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日本鋼管福山製鉄所を見学して(1998年8月)

 見学会では本当にお世話になりました。お礼の申し上げようもありません。見学会・懇談会の感想を含め日頃の考えなり意見なりを以下に申し述べます。

1.見学会から得た「鉄鋼業の感想」

 以前工業高校に勤めていた関係で、私の住む地方にある製鋼・圧延工場を何度か見学する機会がありましたが、製銑、製鋼、熱延、冷延を連続生産をする本当の意味での製鉄所の見学は初めてでした。一貫生産する製鉄所を見学して、あらためてその巨大さ、大がかりさに驚き、その見事な連携に新鮮な感銘を受けました。重厚長大の巨大産業の面目躍如の工場群や出荷現場を見て、鉄はあらゆる産業の基礎的な材質であり、製鉄業は製造業のまさに根幹をなすということを強く実感しました。
 製鉄業界は1973年の石油ショック以後めざましい技術革新を積み重ねられ世界一の生産性と品質を達成されていると聞きます。早くから国際競争に曝されてきた製造業の浮き沈みは激しく技術革新を怠ると他のメーカーに追い越され生き残るのは難しいと聞きます。製鉄業が日々連綿と技術革新を実行されており、廃熱の利用、工業用水の再利用、石炭の使用効率の改善、とくに微粉炭吹き込み、転炉前不純物処理、連続スラブ鋳造や、圧延技術の革新等々の成果が積み重ねられた様子が良く理解でました。
 また、様々な工場を見て、設備が巨大であるが故に建設に莫大な投資と時間がかかるために、技術革新には時間がかかりそうだという感じも受けました。ある程度時間がかかるが、ゆっくり着実に不断の改革が進んでいるという感じも受けました。さらに手をつけるべき改善可能場所はまだまだたくさんあり、将来にわたってその改善革新が続いていくことを予感させられました。

 ところで、製鉄は成熟産業で鉄の生産量、消費量とも頭打ちで将来の増大があまり見込めないとか、現在はある決まった生産量のパイを大手鉄鋼五社あるいは海外の競争相手と分け合っており、その業界内での競争が激しく将来性が無いと言うような意見も聞いています。
 しかし、わたしはそのように考えるべきではないと思います。むしろ上記の状況は以下の様な理由で歓迎すべきものであると考えます。
 一つの例ですが、最近軽量強力鋼材の開発などで自動車でも高層建造物でも鋼材の使用量のさらなる減少が目指されていると聞きます。そう言った鋼材が開発されれば鉄の消費量は増える事はないかもしれません。しかし、我々一般人にとっては、それこそまさに望むべき事だと思います。より少量の鉄でより多くの事ができるということですから決して悲しむべき事柄ではありません。より軽量の自動車は燃費の向上と省エネルギーを、構造物ではより多様な構造物が可能になるのですから。
 そのとき、より高い生産性とより良質の鉄を生産することのできる製鉄所に鉄の製造を担って欲しいと思います。そうすれば社会全体としてより少ないエネルギー消費でより多くの鉄を生産でき、限りある資源をより有効に使うことができるし、環境への影響もより優しくなると思います。また世の中の鉄の利用者はより安い鋼材を利用できることにより、あまった費用を他の部分に回すことができ、全体をより豊かにすることができます。より少ない人間で製造業の基幹部分が担える事で、余剰人員は他の分野の仕事に就くことができ、より多様なサービスを提供できる社会になります。つまり我々はより豊かな生活を享受する事ができます。
 つまり高い生産性と良質の品質を誇る会社に、その分野を支えてもらえば人類全体に取ってプラスになります。もちろんその製鉄会社も儲かります。だから、この社会のなかで、鉄鋼生産量が増えないことや、鉄鋼業が産業全体の中でしめる割合が相対的に小さくなることや、製鉄業に従事する人の人口比が小さくなることは決して悲しむべき事ではないと思います。
 上記の様な意味で、製鉄業の生産性の向上と品質改良は、製鉄業があらゆる製造業の基礎であるが故に、またその生産規模が巨大であるが故に、人類が今後進んでいく方向の枠組み(省エネルギー、資源節約、環境との調和等々)を決める上でますますその重要さを増していると思いました。製鉄業は人類社会の根幹を支える産業なので、キーテクノロジーとしての重要さは増すことはあれ減少することは無いと思いました。

