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フランツ・E・シモン(Franz Eugen Simon)

奥田毅 著「低温小史−超伝導へのみち」内田老鶴圃(1992年刊) から引用

 シモン(Franz Simon 後に Francis Simon 1893〜1956年)はベルリンで生れた。父はユダヤ系の不動産業者であった。ミュンヘンやゲッチンゲンの大学で教育を受けていたが、第一次大戦が始まり砲兵として活躍中、1915年に負傷した。しかし勇敢に闘ったとみえて、その年には2級鉄十字勲章、1918年には1級の同じ勲章をもらった。鉄十字勲章は戦功のあった軍人に与えられるものである。戦後はしばらく負傷の手当てを受けていたが、1919年の初めにはベルリンに帰ることができた。翌年2月にはベルリンのフリードリッヒ・ウィノレヘルム大学に入学を許された。しかし戦後のすごいインフレのために学習はまことに困難であった。ドイツの各大学は復員してきた学生のために補習教育を始めた。そのときネルンストに出会うことができた。
 1920年2月からネルンストの指導で研究が始まり、“低温度における比熱”という題目をもらった。1925年には講師になる。低温の研究には気体の液化機が必要なので、シモンはまず水素液化機を設計した。これは好評で、ドイツ各地の研究室ばかりでなく、アメリカの大学でも使用されるようになった。
 次はヘリウム液化機であるが、できるだけ少量のヘリウムを使って液体ヘリウムを得ることを重点にした設計であった。ヘリウムの入手が非常に困難であったからである。大量の液体ヘリウムは得られないが研究に必要な量は得ることができた。1931年にはブレスラウエ科大学の教授になり、翌年にはバークレー大学の客員教授に招かれた。シモンの考えた液化法で液体ヘリウムをつくってみせたが、これがアメリカで最初のヘリウム液化の実験である。
 その頃ドイツではナチスの勢力が盛んになりユダヤ人への圧力が強くなってきたので、1933年1月ヒットラーが政権を握るとシモンはドイツを去る決心を固めた。思いあたるのはオックスフォード大学教授になっているリンデマン(F.A.Lindemann)である。彼はネルンストの指導を受けていた頃のシモンの兄弟子になる。リンデマンは政治家はだで野心家でもあったので、自分が属しているクラレンドン研究所に有名なドイツから亡命した科学者達を迎え入れ、ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所に劣らない研究所をつくろうと決心した。そして化学工業の大会社であるICIへ出かけて費用を引き出してきた。
 シモンは1933年5月、ヘリウム液化機2台をもち、ナチスの目を逃れてオックスフォードに来た。ここで彼が考えたのはネルンストの熱力学第3法則がどこまで正しいかを確かめることであった。それにはできるだけ0Kに接近しなければならないので磁気冷却法を考えた。強大な電磁石が必要であるがクラレンドン研究所にはなかったのでまずそれを準備し核磁気冷却に取りかかった。途中で第二次大戦があったので実験は遅れたが1956年、シモン死去の少し前に成功した。まず今までによく知られた磁気冷却で0.02Kまで冷やし、それから核磁気冷却で0.00002Kあたりまで冷却することができた。

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