷物が肩に食い込み腎臓の透析能力を超えた過酷な運動で体はパンパンになるが、そうして苦労して到達した山頂こそすばらしい。車やヘリコプターを利用して山頂に降り立ってみても何の感慨もないだろう。大事なのはそのことが、その人に取ってどんな意味を持つかです。
 教育の三つ目の役割は、努力することの大切さや素晴らしさを教えることだと思う。どんなに才能があっても努力して磨かなければ開花しません。物理学で有名なアルバート・アインシュタインも学生時代はヘルムホルツの著した物理学全集などを徹底的に勉強しています。名を残した学者は才能もさることながら、若い頃に人知れず尋常でない努力をしています。その分野の基礎理論を徹底的に勉強していますし、厖大な労力を研究に注ぎ込んでいます。プロの音楽家もスポーツ選手も尋常でないトレーニングをしています。つぎ込んだ努力が多ければ多いほど、見る人により強い感動を与える。
 音楽家になるにも、技術者・科学者になるにも、プロのスポーツ選手になるにも厖大な努力が必要です。その努力の結果獲得した能力に伴って得られる成果や快感は、努力が大きいほど、また努力の結果到達できた能力レベルが高いほど大きい。そしてその獲得した能力から得られる成果に対する報酬も大きい。
 確かに前項で述べたようにすべての人がプロの音楽家としてやっていける才能に恵まれているわけではない。誰もが優秀な科学者になれるわけでもない。誰もがプロ野球やプロサッカー選手とし働ける訳ではない。そこまでの才能がなかったらあきらめるしかない。しかしプロの音楽家になれないからといってピアノを練習してはいけないという事はない。われわれ凡人でも暇を見つけてピアノ練習をすれば、ポピュラー音楽の一つくらいは演奏できるようになる。そのとき自分の弾くビアノで聞く音楽はまた格別の喜びをもたらしてくれるでしょう。プロ野球選手になるほどの才能に恵まれていなくても草野球を楽しめる。練習してうまくなったら、スポーツは誰にとっても楽しい。マラソン選手のように早く走れなくても気持ちよいジョギングはだれでも努力次第で可能です。別に科学者にならなくても物理の勉強は面白い。物理理論を習得した目で見ると、多くの現象がそれまでとまったく違った魅力と輝きを放ち、世界が違って見えるでしょう。プロの料理人になれるほどの才能は無くても、料理の研鑽を積めば誰もがおいしい料理を作り、味わうことができる。
 もっと身近な例では練習して一輪車が乗れるようになったら大人でも楽しい。水泳を練習してクロールでいくらでも泳げるようになったら泳ぐことがやみつきになる。スキーが上達して尾根伝いに眼下の里まで一気に滑走できるようになったら、その爽快さは筆舌に尽くしがたい。トレーニングを積んで42.195kmを走り切れたら感動ものだ。秋の夜長に集中して勉強して一つの物理理論を理解できたときは至福のひとときを味わえる。
 前項で述べた意味で確かに今の自分にその方面の能力、才能がないかもしれないけれど、その方面の努力をしていけないということは断じてない。運動神経が鈍くても、練習すればどんなスポーツでも着実に上達し旨くなる。少しでも上達すれば楽しさや、充実感が得られる。これはあらゆる能力あらゆる才能について言える。他人は他人、自分は自分なのだから人にとやかくけなされる事は無い。下手だろうと鈍かろうと自分で良いと思ったら良い。自分で楽しめたら良い。どんなことでも努力して上達すれば素晴らしい快感が得られる。