 早くから国際競争に曝されその生産性の向上と品質の向上に勤められた製造業と違い、官僚統制と行政の様々な規制の基に競争と改革が遅れた製造業以外の分野は今まさに始まろうとしているビッグバンが突きつける改革にあえいでいます。金融業、航空業、海運業、流通業、建設業、不動産業、・・・・等々、また医療、教育、農業の分野も改革を迫られています。
 他の分野がその改革に伴う苦境にある現在、日本の繁栄の根幹を支えているのは早くから自由競争、国際化、の圧力に曝され世界一の技術力、生産性を獲得した製造業であると思います。製造業の優位性に他の分野がおぶさり、あぐらをかいて改革が遅れていたのがここ最近の日本かもしれません。そんな思いがした見学会でした。

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2.「高校理科教育と製造業との関わり」

 表題テーマに関わる議論での要点はいわゆる“理科離れ”“モノづくり離れ”の問題だと思います。私はこの問題を読み解く鍵は、
(1)GDPの中にしめる製造業の割合の低下
(2)少子化の傾向と高校・大学進学率の増大
にあると思います。

(1)GDPにしめる製造業割合の低下が意味すること

 生産性の向上と品質の向上は今後とも重要な課題ですが、量の拡大は重要では無くなります。そして産業全体の中で製造業のしめる割合は減少していくでしょう。このことが理科離れ、物づくり離れとも深く関係するし、現在鉄鋼業を含め多くの伝統的・基礎的(人間生活の根本に関わる物の製造をしているという意味)製造業が直面している問題にも関係することだと思います。

 私が生まれたばかりの頃(昭和20年代)の、私が生まれた町の古い遠景写真を見ると平野部のほとんどが水田でした。その中に鉄道線路が一本通っており駅の周りにわずかな人家の並びを見るのみです。それ以外と言えば海岸部に広がる3つの大企業の工場だけでした。つまりそのころの私の住む所は周りすべてが水田で、農業以外の主な仕事は海岸部に偏在する製造業だけだったのです。
 私の子供の頃の記憶から行っても昭和20〜30年代の工業高校には勢いがありました。その頃には、優秀な人が工業高校に進み、科学技術を学び教える事に熱気があったように思います。それはまさに科学技術が国の礎であり、科学技術の進歩が即文化的な生活、便利な生活、豊かな国家を実現するという認識を大人も子供も持っていた時代です。それ故に昭和の初期に工業高校が造られ、若者が競って入学しました。
 しかし今や製造業以外の様々な業界が発達しました。金融、運輸流通、建設、不動産、医療、教育、様々な小売業、外食産業等々。そして様々な職業の中で製造業の占める割合は確実に下がりました。我々が生きて行く上で必須のモノをつくる産業の割合が下がったのは、皮肉にも製造業の生産性の向上があったからです。日本の科学技術・工業技術は世界的に見てもトップレベルに到達しました。そのためより少ない人数、より少ない経費で必要な物を生産できるようになりました。その余剰の力が他の分野、特にサービス業の発達を可能にし、その成長を促したのです。
 そのため製造業に就くことがすべての人々のあこがれでは無くなったのです。今日製造業に就職することに対して特別の切実感やあこがれはありません。製造業のさらなる進歩が何か新しい局面を切り開いてくれるという実感を普通の一般人だれもが持つということは無くなったのです。工業技術の進歩は大切なことだが、それはその方面の能力の優れた人に任せよう、任せればよい。自分は金融業に進もう、教育産業で生きよう、小売業に就職しよう・・・・となったわけです。だから一般の人々が工業技術の修得にガツガツしなくなったのではないでしょうか。

 このことは工業教育のみならず理科教育、自然科学教育についても言えます。
 以前、県の高校理科教育に関する研究大会で、山口大学学長の広中平祐氏を招き「これからの理工学教育」という題で講演をしていただいたことがあります。その中で、広中氏は、これからの科学は、目先の富や、生活を便利で豊かにする技術としてとらえるのではなく、文化としてとらえ、定着させていかなければならない。という趣旨の発言をされていました。
 広中氏は違った意味で言われていたのですが、ある意味でこれこそが今日嘆かれている“理科離れ”の原因かも知れません。
 それはちょうど豊かな生活が可能になり文化が爛熟した国々で、人々が文学をたしなみ、芸術をめでるのと同じ意味のレベルに科学技術が到達したといっても良いでしょう。科学技術が一つの文化になったのです。科学を学ぶこと自体が生きていく上で、また今後の進歩の為に必須の事ではなくなって、科学を楽しみ、科学をめでることができる文化レベルに達したということだと思います。このレベルに到達した社会では、すべての人が科学を学ぶ訳がありません。俗な言葉で言えば、科学は趣味人・通人の世界になったわけです。
 先年、アメリカで素粒子理論を検証する巨大加速器の建設が中止になったのもその辺の事情を端的に表しています。建設費用の巨大化もさることながら、科学が実利的に役に立つのかどうか厳しく問われるようになったのです。以前なら科学の進歩は即我々の生活向上に繋がり、人類の進化につながると皆が思っていたわけですが、現在は科学の研究費用を得るためにはスポンサーである国民への説明と、国民の合意が必要になったのです。以前は科学技術への出費はなにをさしおいても優先される事柄だったのですが今はそうではありません。宇宙開発や素粒子理論は必然的な出費から道楽への出費になったのです。
 もちろん宇宙開発や素粒子理論に代わり、環境科学や生物・医療科学分野は新たな実利的な応用も含めて大いなる活況を呈しています。同じ自然科学の分野でもその枠組みや各分野の研究員の人員構成比は社会の変化・発達に伴ってどんどん変化しています。

 結局、教育の問題も社会の変化、産業の構成比の変化、自然科学の研究分野比率の変化に密接に関係していると言わねばなりません。
 だから“理科嫌い”や“モノづくり嫌い”が増えたのではなくて、他の文学や芸術と同じ程度(すべての人が文学を楽しみ、芸術を趣味とするわけではない)に愛好者の割合が落ち着いたというわけです。製造業の生産性が向上し必要物質を生産する人員の全人口に対する比率が下がったと言うことです。それだけ生産に携わる以外の人が養えるのだから余った人々は物の供給以外の仕事(いわゆるサービス業)に就けばよい。その意味で人間社会がより豊かになったということだと思います。
 自分の経験から言っても理科が好き、数学が好き、ものづくりが好きと言う生徒の割合は昔も今も余り変わらないと思います。変わったのは、理科や数学や工学以外に面白いことがたくさんできてきたということ、またすべての人が理科や数学が好きである必要はなくなったということです。すべての人がすべての事柄に通じる必要はないというふうに世の中の認識は変わってきました。世の中が複雑になりすべてを一人の人間でカバーできないし、すべてを習得できないと言う面もありますが、それよりも、すべての人がすべての事柄に通じる必要はないという認識だと思います。すべての人が文学を楽しみ、芸術を理解しなければならないということは無いと同じように、すべての人が科学技術、工業技術に習熟しなければならないということが無くなったのです。それらを知らないで生きてゆく我が儘が許されるほど豊かになったということかもしれません。