(2)努力目標を適切に設定する

 努力するとき注意すべき点は、各自のレベルに併せて目標を設定すること。すべての生徒が同一の目標を達成できるはずもなければ、その必要もない。個々の生徒が自分ながら進歩したな、上達したな、成し遂げたなと実感できる努力をすればよい。そういった事が体験できる学習活動、学校行事、課外クラブ活動等に積極的に参加しよう。 文化際の様々な企画も、たった一日の発表や展示の為に多くの時間をかけ努力する。たった1日の為にそれほど努力するのはバカバカしいかもしれない。しかし沢山の苦労・努力があったほど、成し遂げたときの達成感・充実感は大きい。剣道の練習でも修練を積めば必ず上達する。ほんの少しずつではあるがその上達が実感できる時がくる。それを実感できたときはとても素晴らしい。成し遂げる為に努力することの大切さや、成し遂げたときの達成感の素晴らしさを学ぶこと。これこそ教育の醍醐味。
 生徒が努力することで実力を付け、自分を高見にもちあげていくのを助けてあげることができれば、それこそ教師の最大の喜び。教師は低いレベルだろうと高いレベルだろうと生徒が上達するのを見るのは楽しいし嬉しい。これは、剣道などの課外クラブを指導していて感じる。それは課外クラブのように少人数で、毎日継続的に指導できる場合だから特に感じるのかも知れない。クラブ活動など教師はこの点において大いに頑張らねばならない。物理や化学の多人数に対する一斉授業ではなかなかこうは行かないが、生徒が学習を積んで知識を自分のものとしていく過程を見るのは楽しい。こういった座学についても、課外授業や、質問に対する返答や、小論文指導等などでカバーしながら教師は頑張らなければならない。また文化祭などの行事でも教師のちょっとした援助が生徒に思わぬ力を発揮させる場合もある。彼らが予想外の努力をし、予想外の成果を上げたときは特に嬉しい。
 いずれにしても努力が必要な目標を設定し、それにチャレンジし、努力し、そして上達して高見に昇ろう。その過程こそ教育の本質があり醍醐味がある。

(3)努力の結果得られた職能こそ人の生き方を決める

 素粒子物理学のように、凡人には簡単に踏みいることのできない世界があることも事実です。しかし、それが科学のすべてではない。理論上の発見は難しいが、新しい物質や現象を実験から発見することなら誰にでも開かれている。未知への憧憬、好奇心と感性、柔軟で前向きな思考、観察力、分析力、洞察力、根気と執着心、行動力、長年の経験等々があれば科学者としてそれなりの仕事はできる。中でも根気、努力、執着心はとても重要。私のように理科教師となり高校生諸君を教えるのも、とても楽しい仕事です。
 たとえプロの演奏家になれなくても、ピアノ教師の資質に恵まれているかもしれない。調律師に適した優れた耳を持っているかもしれない。たとえプロの作家になれなくても小論文の通信添削員にはなれるかもしれません。地方雑誌の編集者になれるかもしれません。また国語の教師に向いているかもしれません。本が好きなら本屋さんの店員でもいいではありませんか。
 それが好きな道ならば。たとえプロ野球の選手になれなくてもスポーツインストラクターかスポーツ施設の管理者になれるかもしれません。趣味で余暇に指導する少年野球の監督も面白いかもしれません。
 もっと身近な例では、八百屋、魚屋やパン屋を営業するにも多くの知識・技術の修得が必要。デパートの店員、スーパーのレジ打ちにしても商品の知識、接客のノウハウ、商品取扱の技術、会計のトレーニングが必要。それぞれの職場で多年の経験を積むことにより知識・技術は深化しプロフェッショナルな領域に近づいていく。
 たとえその方面で超一流の才能に恵まれていなくても自分の好きな道、自分に適した道で努力を重ねればたいていは何とかなる。要は決してあきらめない。大事なのは第2項で述べた方法で自分に適した道をみつけ、自分に合った仕事を見つけ、稼いで生きていく術を見つけること。その職業が自分に合っていて好きなら、いくらでもその方面で地道な努力を積み重ねることができる。十年努力を積めばその職業に習熟することができる、そしてたいていはその道でひとかどの者になれる。ひとかどになれば、獲得した職能に基づく凛冽たる自信を養うことができる。その自信こそが精神の安定を生み、生きる力になる。

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