(2)少子化と高校・大学進学率の増大が意味すること

 戦後一貫して高等学校、大学への進学率が増加してきたことは周知の事実です。とくに少子化の進展に歩調を合わせて。
 よく高校生、大学生の学力の低下がよく言われます。しかし一つの学年の生徒を就職する子供・進学する子供すべてを含めてみたとき、学力の絶対的レベルも、同一学年の中でのできる子・できない子の分布状況も昔と変わっていないと思います。これは私の教師としての経験に裏打ちされた感じですから事実だと思います。
 高校・大学の生徒の学力のレベルの低下は、ただ単に相対的に学力の低い子供たちも高等学校に進学するし、大学に進学するようになったと言うことだと思います。社会の変化に伴い子供たちの意識や価値観は変化していますが学力そのものは変わっていません。上層部の学力は今も昔も変わらないし学力の低い子がいることも昔と変わりません。入学するのが難しい大学の状況は今も昔も変わらないと思います。変わったのは進学率の増加に伴って学力の低い子を抱える高等学校や、大学の割合が増えてきたということだと思います。それは結局社会が豊かになり、その必要が無いのに上の学校に進学させることができる余裕が生まれたと言うことでしょう。また本来大学と言うところは学問をするところだったのに、学問以外の目的で入ってくる学生を抱える余裕を社会が持ち、そう言った生徒を抱える高校や大学の運営が許されるようになったと言うことでしょうか。中学校訪問を通して中学校の先生方に中学生や中学生の親の意識・考え方を聞きましても今まで以上に普通科指向、大学指向は増えています。工業高校のレベルの低下もその為に起きました。今は少なく生んで大事に育てようという時代です。教育費にかける費用は増加の一途をたどっています。そして今すぐにその方向の流が止まることは無いでしょうし、止めることはできません。
 一方では、進学率の上昇に伴い、わゆる学歴(特に学力レベルが低い学校の学歴)と社会的成功が結びつかないという認識も親の中にでてきています。そのため進学率の上昇の流が永久に続くかどうかは分かりません。そこには教育に伴うコストの問題があります。今までは教育にお金をかけて上級の学校、難しい大学に進学することは子供の将来を保証し、自分たちの老後を守るという思いがありました。しかし今時代は変わりつつあります。あまりにも高額の教育コストは自分たちの老後の生活を圧迫し、親自身の生活を圧迫し制限します。そのため、むやみに子供に勉強を強いたり過度に教育費に金をそそぎ込むべきではないという親も増えています。教育についてもかける費用とそれから得られる効果との兼ね合いが問題になる時代になりつつあります。
 さらに付け加えると、世の中で必要とされる科学技術・工業技術のレベルはまますます高度になりその習得はますます難しくなっています。製造業もより能力ある技術者を必要としています。どの企業もできるなら能力のある人材、頭の冴えた人材を欲しい事情は今も昔も変わりません。製造業で新しい商品の開発・研究をする為には、まず基礎的文献を読みこなす語学力がなければ話になりませんし、その中に書かれている工学理論・物理理論を数学を用いて理解できなければなりません。そのレベルの実力を大学卒業時に持てると予測される高校生の比率はごくわずかです。だから入学するのが難しい大学の卒業生を企業は採用したがります。もちろん実際の研究開発は試行錯誤でやってみなければ分からないという面がありますし、生産現場の中から新しい着想、改良点が発見され、経験則が導かれて発達すると言う面があります。理論やメカニズムの詳細は後から解かってくると言う面もあります。しかし、そういった経験的な部分についても能力、資質が必要とされます。

  

 人生経験を積み、歳取って解ってきたことですが、また様々な学校で色々な生徒を教え・我が子を育ててみて解ってきたことですが、人は様々な才能の差をもって生まれてきます。同じ親から生まれても子供により持っている才能は千差万別です。そして人はそれぞれが、その能力に適した分野で仕事を得て、生きてゆくことになる。その能力や才能に適した生き方をすることが幸せな人生が送れる道です。
 そのとき、学校の在学期間と言うのは、モラトリアム(執行猶予)期間である言われます。それはまさに、自分の能力を見極めて将来の職業との折り合いを付けていく期間です。自分の将来の生き方を見定める調整期間です。中学から高校へ、また高校から大学に進学するときそれぞれ子供たちは選別され振り分けられます。その過程を通じて親も子も各自が持つ能力を知り自分の進路に納得していきます。やがて大部分の子供たちは自分に適した道を見つけていきます。それで良いのかもしれません。人にはもって生まれた能力、才能の違いや気質の違いが有るのですから。
 世の中に様々な職業が在りますが、人が幸せになる道は難関大学に合格し大企業に就職する事ではありません。各自の能力を十分生かせる職種について各自の持ち味を出せる仕事をすることです。進路選択で大切なことは「各自が感じる誇り・満足感・幸福感以外に客観的に職業の優劣を決めるものは無い」ということに気付くことです。
 この認識が自分の中に確立してから、学校が持つ生徒の振り分け機能を素直に認めることができるようになりました。学校間に存在する学力差もあまり気にならなくなりました。しょせん学力は様々な能力の一つでしかないからです。 結局、人間評価の本質は、仕事ができるできないとか勉強ができるできないではなくて、その人のもつ人柄です。子供達の中には、ひねくれた子や、利己的でわがままな子供もいます。しかしそういった子供達も根本の所は幸せになりたい、人柄良く生きたいと思っています。教育の本質は子供達の中にあるその辺の気持をうまく芽吹かせてやることだと思います。学校の役割は、知識を授けることもさることながら、子供達の持つ良い人柄を伸ばしてやりながら、彼らがこの社会と折り合いをつけていく、つまり自分に適した職業を見つけていくことを助けてやることではないでしょうか。

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3.前項の二つの変化が促す教育現場の変化

 前記二つの変化が、教育現場に変化を促しています。とくに高校では四つの変化が起きています。

(1)教科の選択制の導入と拡大。

 この制度の導入の目的は、生徒が多様化しているので、その多様化に応じて様々な選択の幅を広げるということです。社会や産業・職業の多様化に伴い生活も多様化しているので全ての生徒が同じ事を学ぶのでは時代にそぐわないということです。それと同時に学力優劣が広がっているからそれにも対応しようという面もあります。
 理科にしても30年前の我々は物理、化学、生物、地学のすべてを履修しました。数学も数T、数U、数Vのすべてを学んでいました。ところが今は理系に進む生徒でも前記理科四分野のすべてを学ぶことはありません。せいぜい4科目の中の2科目です。そして実生活にあまり関係しない地学を履修する生徒は激減しています。地学の講座をまったく開講しないという高等学校も増えてきています。
 履修する科目数は減少しているが、各科目の内容は我々が習ったころに比べると確実に難しくなっています。物理一つを取ってみても普通科の進学校の生徒でもそのすべてを理解するのはかなり難しくなっています。その方面の才能を持っている生徒でないと完全な理解は難しいでしょう。数学にしてもそうです、学習範囲は広がり難度はあがっています。
 教科の選択制の導入と拡大とは、結局それを必要とする者には徹底的に教えるが、その他の者はそれを学ばなくても良いようにしようという考え方です。

(2)総合学科のような今までの普通科、工業科、商業科、農業科と言った枠組みでは捉えきれない学科の創設。

 今山口県で総合学科を設置しようとしている学校は普通科高校ではあるが学力の高い生徒を集めた進学校ではありません。学力に於いて2番手、3番手の学校です。そしてカルキュラムの内容は選択制を中心にしていますが、どちらかと言えば大学に行って学問を学んでいくうえで必要な基礎を与えるとか、研鑽を積んで知識の体系を習得する(理系の科目は特にこの傾向が強い)といったものより、実学を重視し体験を通して楽しく学べるといった種類のものが多いのです。総合学科では社会の変化に応じた新しいカリキュラムも取り入れようとしていますが、内容は総花的で漠然としており高校レベルで取り扱うには中途半端になるものが多いのが実情です。それらは言葉は悪いのですが、学力は高くはないが、高校に進学したいという生徒を受け入れ、高校のレベルでの子守をするという感じなのです。だから学業を習得させるというよりも自分をみつめ自分の進路を見つけることを重点にした学校だといえるでしょう。総合学科となった学校の前身は、全国的に見ても実業高校や実業科を併設した普通校が多く、内情は普通科志望だが大学進学は少し難しい、かといって完全な就職希望でもないといった部分の受け入れを狙っているのではないでしょうか。
 ここのところをもう少し考察してみます。普通科の高校で学ぶ内容を冷静に見てみますと、それはあたかもすべての生徒が大学に入って学者になる為の勉強の予備段階をしている様な内容です。その傾向は理科や数学で顕著です。大学で学ぶ物理学や化学に繋がるような物理や化学を普通科高等学校では教えています。また大学の数学科や工学部で数学を学ぶ者に通じるような数学なのです。そう言った方面に進まない大多数の者にとって、高校卒業後はおそらく実生活にはほとんど役に立たないと思われるものです。勉強が嫌いな生徒は、「こんな事を学んで何の役に立つのですか?」と問いますが、教師はその答に窮するのが実情です。まさに学者になるためのような勉強を教えているのですから。これは国語や社会の歴史や倫理についてもその方面の学者を育てるためのカリキュラムと言えます。今の社会情勢を考えると社会科の地理や政治・経済、あるいは英語ならぱ社会生活をするために実際に必要となり役に立つかもしれませんが、それ以外の教科はそれを必要とするごくわずかの人以外には実生活ではほとんど役に立ちません。それならば学校の一番の役目は生徒の適性を生かせる道を見つけてやることだと割り切って総合学科のような発想でよいのかもしれません。

(3)皆が一律に同じカリキュラムを履修するのではなく大学の単位制のような形での履修形態の導入

 今山口県の公立高校で単位制を導入しようとしている学校は学区内の学力が高い子を集めている進学校です。だからここで導入されようとしている単位制はまさに上記(1)の教科選択制と同じ発想です。それは、理系に進学する者は他の分野の履修を捨てても理系科目に集中し理系分野の実力をつければ良い、理系にすすまない者までが理系の科目を履修する必要はないという発想です。極論すれば理科教育について言えば一部の能力ある生徒は鍛えるが、そうでない子は他の部分で能力を発揮すればよい。苦手な子まで勉強させて苦しめることはないということです。

(4)小学区制や総合選抜制をすてて大学区制に移行する

 もともと小学区制は、普通科高校の学力における学校間格差を無くするために、各学校に入学できる者の住居地域を小さく区分して各地域の子供はできる子もできない子も地域の学校に行くようにすることでした。また総合選抜制も、学校間の学力格差を無くするために大都市で実施されていた方法で、同じ地域にあるいくつかの高校の入学生を一緒に選抜して成績が偏らないように生徒を各学校に振り分けようという制度でした。
 ところが今日、各県の教育委員会はそれらをやめて大学区制に移行して広い範囲の高等学校の中から自分に適したものを選べる様にするべきだと言っています。つまり生徒の多様化に対して学校の多様化を実施し、その多様な高校の中から生徒が自分に合った学校を選択できるようにしようというわけです。社会や生徒の多様化に対応しようというわけです。
 そうなると、学校間の学力格差を容認し、受験生がその成績に基ずいて輪切りにされその能力に応じて振り分けられることになるかもしれません。つまり成績の良い子は一つに集めてそれなりの教育をし、そうでない子はそうでない子で集めてそれなりの教育をしようということです。今の世はそれを容認し押し進めようということでしょうか。

  

 上記の(1)についてはかなり前から行われており、(2)と(3)は試験的な試みが始まったばかりです。そして(4)についてはやがてそうなるでしょう。
 このような改革の試みは結局次のように考えることができるかもしれません。昔は上の学校に進学するしないで分けられていた、またその出口の就職先の職種、産業構造も単純だった。しかし今や、学力のある無しに関わらずほとんどの生徒が高校に進学することになり、社会の職種も多様なものになった。それならば学校間に生じる学力格差を容認しよう、また多様性にも対応しようということです。ここで言う多様性には二つの意味があります。能力の種類の多様性の意味と、一つの分野の能力について優れているかそうでないかの意味です。そう言った二つの意味での能力差による振り分けを実行しようと言うことです。そうすることによって他の産業と同じように様々な規制を取り除いて教育を今一度効率化できるかもしれないということです。
 上記四つの流により、当然教師間や学校間に競争原理が入ってくるでしょう、選択の多様性に対応するという大義のもとで生徒間の競争が強化されるでしょう。教育は人間性や心の問題を取り扱う部分ですが、ここにも市場の原理が適用されようとしています。競争の激化に伴い、塾や、受験産業の成長、登校拒否生徒の増大や、いじめ問題の増大など、様々な矛盾もでてきています。しかし、社会変化への柔軟な対応や選択の多様性の導入を通じて教育の中にも市場の原理を導入することで、このような矛盾も克服できるのではないかと考える人も増えています。これがどういう結果になるのかはなかなか予測しがたい面がありますが、手探り状態であっても少しずつでもその可能性を探ってみなければならないのかもしれません。教育だけが聖域と言うことは許されないでしょうから。

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4.今後の教育の課題

 1990年まで冷戦が戦後の世界情勢を決めてきたのは確かです。そして冷戦が共産主義側の一方的な敗北で終わり、今後は自由主義に基づく資本主義で行こうということになりました。人間とは本来利己的な生き物だし、自分さえよければ良いと考える強欲な面かあります。そういった生物が営む社会をコントロールする方法としては共産党の一党独裁の官僚機構では結局旨くいかなかったのです。結局、資本主義の論理で規制された元での自由競争に基ずく経済活動、つまり住民の一人一人の意見が自然に反映される市場原理と、民主主義選挙による上部権力構造の取り替えメカニズムしか旨くいかなかったということです。
 その時、民主主義の部分は良いとしても競争原理で何事も判断されることは何ともやりきれない面もあります。何事も自由競争での価値観に左右されるということが人間に様々なストレスを生み精神的に病む人間を増大させています。自由主義はそこの所も市場の原理と自由主義に基づく自由な選択で乗り切れると見なしています。出世の為に、金儲けの為に、豊かな生活の為に体を酷使し、精神的なストレスに曝されるかもしれない。しかしそれが嫌なら程々の金儲けと、程々の豊かさで精神的安定を求めて競争からドロップアウトすることも自由なのです。ドロップアウトする選択も各人に任されているというわけです。

 実際、今日ほど精神世界が強調されて、心の安定と平和を求める方法を解説した本が出版されている時代はありません。これこそが民主主義、自由主義、資本主義、市場主義の21世紀を根本のところで支えるキーテクノロジーとなるでしょう。そして社会科学や自然科学と関連しながら、そこらの分析が深まりテクニックや理論が発展していくでしょう。
 脳は体と化学的、生物学的につながっています。だから脳は体と相互作用します。ジョッキングやウォーキングすることにより脳が瞑想状態に入り心の平静が得られることは良く知られています。その他様々なスポーツにより生き甲斐と心の平静や安定が得られます。 また音楽や絵画や書道などの趣味もそうです。耳から入る音の刺激を通じて、また目からの視覚的な刺激、手と目からの刺激の相互作用などにより、それらが脳内に一種独特な刺激を生み出し、生き甲斐や喜びを与え、心の調和を生み出す。また世のため・人のために働くボランティア活動等や隣近所の助け合いも究極のところは、この人間社会で心の平静を得るための方法ではないでしょうか。様々な趣味やボランティア活動にはそういった働きがあるようです。
 ただしどの様な活動で心の調和を得るかは人それぞれです。スポーツをする事で心の調和が得られる人もいれば、楽器を演奏する事や、書や座禅を組むことで心の調和を得る人もいます。さらに付け加えると、そういった趣味・運動には依存症になる傾向もあるようです。ジョッキング依存症の人はジョッキングするしんどさ、面倒さを上回る何か(つまり心の平安)が得られるから、走ることを苦にせず夏の暑い日でも、冬の寒い日でも走れるのでしょう。そういった活動は、人が生きていく上での心の安定と生き甲斐を与えてくれるから続くのだと思います。それこそ比叡山千日回峰の修行により阿闍梨となる道でもあるし、映画「フォレストガンプ」でガンプが心の平静を求めて走り続けた理由でもあります。(こうゆう映画が作れて、それがヒットするということもアメリカの懐の深さかもしれませんね。ガンプと同じ年代を生きた我々には、この映画は感銘深い)

 この歳まで教師をやって判ったことですが、子供たちは本当に精神的に不安定な状態にあり、様々な悩みを抱えています。また親たちも子供に劣らず不安で悩んでいます。そのようなことが見えるようになったのも、今の自分が不安や悩みが少なくなり、世の中を達観し、自分の心をコントロール出来るようになったからかもしれません。
 今後の教育は単に知識を伝授したり、知識の理解力、応用力を鍛えるというようなものではなくて、もっと根本的な人としての生き方、人格・人柄の形成、心の安定を得る方法といった問題を取り扱うようになると思います。それは既存の心理学とか精神分析といった枠組みを遙かにこえて、脳と体についての実証的、科学的、生物学的成果にもとずく具体的な方法論を伴って表れてくるでしょう。各自の心をコントロールし、いかにして幸せに生きるかを伝授し学ぶ時代になりつつあるように思えます。
 確かに日本の製造業は世界一の生産性や高い技術力をもっています、そして物は溢れ社会は豊かです。それも大切だがそれだけではないように思います。日本はまだまだ落ち着いた雰囲気、豊かな精神性を持ち得ていないように感じます。結局人間の幸せは消費の豊かさではなく、心の豊かさをどれほど持ち得るかではないでしょうか。

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